リバイバルの歴史まとめ

                                         2016年5月6日



  アズサ・リバイバル  ・・・ ペンテコステ、カリスマ派、アセンブリ、ホーリネス教団等に引き継がれた 大リバイバルの原点
                           YouTube   アズサストリートのリバイバル


  リトルトーキョー(小東京)・ロサンゼルスアズサリバイバル(制度化したから激しいリバイバルは終わり、他の地へ飛び火したといわれる) リトルトーキョーはロサンゼルスのダウンタウンに位置する。 この「聖霊のバプテスマ」と「異言」と「いやし」が伴う、聖霊による激しいリバイバルは世界中に飛び火して、ペンテコステ運動(プロテスタント)、カリスマ運動(カトリック等)という形で展開していった。  ただし、現在のリトルトーキョーはロサンゼルス市の小さな1区画で、日本人はほとんど姿を消し、中華系・韓国系のビジネス街であり、リバイバルしそうな雰囲気ではない。 また、アズサ通りは現在は存在しない。(最近、市によって 標識だけが付けられた)

  このリバイバルの終わり頃に語られた預言は、「終末の大リバイバル」の予告と考えられている。すなわち、

    『100年後には、このリバイバルよりも もっと大きなリバイバルが起こる』(1909−1910年の預言 ・・・ or 富田慎吾 師のメッセージでは、 1916年の預言?)


  (アズサ・リバイバルの経緯)

  1906年、黒人の教役者ウィリアム・J・セイムーアWilliam J Seymour、 父は黒人奴隷、南北戦争)がカリフォルニア州ロスアンゼルスの集会(小さな黒人のナザレン教会)のための招待状を受け取った。彼はヒューストン聖書学院の学生であったが、まだ「異言」を伴う「聖霊のバプテスマ」を受けていなかった。彼は、初代教会の人たちが聖霊に満たされたほどにはまだ満たされていないことを知り、その同じ聖霊の満たしを神に熱心に求めていた。
  しかし彼が西部のその教会まで長距離を汽車で行き、使徒行伝2:4から聖霊のバプテスマと異言について一度だけ語ったところ、”異端”扱いされ、それ以降予定されていた集会から教会の門戸が閉ざされてしまった。

  その後バプテスト教会の信者であったアズベリー夫妻が、セイムーアを ボニー・ブレー街にある自宅での祈祷会に招待した。 1906年4月9日、他の黒人のクリスチャンたちとともに祈ったこの祈祷会で、行き場のない彼を最初に泊めたエドワード・リーと、他の6人が、破れるがごとくに聖霊に満たされ、異言を語った
  それから3日間、夜も昼も集会が続き、数100人ものいろいろな人種の人々がその小さな家に押しかけてきた。家の中には強い主のご臨在が満ち、多くの人たちは家の中へ足を踏み入れるとすぐに異言を語り出した。 初日に癌をいやされたある夫人は、「次の日の朝には、その家に近づくことも出来なくなり、多くの人が神の臨在の前に倒れました。 町全体が興奮に包まれ、病人はいやされ、罪人は家に入るやいなや救われました。」と証言している。 4月12日にはセイムーア自身も聖霊のバプテスマを受け、人々の激しい賛美によって、この家は文字どおり揺れ動いた。

  その後、会場を探して、アズサストリートにある以前メソジスト教会であった古い建物が見つかった。 二階はアパートで、一階は一つの大きな部屋であり、隣が石塔屋、馬屋、材木置場だったので、徹夜集会をしてもどこからも苦情が出ないという、神様によって特に備えられた場所であった。 1年後には1300人になった。 実にここで、3年間も強力なリバイバルの集会が続けられたのである。
  このリバイバルについて、フランク・エワートは、 「初期の頃、著者は多くのアズサストリートにいた説教者や働き人と交わりをもった。ニュースは遠く広く伝わって行き、ペンテコステ(五旬節)の日(使徒の働き2:1−4)に世界を驚かせたリバイバルと同じように、ロスアンゼルスにリバイバルがやってきた。 ・・・」 と証言している。(それゆえ、この流れを汲むプロテスタントの聖霊派は「ペンテコステ派」と呼ばれている。)

