新しい信仰の門口 U(後編)
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後編目次 

 第13課 信じる者のキリストにある特権の告白

      第14課 正しい告白と間違った告白

      第15課 繁栄の信仰 

      第16課 最も高い信仰への7つのステップ(その1)

      第17課 最も高い信仰への7つのステップ(その2)

      第18課 最も高い信仰への7つのステップ(その3)

      第19課 最も高い信仰への7つのステップ(その4)

      第20課 信仰に対する6つの敵

      第21課 神の信仰 

      第22課 信仰と一致する行動

      第23課 あなた自身の必要を神から得るためのチケットをどのように書くか

      第24課 疑い、神の素晴らしい祝福を盗むもの

      第25課 自分の言った通りとなる

      第26課 どのようにして人間の霊を訓練するか

 

 

ケネス・ヘーゲン師は長年アッセンブリーズオブゴッド教団で牧師、又巡回教師として歩んで来て、25年前にレーマバイブルトレーニングスクールを設立され校長として活躍して来られ、卒業生が3万人以上、学校教会1万人になったと聞いております。彼はイエス様に幻の中で何度もお会いし、天国と地獄を見てきた事でも有名です。聖書の卓越した教えは世界中において定評があります。イエス様から直接任命された預言者としても定評があり、私も約10年前に直接お手紙をいただきました。数年前86才くらいで天に召されました。日本では国際クリスチャンセンターの東泰男牧師が卒業生で、私も大変お世話になりました。

 

この本は1985年に私たちが翻訳しましたがどこからも出版してもらえず私たちの教会だけで用いてきました。しかし、この内容の真理、信仰が日本においては伝えられていないように思え、日本のリバイバルには必要な真理であると確信し、あまりに素晴らしいので翻訳の許可なくコピーする事にしました。誰か許可を得て出版される事を望みます。分かり易くする為に各部に説明を加えております。※印の部分

   信仰の言葉ミニストリーズ 作成 03.12.1 星野明義  




第13課 信じる者のキリストにある特権の告白    

 

 前の課において、告白とは実に次の三つのことであると言いました。

 1.私たちの信じていることを断言すること

 2.私たちの知っていることを証言すること

 3.私たちの悟った真理を証明すること

 ここで私たちがぶつかる大きな問題というのは、いったい何を告白するべきかということです。

 

 前の課において5つの種類の告白について簡単に見てきました。今日の学びでは、この点についてもっと詳しく見ていき、何を告白するべきかについてもっと多くのことを学ぶことにしましょう。私たちの告白はこれらの5つのことを中心にするものです。

?神がキリストにあって、ご自身の贖いの計画のうちに私たちのために何をして下さったか?

神が御言葉と聖霊様を通して新生と聖霊様の満たしによって私たちのうちに何をして下さったか
?

キリスト・イエスに在って、私たちは父なる神にとってどういうものであるか
?

イエス様は私たちをとりなすために天の父の右にいて、私たちのために何をしておられるか
?

神は私たちを通して何ができるか、または神の言葉は私たちのくちびるを通して何をすることができるか

 

<キリストに在る私たちの特権を知る>

 今までも言ってきたように、告白とは私たちの知っていることを証言することです。私たちは知らないことに証言することはできません。重要なのは私たちが主イエス・キリストについて個人的に何を知っているか、彼に在って私たちがどういうものであるかということです。まず第一に私たちはこの方を個人的に知ることができます。ですから一番重要なことは、新しく生まれることです。しかし、新しく生まれたからといってその人が必ずしも成功した素晴らしいクリスチャンになるというわけではありません。彼はまた、彼がキリスト・イエスに在ってどういうものであるかということも知らなければならないのです。私たちがこのお方に在って自分はどういうものであるかを知り、その知識に基づいて考え、そのことを信じて告白するなら、私たちは失敗することがないのでいす。

 

 私たちがキリストに在ってどういうものであるかを知るには、神の言葉を見なければなりません。まず新約聖書の中の教会にあてられた書簡を開いて、「彼に在って」「キリストにあって」「この方に在って」という表現のところに赤鉛筆で線を引いてみて下さい。数枚の紙にこれらの聖句を全て書き出してみるとなおいっそういいでしょう。(このような聖句が133個くらい見つかります)  ※IN HIM 彼に在ってという本は偉大な告白という題で作成しました。

 それが見つかったら今度はキリストにあってそれが自分のことであり、自分のものであると告白し始めて下さい。あなたがこれをするなら、まもなくあなたの人生があなたにとって今までと異なったものとなってくることを請合います。

 時間とスペースの関係でここではそれら全ての聖句について見ることはできませんが、そのうちのほんのいくつかを見ていくことにしましょう。

 

<キリストのうちに在って新しく造られたものとなる>

Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。

 

 「キリストのうちにあるなら」(in Christ)という表現に注目して下さい。信者たちにとって信じ、告白するということは何と革命的ですごいことでしょう。私たちはキリスト・イエスに在って新しく造られたものなのです。私たちはただ罪赦された者(赦された罪人)というだけではありません。私たちは、貧しく、弱く、ぐらぐらとしていて、罪を犯し、やっとのことでどうにかやっていくというような教会のメンバーではありません。私たちはキリスト・イエスに在って神に造られた新しい被造物です。私たちは新しく造られて、神の命を持ち、神の性質を持ち、神の能力を持つものなのです。

 

 私は17歳で回心すると、もうすぐにみんなに「僕は新しく造られたんだ。」と言ってまわりました。ですから多くの人たちが持つ問題を持つことなど全然なかったのです。私はすぐに行くところ行くところで私の人生におけるキリストの救いの恵みを証ししました。私は自分がそのことを話せば話すほど新しく造られたということが自分にとって現実となってくるのがわかりました。なぜなら私は実際、新しく造られた者であり、そういう者だからです。

 

 私は熱心に伝道しました。すなわち、牢屋の礼拝の中の礼拝において、また、道端において福音を語り、教会で奉仕しました。ある日、私が通りのかどに立っていると、私の知っている少年がやってきて、お願いがあると言いました。彼は説明して言いました。「このことを君に頼むつもりはなかったんだけど、今、急いでいるんだ。ガールフレンドと約束してて、遠くから彼女のところに来てる彼女のいとこにデートの相手を連れて行くことになっているんだ。一緒に来て助けてくれないか。この恩は一生忘れないよ。30分か40分以上にはならないようにするし、君がいる間は、タバコは吸わないし、お酒も飲まない、ダンスもしないって約束するから。」私はしかたなく、彼を手伝うことにしました。

 

 彼のガールフレンドの家につくと彼女は私にいとこを紹介しました。その少年とガールフレンドとはレコードをかけてダンスしはじめましたが私たちはしかたなく、かろうじてその場に座っていました。その少女のいとこが私にダンスしませんかと誘ったので私は言いました。「いいえ、私はダンスしないんです。」

 彼女は私が火星から来たかとでもいうような顔をして私を見つめました。「ダンスしないんですって?どうして?」「僕は新しく造られたものだからさ。」私は答えました。

 「新しく造られたってどういうこと?」彼女は尋ねました。

 そこで私はUコリント5:17を引いて言いました。「『誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。』僕も前にはダンスなんかに興味があったけど、今は僕の人生が変わったんだ。僕はキリストに在って新しく造られて、興味も願いも新しくなったんだ。」

 レコードがかかってもう一組のカップルがダンスをしている間中、私はこの少女にキリストにある信仰の証しを続けました。証しの言葉は強く彼女をとらえ、彼女は泣き出しました。レコードが終わると、少年は何が起こったのかを見ました。私の方を向くと「さあ行こう。」と言って私をまっすぐに家まで連れて行きました。

 

 私はどこにいてもおかまいなしで――牢屋でも、道端でも、学校でも、教会でも――接する人にかたっぱしから自分は新しく生まれイエス・キリストに在って新しく造られた者なのだと証ししました。そして私たちがそのことを告白するなら、その告白によって私たちの人生に大きな変化がおこるのです。私はいつもいつも自分はキリスト・イエスに在って造られた者であると告白していたので世のもので誘惑されるということはありませんでした。

 

<律法の呪いからの贖い>                      

エペソ1:7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

   8 神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって

 

 「この御子のうちに在って…贖い…を受けているのです。」という言葉に注目して下さい。私たちはこの贖いを得るようにと努めているのではなく、それをすでに受けている(持っている)のだという言葉は何と感謝なことでしょう。私たちはそれをいつか得ようというのではなく今持っているのです。サタンの支配が打ち破られ、私たちが新しく造られたものとなった瞬間にサタンは私たちに対する支配権を失ってしまったのです。私たちは新しい支配者、主人を受け入れました。イエス・キリストが私たちを支配なさるのです。サタンがかつて私たちの支配者でしたが、今やイエス様が私たちの主です。ローマ10:9にはこうあります。「なぜならもしあなたの口でイエスを主と告白し…」私たちがイエス様を受け入れて新しく生まれた瞬間にサタンの支配は終わり、イエス様の支配が始まったのです。