  リバイバルの為に必要と考えられていた条件は何も無かった。楽器は何一つ使われなかったし、また必要でなかった。聖歌隊は、天国の合唱隊と呼ばれるもの によってとってかわられた。この賛美は文字通り聖霊によってなされたものであった。これは多分これらの集会における最も超自然的な驚くべき出来事であっ た。 天国を訪れたとき耳にするであろうと思われるような天使の合唱が聖霊の臨在のもとになされていた。 献金は行われなかったが、目撃者の話によるとセイムーアは人々が押し込んだ五ドルや十ドルの紙弊をポケットからはみ出させながら歩いていたということである。 働き人たちの為に食糧が日々に持ちこまれていたが、どこから運ばれてくるのか誰もたずねる者はなかった。 神がすべてを備えられたからである。そしてすべての栄光と賛美が神に帰された
  他の人の証言では、ここで朝十時から夜十二時まで力強いペンテコステのリバイバルが見られた。 何百人という人々の心に「ペンテコステ」がやってきた。礼拝が無い時、人々は祈っていた。 セイムーアはあくまでも謙遜で、二つの重ねた空箱の後ろに座り、祈りの時にはいつも自分の頭を上の箱の中に突っ込んで祈っていた。集会はすべて聖霊の導きによって行われ、公式的なプログラムに全く従わなかった。 献金も宣伝も組織も無く、ただ神の臨在が集会を導き、人々を取り扱い、矯正した。 子供も赤ん坊も静かであり、人々は手を上げ、聖霊様の波が次から次へと会場を押し流していた。

  神は代価が払われなげれぱ祝福を注がれない。この場合においても例外ではなかった。祈りが非常に重要視された。人々は集会の前には習慣のように祈るために集った。セイムーアは説教を終えるとひざまづき、祈りはじめた。会衆は、言われなくても、長時間祈り続けた。 いやしは2階の祈祷室で行われた。 2階には癒された人たちが置いていった松葉杖などが一杯積まれた。

  また、驚くべき事の一つは、これらの集会に出席した多くの人たちは、非常に多くの色々な教会から来ていたことである。3年間、夜も昼もきれまなくリバイバルは継続した。 外国からも、諸大陸から多くの人々が、このカ強い天から送られたリバイバルを見るために訪れてきた。
  そして聖霊の火は飛び火して、世界中に遠く広く燃え広がっていった。 アズサ・リバイバルから、 アセンブリー、キリストにある神の教会、ペンテコステ・ホーリネス、フォースクェアなどの教団が生まれ、現在は 6億人の信者に影響を与えているといわれる。


  




   ピョンヤン・リバイバル   ・・・・ 1903−1908 韓国の信仰復興運動(リバイバル)


  (1) ピョンヤン・リバイバル と 迫害:

  1903年 ハージ牧師らによる、ウォンサン・リバイバル集会が発端。 ウォンサン(元山、今の北朝鮮の東側・港湾の町)で、宣教師たちが集まって祈祷会をしていた。 その時、カンウォンド(江原道)で働いていた メソジスト教団のハージ牧師が、みことばを取り次ぐ時に 聖霊様の油注ぎを受けた。そして悔い改めを始めた。 ”わたしは驕慢(きょうまん、おごり高ぶること)でした。 わたしが祈らなかったために、高慢になり、奇跡が起きませんでした。” その時、聖霊様による大きな感動を そこにいた宣教師たちが受け、恵みを受け みことばをいっせいに取り次ぎ、このウォンサンの聖徒たちが恵みを受け、ピョンヤンに伝播し、さらに南へ南へと流れていって、韓国全体を覆うリバイバル運動として広まった。

  1907年ピョンヤン・リバイバルは、 悔い改め、祈り、伝道 の リバイバル運動だった。 ピョンヤンではL・A・ハーディーら宣教師たちによる聖書研究会で広まった。
  1907年に、ピョンヤンの ジャンデヒョン教会に リバイバル運動が起きたとき、その教会の代表長老が立ち上がって悔い改めた。”私の友達が死ぬ間際に財産を私に預けました。そして家族の面倒を見てくれ、と言い残しました。しかし私はその一部を使い込んで戻しませんでした。今、それを悔い改めます。私がこの礼拝を終わった後、すぐに戻します。” 人々はショックを受けながらも、恵みを受け取った。 続けて、他の一人一人が立ち上がって悔い改め、あるいは床をたたき、床に転がって悔い改めた。
  そして彼らはその日から変わった。 アルコール中毒から抜け出し、麻薬から抜け出し、賭博から抜け出し、罪と不義の放蕩から抜け出し、罪のピョンヤンから、『東洋のエルサレム』とまで言われるほどに変わり、数えきれないほど多くの奇跡が伴った。