 

 私たちは何から、そして誰から贖われたのでしょう。この質問をしたなら多くの人たちはこう言うでしょう。「私は罪から贖われました。」これは答えの一部ではありますが、その全てというわけではありません。ガラテヤ3:13にはこうあります。「キリストは、私たちのために呪われたものとなって、私たちを律法の呪いから贖い出して下さいました。なぜなら、『木にかけられるものは全て呪われたものである。』と書いてあるからです。」私たちは律法の呪いから贖われたのです。

 

 律法の呪いとは何かを調べるには、聖書の始めのモーセ五書を見なければなりません。そこに私たちは神の律法を破ることによる呪い、すなわち罰というのは三重であることを見ることができます。すなわち、貧困と病気と第二の死です。神様は私たちを貧困の呪いから、病気の呪いから、そして死の呪いから贖われたのです。死とは今の霊的な死と、イエス様の再臨の時の肉体の死です。私たちは第二の死を恐れる必要はありません。(キリストの貧困の呪いからの贖いにある私たちの権利については後の課において詳しく学びます。)

 

使徒17:28 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。

 私たちは何と多くの場合、この素晴らしく偉大な力の宝庫を見すごしてしまうことでしょう。彼にあって、私たちの救い主、主キリストにあって、私たちは不可能と思えるような努めに対して、私たちは命とエネルギーと力を持っているのです。私たち自身がそのことをすることができると言っているわけではありません。しかし、彼を通して、彼の力を通してすることができるのです。なぜなら「私たちは、神の中に生き、動き、また存在している」からです。

 

<サタンの力からの解放>

 これから二つの聖句を見てみましょう。これらの中には「彼に在って」「この方に在って」「キリストに在って」という言葉は使われていませんが、やはり彼にあって私たちが何を持っているかについて語っている箇所です。「神は、私たちを暗闇の圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移して下さいました。」(コロサイ1:13)この聖句は、私たちが暗闇の支配から、サタンの力から解放されたと言っています。

 

 「子供たちよ。あなた方は神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなた方のうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」(Tヨハネ4:4)旧約聖書にもイザヤ書41:10に同じようなことが書かれています。     

「恐れるな。私はあなたと供にいる。たじろぐな。私があなたの神だから。私はあなたを強め、あなたを助け、私の義の右の手であなたを守る。」

 

 また、新約聖書でもこう言っています。「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、誰が私たち達に敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)私たちはこの言葉を私たち個人に向けられたメッセージとしてとらえることができます。私たちは新しい契約の下にあるのですから、「神様感謝します。彼(イエス様)が私たちの内にいて下さいます。」と言うことができるのです。これが、恐れなくてもよい一番の理由だと思います。

 

 人々は私のところに来てこう言います。「あなたの言われたこれらの聖句をみんな読みましたが、私にはそれが本当だとは思えないんです。」

 「あなたはそれがそうであると告白しましたか?」私は彼らに尋ねます。

 ある婦人が私に言いました。「でも私の人生において、それはそうではないのです。それはそうでないと私にはわかるのです。」※それは人の見方、生まれつきの性質、肉、感覚によれば。

 「神様はそれはそうだと言われ、あなたはそれはそうではないとおっしゃる。それでは、あなたか神様かどちらかが嘘をついているということですね。もし、あなたがお母さんの前に立って彼女を嘘つきと呼んだなら、あなたは悪いと思うでしょう。だとしたら、神様の前に立って、『あなたの言葉は、真実ではありません。それはそうではありません。あなたは嘘つきです。』と言って、気分がいいわけがないでしょう。この状態をなおすために、あなたは自分の人生においてそれがそうであると感じても、感じなくても、それはそうだと告白し始めなければならないのです。」

 

 私たちは、神の言葉にそって考えていかなければなりません。そうすれば、私たちの信仰も正しくなります。私たちの信仰が正しいなら、私たちは神の言葉が言っていることについて告白する――言い、断言し、証明し、証言する――ことができるのです。そうすれば私たちは成功します。そして人生は私たちにとって違ったものとなってくるのです。

 

暗唱聖句 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。

中心真理 私たちがキリストに在って自分はどういうものであるかを知り、そのことにそって考えるなら、それを信じ告白するなら、失敗することはない。

 

 

 

第14課 正しい告白と間違った告白

 

 聖書は神の言葉であって、神の思い(考え)が書かれています。そしてもちろん神の思いは人間の思いとは違っているのです。「私の思いは、あなた方の思いと異なり、私の道は、あなた方の道と異なるからだ。−主の御告げ。−天が地よりも高いように、私の道は、あなた方の道よりも高く、私の思いは、あなた方の思いよりも高い。」(イザヤ55:9,10)

 私たちが神の言葉を学び、神の思いを知るなら、私たちの思いを神の御言葉に基づいたものとするなら、私たちは積極的に神の思いを思うことができるのです。

 これまで告白について話してきたわけですが、次のようなことを学びました。すなわち、もし、私たちの告白が間違っているとすれば、私たちの信じていることが間違っており、信じていることが間違っているなら、それは私たちの考えが間違っているからだということです。また、考えが間違っているというのは、神の言葉によって私たちの考えが新しくされていないからでした。

 

 時々、生まれつきのままの人間にとっては神の言葉の教えは理屈にかなっていないように思われますが、これは彼の考えが御言葉によって新しくされていないためです。マルコ11:22〜24ではこう言っています。「神の信仰を持ちなさい(Have faith in GOD)誰でも…言って心の中で疑わず、ただ自分の言った通りになると信じるなら、その言った通りになります。だからあなた方に言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、その通りになります。」詳訳聖書では、最後の節がこのようになっています。「それゆえ、あなたたちに言うが、あなた方は祈る時に、それはあなたに与えられていると信頼し確信しなさい。そうすれば、あなたは『それは私のものです。私はそれを持っています。』と言うでしょう。」

 

 クリスチャンに大いなることが起きるとすれば、それは彼がこの領域にまでいった時です。知性や肉体の感覚は一歩一歩のステップにおいてあなた方がその領域に入るのをとどめようと戦いを挑んで来るでしょう。なぜなら、生まれつきの頭脳が神の言葉によって新しくされていないのなら、それは彼を生まれつきのまま()の感覚の領域にとどめておこうとするからです。しかし、霊的な領域というものがあるのです。これが実にクリスチャンの領域なのです。

 

<正しい告白と間違った告白>

 間違った考え、間違った信仰、間違った告白について見て行くにあたって、一つの質問をします。間違った告白とはいったい何でしょう。間違った告白とは、敗北と失敗の告白、サタンの至上権 (覇権)の告白です。悪魔がいかにあなたを妨げ、成功させないようにしているのか、悪魔がいかにあなたを束縛しているか、いかにあなたを病気にしているかについて言うなら、それは敗北の告白です。そしてそのような告白は、すなわち悪魔をほめたたえていることになるのです。

 

 これまでの課でも言ったように、告白とは私たちの悟った真理を証明することであり、私たちの知っていることを証言することであり、私たちの信じていることを断言することです。そして多くの場合私たちの告白は、そのことに対して神の言葉が言っていることについて証しするのではなく、自分の敗北を認めて、神よりも悪魔をほめたたえるものなのです。

 

 私たちのうちには、教会で立ち上がって「悪魔は一週間中私につきまとっていました。悪魔の聖なる御名を称えましょう。」と言った親愛なる姉妹のような人はあまりいないでしょう。しかし、私たちの証しの多くは、私たちの人生におけるキリストの支配よりもサタンの至上権 (覇権)を証言しているものです。神様が私たちにどのようなことをして下さったかを証しすることは神様をほめたたえることです。それと同じように、悪魔が私たちにどのようなことをしているのか、また私たちの失敗や敗北について話すなら、悪魔をほめたたえていることになるのです。多くの人たちは、間違った告白をすることによって、神様が彼らに与えようと用意している祝福を失っています。彼らは打ち負かされ、彼らにとって人生はつらく単調なものなのです。

 

 悪魔をほめたたえる間違った告白は、実に無意識のうちに神様は失敗者であることを宣言しているのです。そのような告白は、私たちの信仰を破壊し、私たちを束縛のうちに閉じ込めてしまうのです。私たちが成功することを妨げはばむサタンの能力を告白することは、サタンに私たちの支配権を与えてしまうことになるのです。ですから、あなたは自分の口で神様に支配権を与えることもできれば、サタンに支配権を与えることもできるのです。心で信じていることをあなたのくちびるで告白することによって、あなたは毎日の闘いにあって悪魔を完全に打ち負かすことができるのです。

 