  この光景を見ていた ヘリス宣教師は、次のように証している。 ”たくさんの方が読み書きを習い、偶像崇拝が無くなり、酔っ払い、賭博、殺人が無くなり、狂信的な儒教・仏教信者たちが変わった。 そして、学校と病院が建てられ、 禁酒、禁煙運動が活発に展開され、女性の地位が向上し、土俗宗教と偶像崇拝から解放されました。 さらに、その後の日本植民地政策に対抗する民族意識を高め、独立運動を起こす基礎(*)となったのです。”
  リバイバルの結果、”韓国のソドム”とまで言われたピョンヤンが、わずか15年で 東洋のエルサレムになった。 このリバイバルから、『100万救霊運動』が起こり、宣教師から子供たちにいたるまで、伝道用のトラクトを持って福音を伝えた。 またこの時から、早天祈祷運動や、断食して伝道する運動が始まった。 叫びながらの祈りが流行った。(今日の、祈りの答えが無いのは、悔い改めが無いからです。悔い改めの無いリバイバルはありえない。 今のソウルは、路地ごとに飲み屋で溢れている。)
  ( ・・・・ 以上、ヨイド純福音第3礼拝メッセージ、2010 8/22 より)

  1910年 日韓併合。 1919年 3・1独立運動、独立万歳運動では監理教(メソジスト)の参加者が多かった。
  1937年 盧溝橋事件を受けて 総督府は公然とキリスト教会への神社参拝を強要するようになった。 1938年 政府によって統合された 日本基督教会の富田による神社参拝説得に対し、長老派牧師・朱基徹(チュ・キチョル)は「神社参拝は十戒に反する偶像崇拝」だと答え、殉教した。(4度投獄され、5年間獄中にあった。拷問で爪はすべてはがされ、遺体は骨と皮だけになっていたという)

  日本の敗戦後は、信教の自由が保障され、韓国全土にキリスト教が広がった。 朝鮮戦争の際、南の多くの人々が北朝鮮軍に殺され、(目印として)十字架を首からぶら下げた人々が 米軍によって庇護を受けた。 そのため、米国プロテスタントの影響を強く受けるようになった。

  現在、カトリック10%、長老派・ペンテコステ派等のプロテスタント20%といわれる。 戦後の韓国プロテスタントは、人々を従来からのシャーマニズムに似た神霊性を強調する神秘主義に引き込み、急成長をもたらした側面がある。 ・・・ 「異言」の激しい祈り方が、シャーマニズムに見える。しかしその反動で90年代以降は”エリート主義”になり、以前ほど聖霊を求めなくなった。   ⇔  日本の戦後プロテスタントの不振は、福音派の”理性主義”が日本の精神風土と合わなかったため。また、侵略・妥協・迫害の「のろい」が多くかかっているため。 ・・・ ”反カリスマの教理”が間違っているため聖霊様が働かれない。



  (2) その後の 韓国のリバイバル:

  韓国リバイバルのルーツは1907年の平壌リバイバルにあります。今の北朝鮮の平壌で大リバイバルが起こりました。でも1910年から始まった日本による 植民地支配で、神社参拝をさせられるようになり、リバイバルの火は消えていきました。

  その後、1950年に朝鮮戦争が起きて、北のクリスチャンたちが大勢、南に逃げてきました。そして彼らが韓国全土に教会をつくったのです。朝鮮戦争休戦(1953年)後には、多くの家族が北と南で分断されましたから、神様に叫ぶしかない状態が生まれ、そこから韓国のリバイバルが始まっていったのです。

  1974年にヨイド広場で100万人集会「エクスプロ74」が開かれ、韓国のリバイバルにさらに火が付きました。70年代、80年代はリバイバルが 続いていましたね。でも90年代に入った頃から、その勢いが止まってきたように感じます。次の世代が教会から離れていく傾向も現れてきています。
 またその頃から、インターネットの普及によって、反キリスト的な動きと言いますか、キリスト教や牧師に対する批判がネット上でものすごく広まるようになりました。最近では一般の新聞などで大教会の牧師のスキャンダルが大々的に報道されています。

  リバイバルの初期と現代では語られるメッセージの内容は変わってきましたか。
  私が幼い頃に語られていたメッセージは、十字架の道。イエス様を信じて生きることは決して楽な道ではなく、十字架を背負って歩む厳しい道だと。賛美も、そういう賛美が多くて、よく泣きながら歌ったものです。