 私たちは救われるときにイエス様の支配権を告白します。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し…」(ローマ10:9)ということは、イエス様が私たちの主ということです。私たちがイエス様の私たちに対する支配権を告白するとき(主であると告白するとき)イエス様は私たちを支配しはじめ、私たちの生活を治めて下さるのです。しかし、もし私たちが成功することを妨げ、はばむサタンの能力を告白するなら、たとえ私たちがクリスチャンであっても私たちは自分に対する支配権をサタンに与えていることになるのです。サタンはこの世の神であり、私たちがそのようにすることを許可するがゆえに、抜け目なく私たちの内にやってくるのです。たとえそれを無知のゆえに、無意識のうちに承諾しているのだとしても、それは承諾に他なりません。そしてサタンが支配するなら、私たちは弱さと恐れに満たされるのです。

 

<恐れと疑いに打ち勝つ>

Uテモテ1:7  神が私たちに与えて下さったものはおくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。

 たとえ私たちが生まれつきのままの感覚で時に、恐れを感じても、私たちは決して恐れを告白するべきではありません。恐れは神様のものではありません。上の聖句では、神様は私たちに恐れの霊(おくびょうの霊)を与えたのではないと言っています。しかし、「力と愛と慎みとの霊です。」恐れというものは何かあなたの内側から出てくるものではありません。それは外側からやって来て、あなたを縛ろうとするものなのです。私たちは恐れを告白するべきではありません。むしろ「力と愛と慎み」とを告白するべきです。

 

 疑いについても同じことが言えます。あなたは疑いや恐れを告白してはなりません。このことは、あなたが疑いや恐れを持ったとき、そのことを認めないということではありません。ただそれについて何も言ってはならないということです。疑いは悪魔のものです。疑いは禁物です。疑いは悪いものです。クリスチャンは疑いについて話すことなど関わりがないのです。なぜなら疑いはクリスチャンのものではないからです。多くの人たちは、恐れや疑いを告白することが正直なことだと思っています。あなたは疑いの誘惑を受けて、悪魔の言うことを聞いてしまったかもしれません。しかし、あなたが抵抗するなら、悪魔は逃げて行くのです。

 

 ですから、疑いを告白してはいけません。信仰を告白しなさい。前の課で学んだように、あなたがキリストにあってどういうものであるか、また何を持っているかを告白しはじめなさい。あなたは信じる者です。あなたは新しく造られたものです。そのことを話しなさい。そのことを信じなさい。そのことを考えなさい。もしあなたが誘惑に会ったなら、−私たちは誰も誘惑に会わないということはないのです。−「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなた方から逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)主イエス・キリストの名によって、疑いや恐れを拒絶しなさい。そうすればそれらはあなたから離れ去って行きます。しかし、あなたがそれらを迎え入れてしまうなら、疑いや恐れはあなたの内に入って来て、あなたから盗み、あなたを打ち負かしてしまいます。

 

<神の言葉の告白>

 疑いや恐れを告白するかわりに、神の言葉が言っていることを告白しなさい。神様はこう言われます。「恐れるな。私はあなたとともにいる。…」(イザヤ41:10) 

ですから、あなたはこのように言うことができるのです。私は恐れません。私は神の子で、神様が私の内にいて下さいます。神様が私に与えてくれたのは恐れの霊ではなく、力と愛と慎みの霊です。私たち疑う者ではなく、信じる者です。私たちは疑いと恐れの悪魔の言語を話すのをやめて、信仰の神の言語を話しはじめることができます。神は信仰の神です。私たちは信仰の神の信仰を持った子供たちです。

 

 ある私の集会で一人の婦人が、精神病院に入院している彼女の妹について私に話しました。その婦人は言いました。「彼女はそれほど悪くないんですが、病院のお世話にならなければならないのです。彼女は何を言われているかは理解できるのです。たまに二週間の間彼女を家に連れて来ることができます。今彼女を連れて帰っているのでこれらの集会に来ることができるのです。私はこれらの集会がきっと彼女のためになると信じているのです。」

 

 私はこの二週間の間にはこの婦人のために祈りませんでした。しかし、彼女は集会に毎回出席して、ただ御言葉を聞いていくうちに、精神がはっきりしてきて、再び病院に戻る必要などなくなってしまったのです。医者は彼女を退院させ、健康であるとはっきり書いた診断書をくれました。以前、彼女は敗北を、恐れと疑いを告白し続けて、それが彼女の一部のようになってしまっていたのでした。しかし、彼女は御言葉が宣べ伝えられるのを聞いて、自分の間違っていた点を見つけ、正しいことを告白し始めて、癒されたのです。

 

 この婦人の顕著な回復を見て、教会の他の婦人が影響を受けました。そして彼女は州立精神病院に入院することが決まったばかりで、まだ病院に入っていなかった近所の人を連れて来ました。その婦人も夫もクリスチャンではありませんでしたが、夫は彼女が礼拝に出ることに同意しました。一週間のうちで、この婦人は救われ、癒され、聖霊の満たしを受け、二度と精神病院に行くことはありませんでした。

 人間は肉体的にと同じように、精神的にも病気になることがあります。そして、神様は、肉体を癒すのと同じように、容易に精神病をも癒すことがおできになるのです。私たちは神様が私たちに与えて下さったのは恐れの霊ではないことを認めなければなりません。私たちは敵に立ち向かうことを学ぶ必要があるのです。

 

 覚えておいて下さい。恐れの告白は恐れにあなたを支配させてしまいます。あなたの恐れはどんどん強くなってゆき、あなたはますます敵に縛られてゆきます。しかし、もしあなたが天の父の取り扱いと守りを、そして神の言葉を大胆に告白するなら、そして、神があなたについて言っていることは真実であると宣言し、あなたの内にいます方は、この世のうちにいるあの者よりもさらに偉大であると告白するなら、あなたはいつでもサタンの影響をのがれてその上にあがることができるのです。

 あなたが疑いと恐れを、弱さと患いを告白するとき、あなたは神の言葉は真実ではなく、神は良いことをするのに失敗しているのだとあからさまに告白しているのです。神の言葉は彼の打ち傷によってあなたは癒されたのだと断言しています。

 

Tペテロ2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなた方は癒されたのです。

 

マタイ8:17 これは預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。   

    「彼が私たちの患いを身に引き受け、私たちの病を背負った(取り去った)。」

 イエス様が「私たちの患いを身に引き受け、私たちの病を背負った(取り去った)。」と告白するかわりに、私たちは依然として自分がそれらを持っていて、私たちはいまだに病気を持っているのだと断言しています。しかし、私たちがイエス様がすでに病気については解決して下さったのだということを告白するなら、私たちは癒しを受けるのです。あまりに多くの場合、私たちは神の言葉を証しする代わりに、自分の肉体的感覚の証しをしているのです。私たちは、神の言葉が私たちに働くために、神の言葉を実行しなければなりません

 

暗唱聖句  神が私たちに与えて下さったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。(Uテモテ1:7)

中心真理  私たちのくちびるの告白は私たちに対する支配権を神に与えることもできるし、サタンに与えることもできる。

 

 

 

第15課 繁栄の信仰 

 

 私は長い間神の子が繁栄することが神の御心であるということが解りませんでした。私は多くの人がそう思っているように、貧乏は謙遜の特質だと思っていました。すなわち、人が謙遜であるためには、貧乏でいなければならないと思っていたのです。私は正しい人は金持ちにはなれないし、金持ちは正しい人になれないと思っていました。そして聖書に書かれている経済的祝福の約束は、どれもただユダヤ人だけのものだと思っていました。しかし、私は神の言葉を学んで、神様はご自分の子供たちが「魂に幸いを得ているように全ての点でも幸いを得(K.Jprosper繁栄する)また健康であるように(Vヨハネ2)願っておられることを知って以来、その言葉を自分の人生にもあてはめるようになりました。

 「でも」ある人は言うでしょう。「聖書ではお金は悪の根源だと言っているではありませんか。」

しかし、聖書は全然そんな事を言っていないのです。Tテモテ6:10にはこうあります。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、お金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」人は一銭も持っていなくてもこの金銭を愛する罪によって有罪となり得るのです。

 

 私は人々がこのように言うのを聞いたことがあります。「まあ、私はもう一人のヨブといったところですよ。」ある人たちは貧しくあわれな年老いたヨブは一生貧乏で病気で災いに悩まされ続けたのだと思っています。しかしヨブ記の全体の記事は9ヶ月の間に起きたことで、最後の章では神様はヨブを捕われの身から連れ戻して、繁栄を返し、「主はヨブの所有物を全て二倍に増された」(ヨブ42:10)のです。

 泥棒が押し入ってヨブのものを盗んだ時、ヨブはサタンのとりこでした。火が下って彼の穀物を焼き尽くしてしまった時、彼はサタンに捕らえられていました。大風が吹いて、家がヨブの子供たちの上に倒れて、彼らが死んでしまったとき、ヨブが頭から足まで種物で打たれたとき、彼の妻がヨブに向かって逆らい、「神を呪って死になさい。」と言った時、ヨブはサタンの捕虜になっていたのです。しかし、神様は彼を捕われの身から連れ戻されたのです。

 