  しかし、いつの間にか(米国等からの)繁栄の神学がよく語られるようになりました。イエス様を信じたら事業は祝福される、お金も入ってくる、全ての問題は解決される、という風に。そしてそういうメッセージを語る教会に人々が流れていきまし た。 苦難の歴史の中で、神様の前に叫ぶ祈りは与えられたのですが、それが個人的な懇願にとどまってしまったように思います。これは、キリスト教以前に韓国に存在したシャーマニズム的宗教の影響があり、祈る対象が変わっただけだとの見方もできます。神様の御心に従って生きるというよりも、現世利益を求め、人生がうまくいくために神様を求める信仰です。そして、熱心さがそのままその人の信仰の評価になってしまうという傾向があって、神様に切実に熱望すれば祝福が臨むという、自分の努力で神様の祝福を獲得できるという考えが広まりました。聖書は、 神の主権が最も大切だと言っていますよね。

  また、いろんなプログラムが外国から入ってくるようになって、プログラムによる教会成長を求めるようになりました。聖霊よりもプログラムを重視する傾向です。牧師も海外に留学して博士号を取ったような知的な人が多くなり、聖霊についてはあまり語られなくなりました。これには、聖霊を強調する教会の中に「異言を語らなければ天国に行けない」などの極論があり、それに対するアレルギーもあったのだと思います。でも、そういう知性偏重、エリート主義になって、教会は以前ほど聖霊を求めなくなりました

  韓国は儒教社会で、教会もその影響を強く受けていますから、大教会の牧師が王様のように振る舞い、一般信徒からは遠い存在になっている傾向もあります。高給を取り、高級車に乗り、いい家に住む。 一方で日本の教会の良いところは、牧師と信徒の間に距離が無いことですね。イエス様が弟子たちや群衆と一緒に歩まれたように、信徒の近くを歩んでいる。
  (by. リバイバル・ジャパン 文惠仁 姉のあかし

 
   * チョー・ヨンギ師は、金銭の霊のため3−4年前は見分けが良くなく、1−2年前から良くなっていましたが、最近また悪くなっています。繁栄の神学には大変な問題があります。 また彼に厳しく言う立場の人がいないのが問題です。(16 9月8日)





   アルモロンガ・リバイバル


  グアテマラのアルモロンガ(Almolonga)、山岳の町、1970年代までキリスト教会はなかった。偶像崇拝、不正・腐敗、無知、アルコール中毒、暴力、売春、魔術 ・・・ という、罪悪の町だった。

  カルバリ教会(El Calvario Church)の マリアノ・リスカフチェ(Mariano Riscajache)牧師、彼は、偶像崇拝し、酒におぼれていた。ところがある日、神様の御声が聞こえ、『わたしに仕えさせるために、あなたを選んだ。』 その御声を聞いた時、罪を悔い改め、3日後には 聖霊の充満を受けた。 彼の全家族も救われた。教会に大きなリバイバルが訪れた。

  その地域に福音を宣べ伝えるのに一番の障害となっていたのは、マクシミオン(呪術の偶像)があり、自ら作り出し自ら崇拝し、この暗闇が町を覆っていた。 聖徒たちは、祈りながらその悪霊と戦い始め、神様の驚くべき奇跡により、占い師たち、偶像崇拝者たちが、皆 主の御前に戻ってきた。 彼らは断食して、徹夜で祈り、サタンの束縛から自由になり、教会ごとに人々があふれるほどになった。
  この町には、1970年代には飲み屋が34件あったが、2005年には 最後の一軒が店を閉めた。 牢屋が4つあったが、段々と罪人が減っていき、1988年には ついに牢屋が閉鎖された。 町のビルには、ほとんど聖書の人物の名が付けられている。

  神様がこの町を祝福してくださり、かつての貧困、不作の地から、大きく変えてくださった。その地のどこでも掘ると、地から水が湧くようになった。 にんじんを植えると腕の太さほどにもなる。他の作物についても同様に大きくなり、他の地域から、どのようにして作物が大きく育つのか農業学者たちが見学に来るほどである。
  彼らは答えた。 ”神様によく仕えるならば、祝福は迫ってきます。” ”1年に3回収穫するので、豊かに暮らすことができます。” そして、人々はよく働く。

  聖徒数が1000名を超える教会が 24ある。 教会毎に、毎日 奇跡が起きている。 暴力に染まった家庭が 一つ一つ回復した。発言権すらなかった女性と子供が人格的に守られ始めた。
  偶像崇拝で、酒で、麻薬で覆われていた町が、キリストによって解放され、 人口も、6-7千名しかいなかったのが、2万4千名を超える都市に発展し、そのうちの90%がクリスチャンである。
  ( ・・・・ 以上、ヨイド純福音第3礼拝メッセージ、2010 8/22 より)