 もしあなたが自分はもう一人のヨブだと思うのなら、あなたはあなたの周りの中でも一番富んだ人だということです。あなたは今まで持っていた財産の二倍を持つようになり、癒され、長寿を全うするはずです。ヨブは聖書に書かれている事件の後100年も生きたのです。もしあなたがもう一人のヨブだとしたら、あなたは繁栄するはずです。

 

<律法の呪いからの贖い>

ガラテヤ3:13 キリストは、私たちのために呪われた者となって、私たちを律法の呪いから贖い出して下さいました。なぜなら、「木に架けられる者は全て呪われた者である。」と書いてあるからです。 14 このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。 29 もしあなた方がキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

 上の聖句は「キリストは私たちを律法の呪いから贖い出して下さいました。」と言っています。それではいったい律法の呪いとは何でしょう?この答えを見つけるために旧約聖書の最初の5つの書、モーセ5書とか、律法の書と呼ばれているところを見てみましょう。私たちはそこに、呪い、すなわち神の律法を破ったことの罰は三重であるということを見ることができます。それはすなわち貧乏と病気と第二の死です。キリストは私たちを貧乏の呪いから贖って下さいました。

彼は私たちを病気の呪いから贖って下さいました。彼は私たちを死の呪い――現在の霊的な死と、イエス様が再び来られる時の肉体の死――から贖って下さいました。私たちは第二の死を恐れる必要はないのです。

 

<アブラハムの祝福>

 呪いが三重の性質を持っているように、アブラハムの祝福も三重です。第一は物質的、経済的祝福です。第二は肉体的祝福です。そして第三は霊的祝福です。新約聖書のVヨハネ2でも同様に神様が私たちに物質的、肉体的、そして霊的な繁栄を得るように願っているとあります。「愛する者よ、あなたが魂に幸いを得ているように全ての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります(I wish願う、念願する)。あまりに多くの人々は聖書の中の物質的祝福と繁栄の約束はどれもユダヤ人だけのものだという印象を持っています。しかし、この節は新約のクリスチャンに当てて書かれた箇所です。

 「ユダヤ人」(Jew)という語は「ユダ」(Judah)を短くした言い方ニックネームです。イスラエル人は部族が分裂するまでは決してユダヤ人(Jew)とは呼ばれませんでした。ユダの部族は他のイスラエルの部族より多くの物質的、経済的祝福を受けるという約束を持っている訳ではありません。彼らはその祝福を父ヤコブから相続し、受け取りました。ヤコブは父イサクから祝福を相続しました。イサクは父アブラハムから祝福を相続しました。ですからこれはユダヤ人の祝福、あるいは約束ではありません。これはアブラハムの祝福です。そしてその祝福は私のものです。「このことは、アブラハムの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり…」(ガラテヤ3:14)ガラテヤ人への手紙3章の中にもやはり同じように書かれています。7節を見るとこうあります。「ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。」もし私たちが生まれ変わったクリスチャンであるなら、「アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」(ガラテヤ3:29)

 これらの聖句が私にはっきりと明確になって来ると、私は自分が神の子として神にある信仰によって何を持っているか、何が自分に属するものであるかが解るようになり、他の聖句が私の内に開かれてくるようになりました。全てのものは神様に属し、神様の思いのままに自由になります。「森の全ての獣は、私のもの、千の丘の家畜らも。…世界とそれに満ちるものは私のものだから。」(詩篇50:10,12)「地とそれに満ちているもの…は主のものである。」(詩篇24:1)神様は全てのものを創造され、そして人間を、アダムを造られました。そして彼にそれら全てを支配させました。言い換えるとアダムは、この世の神のようなものでした。

 しかし、アダムは大逆罪を犯し、サタンに自らを引き渡してしまいました。このようにしてサタンはこの世の神になったのです。しかし、イエス様がやって来て、私たちをサタンの力とその支配から贖い出して下さいました。ローマ人への手紙5:17にはこうあります。「もし一人の人の違反により、一人によって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、一人の人イエス・キリストにより、命に在って(in lifeこの世で、存命中)支配するのです。」詳訳聖書ではこのようになっています。「一人の方イエス・キリストにより、命に在って王として支配するというのは、はるかに確実な事なのです。」私たちはこの世の生涯において、王として支配するべき者たちなのです。ということは、私たちは自らの人生に対する支配権を持っているのです。

私たちは支配するべき者であって、支配される者ではないのです。環境があなたを支配するのではないのです。あなたが環境を支配するのです。貧困はあなたを治め、征服するものではありません。あなたが貧困を治め征服するのです。患いと病気はあなたを治め征服するものではありません。あなたが患いと病気を治め、征服するのです。私たちはキリスト・イエスに在って贖いを得てり、この方によって、人生において王として支配するのです。