  カトリック教会の建物や公会堂や元ガソリンスタンドなど至る所が、主の礼拝場所として用いられている。

   (ビデオ、トランスフォーメーション(1999)より  → You tube * 注意:マリアノ・リスカフチェ牧師は現在、見分け× 金銭?この10数年で悪くなったか?ただし悔い改めれば良くなるレベル。


  




  *  東の国々: 中国、北朝鮮の状況


    キリスト教へ抑圧強化=弁護士に「ざんげ」迫る―十字架撤去に抗議 ・ 中国


   ・ (外部リンク)    北朝鮮の地下キリスト教徒(2009年)、    北朝鮮の残された教会


  * 中国(西安)へ派遣された宣教師: 2016年1月、日本在住の、ご主人が米国人、奥様がイスラエル人であるため イスラエル永住権がある宣教師夫婦が、直接、に示されて 中国の西安(旧 長安、咸陽)に遣わされた。 ご主人は、3人の器に全く別々に預言され、西安に宣教師として行くように語られていたが、このことを奥様に言うかどうか非常に迷っていた。 しかし、奥様のほうもその後夢ではっきり示され ご主人に告白。奥様は行きたくなかったが、これで 主のみこころとして、平安をもって夫婦で遣わされる事になった。 ・・・ このような重要な語りかけには、このくらい慎重に対応するべきである。 ・・・  西安は、歴史的な要衝の町で、唐の長安の時代には「景教」の本拠地だったゆえに、霊的に祝福されている。 ここでは主の臨在が強く、彼らを通して多くのわざが起こり、人々が救われている。

  中国は人口の約10%が「家の教会」のクリスチャンで、日本の人口よりも多い! 宗教を認めない共産主義のため 聖書や信仰書、教師などが圧倒的に不足している。
  北朝鮮(人口2500万人)は迫害下の地下教会の人数が50万人といわれる。(by.米自由アジア放送(RFA))  これも、日本人クリスチャンの公式の数 0.5%×1.2億=60万人と同程度!もいる。
  ただし、潜在的な日本人クリスチャンの割合は 6%程度といわれる。 by.最近の(2013年?)ギャラップ世論調査。 ・・・ 世俗的な怠慢や、牧師や教会につまずくなどして 教会に行っていないが信じている人々。 進化論を否定し 神による創造論を信じている割合は、ヨーロッパ並みに 18%もいる。 日本に聖霊様が臨めば、教会にこだわることなく クリスチャンであることを皆 大々的にあかしし、主の働きに用いられるようになると思われる。

  韓国・北朝鮮、中国などの「東の国々」のクリスチャンが、聖霊様によって一致団結することによって、リバイバルのときに全世界に福音をもたらすことになる。




   *  日本の古代・中世のリバイバル  ・・・ INRIリバイバル、 キリシタン・リバイバル



  1. 利根川水系の武蔵国を本拠地とし、軍馬を多く用いた ”関東王国”(AD500年代頃)が栄えた。この当時から、北斉と 高句麗との交流があったことが遺跡の発掘品等より明らかになっている。
  その後、伊奈利神社(=東方キリスト教会)がたくさん作られた武蔵国(元 関東王国、日本国)は、いわゆる「INRIリバイバル」(*)が起こり、大いなるしるしと不思議が起こったことが 日本文徳(もんとく)天皇實録(巻一嘉祥(かしょう)三年(850年)5月19日)に記されている。
   ・・・・・ 『武藏國奈良神(ならのかみ)の古記 = 武蔵国の伊奈利(いなり**)神の記録、  @ 慶雲2年(705) この神から火のごとく光を放つ、 A その後 陸奥国の蝦夷の反乱に際し 神霊によってこれを討ち平定、行った者すべて 誰も死傷者はいなかった、 B 和銅4年(711) 神社の中に湧水、600町(1町=約110m四方)以上の田を潤す、 C 民に疫病が流行したが、祈祷によって皆 癒された。 人命を繁栄させる所であり、崇めるべき神である。』 とある。

  INRI が伝わったのは、対馬・壱岐の国司 → 大宰府 経由で、王族クラスのみ(+ 王族につく職人など、この中にユダヤ人もいたと思われる)が通ることを許された。

  その大いなる奇跡が起こっていたのと同じ時代に、和同開珎(708)は 武蔵国在住の渡来人・秦氏の羊太夫によって作られた。 『羊』の名は多胡碑(郡司の任命の碑 ・・・ ”和銅4年に近隣3郡から300戸を切り取り「羊」なる者に与え多胡郡とした”)にあり、養蚕なども伝え、人々に尊敬されたという。 多胡とは胡人(渡来人)が多い という意味。
  そして、多胡碑の台座の下から十字架が、羊太夫の墓の石室から INRIの銅板(古銅券)が出たとされる。(『甲子夜話5(かっしやわ)六十三巻(21)  ・・・ 〔二十一〕或人曰く。上州多胡郡の碑にある〔人名〕は、蓋し遣唐の人なり。後其墓中より〔墓中とは碑下を云や。又羊の墓と云もの別にあるや〕十字架を出だす。是を「イサアカテツチンギ」〔先年舶来の紅毛人〕に長崎屋の旅舎にして、上州の御代官より示せしに、「テツチンギ」是を鑑定せよとは甚不審なりと言しと〔この意は、此物は天主教の所用。吾邦制禁のものなる故なり〕。 ・・・・ ) しかし、藤原政権によって任命されたにもかかわらず、後に一族は彼らによって抹殺されたという。
  この 羊太夫のような 東方キリスト教徒の渡来人たちを通して、は、この地に 大リバイバルを起こされたと考えられる。

  * INRI あるいは JNRI とは、十字架の上に掲げられた罪状書きの文: Jesus Nazarenus Rex Iudaeorum 「ユダヤの王、ナザレのイエス」 という意味で、東方キリスト教会が用いた イエス様の称号。 伊奈利は、単に INRIに対する万葉仮名の当て字であるのみならず、(人偏に尹(神の杖)で、聖職者、治める者)で、天地の間に立って調和させる方 = イエス・キリスト) + (示: 高杯(丁)の上に物(一)を乗せて示す、 不:高杯の上に物があらず、 奈: 木を高杯に乗せて示す = 十字架の示し


  ** 日本の古代史がいかに改ざんされていることだろうか? 飛鳥地方に住んでいた聖徳太子こと厩戸皇子(AD574?〜622?)も、ペルシャにキリスト教が伝わったタイミングから(ササン朝ペルシャ、6世紀、ネストリウス派の本拠地)、ペルシャ系の東方キリスト教信者とみなすことができる。蘇我氏(=渡来人)と同様に、少なくとも、仏教徒ではない。 日本書紀に書かれている聖徳太子の、10人が同時に言うことを聞き分けたり 予告予知したりの伝承が本当ならば、彼は聖霊に満たされた、「御霊の賜物」(Tコリント12:7−11)を忠実に用いる クリスチャンだった、ということになる。 この”超人的な伝承”は、羊太夫も同じである。
  その後の、遣唐使の時代にも、空海や渡来人たちによって、景教(東方キリスト教の中国名)が たびたび日本に流入したはずである。 さらに景教の経典の一つ:「世尊布施論」が浄土宗(来世への希望、他力本願(→救い)、悪人正機(→罪の悔い改め)、観音信仰(→マリア崇拝×))に取り入れられ、後の キリシタン・リバイバルへの伏線となっていった。

         → 聖徳太子の謎





  2. 次に大きな波としてやってきたのは、フランシスコ・ザビエル(シャビエル)等によるローマ・カトリックの伝来である。

  ヨーロッパでは、14世紀半ばのペストの大流行により、カトリックの権威は失墜し、ヤン・スフやウイクリフが現れ、後に、ルター、カルヴァンなどの宗教改革者たちがプロテスタントと呼ばれる一大教派を作り上げることになる。 そのためこの時期は、”対抗改革”と呼ばれる カトリック教会の組織を建て直し、プロテスタントの教勢拡大阻止が始められた時期であり、イエズス会はこの時期イグナチオらによって創設された。この対抗改革に伴い、主にプロテスタントに対する”異端審問所”が多く作られた時期でもある。

  ザビエルが所属していた イエズス会は、教会内部の堕落(汚職、不正、霊的倦怠)を批判し、@ ローマ教皇に対する忠誠を誓い、カトリック信仰を堅持させることに成功した。 ただし このとき、伝統的にあった民衆信仰の A ”マリア崇拝”を正式に教義として取り込んだ。 またイエズス会はルネサンス後期には、世界宣教のほかに、大学と高等教育機関の運営に積極的に取り組んだ。
  (cf. ”教皇無謬”が教義として正式に宣言されたのは、もっと後の1870年、第1回バチカン公会議で)

  フランシスコ・ザビエルは、ポルトガル王の要請により西インド植民地(インドのゴア)に赴いた。彼はマラッカで 日本人ヤジローと出会い、日本の文化に興味を覚え、1549年に来日し、2年間宣教活動をすることになる。
  偶然、1549年8月15日、聖母マリア被昇天の祝日にイエズス会士フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸した。 戦乱が続いて民衆が救いを求めていた日本では、もともと観音信仰が盛んであり、この”マリア信仰”は民衆の間にそのまま受け入れられ、イエズス会の布教当初はもちろん、後に宣教に加わったフランシスコ会も奨励し、さらに 迫害期、潜伏期、そして隠れキリシタンに至るまで、一貫してキリシタンの間で盛んだった。 後のマリア観音も、マリアを模したものでなく、既存の観音像をそのままマリアとして拝んだものだった。
  このように、日本に伝来したキリシタン信仰は、初めから 純粋に聖書的な信仰では無かったのである。

  また、イエズス会は、地域の支配者である大名に布教する戦略をとった。そうすれば領民も自然とキリシタンに改宗することになる。 1560年代に入ると、ポルトガルやスペインとの貿易による利益に着目する大名や、キリスト教の教えを封建体勢の強化につなげようとする大名も現れ、保護 を受けたり、また大名自ら受洗する者も出てきた。教会、病院、神学校も建てられ、キリシタンは急速に増えていった。豊臣秀吉により、伴天連追放令が出され る頃には、キリシタンは20万人以上にもなった。
  一番最初に殉教した いわゆる”26聖人”は、イエズス会の慎重なやり方を無視して京都で布教を開始し秀吉を怒らせた、フランシスコ会士らである。
  その後は、家康、秀忠らによって、”禁教令”が出され、ますますキリシタン迫害はその激しさを増していった。

                   →  中世末期から近代のヨーロッパの不法(4)        (外部リンク) キリシタン江戸初期の大迫害


   「子どもたちよ。 偶像に警戒しなさい。」(Tヨハネ5:21)   ・・・ カトリックの聖書の モーセの十戒の所で、偶像崇拝禁止の項目を削除している!!(「律法を変えようとする」(ダニエル7:25))

   「 ・・・・ しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。 ・・・・・ 見よ。わたしは、こ の女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな艱難の中に投げ込もう。 また、わたし は、この女の子どもたちをも 死病によって((直訳)死をもって、70人訳の 病気とは限らない)殺す。 こうして全教会は、わたしが人の思い(直訳: 腎臓= 「感情」の座) と心(心臓= 「知性」の座)を探る者であることを知るようになる。 ・・・・ 」(黙示録2:19−29)

   「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。 喜びなさい。喜びおどりなさい。 天においてあなたがたの報いは大きいのだから。」(マタイ5:10−12)


  禁教令直前には キリシタン 37万人、殉教者数は後の”崩れ”を除いて、記録にある実数だけで 4045人。記録に無いものも含めると、江戸時代のキリシタン 75万人中 30万人が殉教し、この人数は ローマに次いで 史上2位である。 殉教しなかった人は、ごく一部が国外追放され、他は”転んだ”か、”隠れ”になり、表立ってキリシタンを語る者は東北も含めて日本国内すべてに皆無となった。 他国の侵略と国内の反乱を恐れた江戸幕府は それほど、徹底的にキリシタンを迫害・撲滅したのである。 その様子はきわめて異常であり、霊的である。(忍者もキリシタン摘発に用いられた)

  この異常な迫害は、第一に、「主の時」ではなかったことが挙げられるが、霊的姦淫に対して、特に仏教に関わって「反キリストの霊」が働いたと思われる。
  霊的姦淫(=「」以外のものを崇拝すること)に対する 「テアテラ教会」への取り扱いは、ローマがただひたすら殺戮したのに対し、日本は 拷問によって”転ばせる”ことを中心に行なった。 これは、信仰の純粋さを探るものだった。イエズス会、フランシスコ会士の多くの人も”転んで”、救いを失ってしまったのはまことに残念なことである。(”穴吊り”は猛烈な頭痛を引き起こすので特に効果的だった) 転んだ上、偶像に誓わされ 戒名を与えられ、生き恥をさらした者も多い。 ちょうど同時期、ヨーロッパでカトリックがプロテスタントに徹底的に異端審問したように、日本はキリシタンに対して拷問で転ばせようとしたのである。

  しかしながら、試みに打ち勝ち、殉教を全うした人たちは、天において高い地位が与えられている。それどころか、イエス様ご自身や、終末のイスラエルに おける「初穂」の殉教者たちと同じく、「鉄の杖によって土の器を打ち砕くようにして治める」権限が与えられている。(黙示録2:27、12:5、 19:15)





   § リバイバル直前の きよめ:


  歴史的なリバイバルの前後には、近くに大きな地震が伴う傾向にある。 ・・・・・ 1906月18日サンフランシスコ地震(M7.8、3000人死、市街壊滅)、 1976年2月グアテマラ地震(グアテマラで20世紀最大、M7.5、 死者23000人以上、負傷者76000人、グアテマラ全土にわたって被害  → マヤ先住民の団結へ)、 統一新羅(7世紀中 〜 935、(660百済、668高句麗併合) 新羅は356−935)の景教リバイバル中に 779年慶州(キョンジュ)大地震(記録だけで100人死)、など


  1. 器を通しての「霊の戦い」 と、  2. 主ご自身が行われる「整え」。 地震等の災害も この一環にある。


  1.は、特に数年前に行われた Dr.金山師(使徒)(+ 2人の巨大な御使い)による、日本の強い者に対する霊の戦いが挙げられる。 立山から始まり、最終的には (おそらく伊勢の)”日本の強い者”が縛られ、(群馬県ではなく、)大分県の宇佐八幡に逃げていたところを、2014年1月15日に 底知れぬ所に落とされ本当の”真空”状態になった。 (その一つの効果として、(霊的に軽くなったので、)現在 日本への海外からの観光客が増えている?)

  2.については、他の主要な箇所で、ご自身が偶像をさばくものである。 先日 2016年4月14日、16日の熊本地震により、これに加え、加藤清正(武闘派、日蓮宗)ゆかりの熊本城が(当時の昔からの櫓(やぐら)など含め)一部損壊したのも示し的である。(熊本: 弥生時代のシャーマニズムの地、熊襲(クマソ)の地、加藤清正・朝鮮出兵、島原・天草の乱 と、血生臭い歴史の跡がある。) また 楼門(ろうもん)が完全に潰れ、本殿の一部が損壊した阿蘇神社は、肥後の一ノ宮。 熊本城の櫓が崩壊して本殿が潰れたのは 熊本大神宮で、これよりも下位。

  肥後天草の乱(1637)は、キリシタン大名であった小西行長(関が原の西側、斬首)の改易によって発生した浪人が中心的な戦士となった。その後の領主の唐津藩による搾取やききんが蜂起の原因。 → 次は佐賀県平野部直下の断層が危ない?
  長崎県島原半島については、1991年雲仙普賢岳噴火と 6月の火砕流(死者43名)がある。1792年5月には、山体崩壊・津波により死者・行方不明者15000人。

  ただし、阿蘇山近辺や大分には隠れキリシタンの集落があり、また大分県別府市は、キリシタン大名・大友宗麟ゆかりの地である。この大友宗麟は、キリスト教的な慈愛で民に慕われ、また側近者に分裂を与えるほど 寺社を粛清し、地をきよめた。 この地には、関が原の前哨戦となった”石垣原の戦い”の古戦場があり(黒田如水(官兵衛、キリシタン大名) vs 大友義統(棄教)、この戦いで関が原の勝敗が決まったといわれる)、この霊の戦いがまだ残っている。
  朝鮮出兵のとき、西国大名が疲弊する中、徳川の陣営は北九州にとどまり損耗を免れたのも、徳川が天下を取る一因となった。

  大分県中部の温泉街の地下は、断層があまりにも密集して破砕し尽くされているので、逆に、ここを震源とした地震は(固着しないので)大きな地震にならない。 ここに住んでいる人の話によると、”ドーン”と花火のような音がするが、揺れないそうである。 (別府の震度6弱は、熊本を震源(本震、M7.3、震度7)とした地震。ここでの被害はほとんど無い。) ・・・ それゆえ、地下の破砕された断層にしみこんだ水が温まり、この狭い地域が米国イエローストーンに次ぐ 世界第2位の湯量を誇る温泉地となっている。 また戦前、別府を温泉街として発展させた 油屋熊八も、米国で信じたクリスチャンだった。 彼の”もてなしの心”は観光、接客業の原点。

  今回の熊本地震は、自然地震なので、余震の回数が4/29で1000回を超え 非常に多い。また、電磁波に敏感な人によると、耳鳴りはあるが、熱っぽさ無い。  ⇔  東日本大地震、阪神淡路大地震は 人工地震と思われる。(前兆の無い、余震の少ない地震。 異常な熱っぽさの感覚(ただし、計っても体温計に出てこない)。)




   ・・・・・  「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。 上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。 それらを拝んではならない。 それらに仕えてはならない。 あなたの神、であるわたしは、ねたむ神。 わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」 (出エジプト20:4−6)  ・・・・・





   

 





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