 

申命記28:1 もし、あなたが、あなたの神主の御声によく聞き従い、私が、今日、あなたに命じる主の全ての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地の全ての国々の上にあなたを高くあげよう。 2 あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次の全ての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。 3 あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。 4 あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。 5 あなたのかごも、こね鉢も祝福される。 6 あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。 7 主は、あなたに立ち向かって来る敵を、あなたの前で敗走させる。彼らは、一つの道からあなたを攻撃し、あなたの前から7つの道に逃げ去ろう。

   8 主は、あなたのために、あなたの穀物倉とあなたの全ての手のわざを祝福して下さることを定められておられる。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。 9 あなたが、あなたの神、主の命令を守り、主の道を歩むなら、主はあなたに誓われた通り、あなたを、ご自身の聖なる民として立てて下さる。

   10 地上の全ての国々の民は、あなたに主の名がつけられているのを見て、あなたを恐れよう。 11 主が、あなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われたその地で、主は、あなたの身から生まれる者や家畜の産むものや地の産物を、豊かに恵んで下さる。

   12 主は、その恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたの全ての手のわざを祝福される。それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。

 申命記28章の始めの部分には神の民が神に従う時、主が彼らを祝福される多くの方法が挙げられています。神様は、彼らの子孫を祝福し、彼らの作物や家畜を祝福すると約束されました。戦いにおいて彼らを祝福し、守ることを約束されました。また、神様は「豊かに恵んで下さる」ことを約束され、「あなたの全ての手のわざを祝福して下さる」ことを約束されました。

 この祝福は統括的で、あますところのないものです。しかしこれはまた条件的な祝福でもあります。彼らは神の全ての命令を守らなければなりません。彼らは聖なる民でなければならず、神から迷い出て他の神々を慕い求める者であってはなりません。心を尽くして神に仕える者でなければなりません。この章の残りの部分、すなわち15節から68節には、神の民が神の命令を守らなかった時に下る呪いが挙げられています。

 私が最初にこの真理に気づいた時、神が彼の民に計画している物質的、霊的祝福を知り、全ての生まれ変わったクリスチャンは、この約束の相続人であることを知って、喜びを押さえ切れませんでした。私は自分が律法の呪いから贖われ、貧乏の呪いから贖われていて、アブラハムの祝福は自分のものであるということを発見して、本当にわくわくしてしまいました。クリスチャンである私たちは、経済的困難に悩む必要はなく、貧乏や病気の中に閉じ込められる必要もないのです。神様は、もし彼の命令に聞き従うなら、神の子供たちに癒しや繁栄を備えていて下さるのです。

 

 イエス様はこの地上におられた時にこう言われました。「してみると、あなた方は、悪い者ではあっても、自分の子供には良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなた方の父が、どうして、求める者たちに良い物を下さらないことがありましょう。」(マタイ7:11)親である者で、自分の子供が生涯、飢え、病気で悩み苦しみ、生活していくのに十分なものを決して持つことがなく過ごすことを願う者があるでしょうか。どんな親もそう願わないでしょう。実際、私たちは働き、犠牲を払っても、子供たちに自分が受けたより良い教育を受けさせ、自分自身よりもっと良い生活をさせてやろうとするのです。

 神様はこの地に全ての家畜と、全ての銀や金を置かれました。そして彼がこれら全てのものをただ神を敬わない者のためにだけ与えたと考えるのは理屈に合っているでしょうか。もちろん神様は罪人も愛しておられます。しかし、彼は自分自身の小供たちよりも罪人の方をもっと愛すでしょうか。いいえ。神様はこれら全てのものをご自分の民のためにこの地に備えて下さったのです。彼はイスラエルに言われました。「もし喜んで聞こうとするなら、あなた方は、この国の良い物を食べることができる。」(イザヤ1:19)そして、もし神様がご自分の民に最も良いものを食べさせたいと願っておられるなら、彼は彼らが最もよいものを着、最も良い車に乗り、全てのものの最も良いものを持つことを願うのです。

 

<個人的体験による証明>

 この真理が私の霊の内で現実となった時、主は私に語って言われました。「お金のことについてはもう祈ることはありません。あなたは、私の名によって繁栄を宣言する権威を持っているのです。私はすでに金も銀も千の丘の家畜らも私の人アダムに委ねました。彼がサタンに引き渡した後に、第二のアダム、イエス・キリストが来て、あなたを敵の手から贖い、律法の呪いから引き離したのです。さあ、今はもう私にして下さいと祈る代わりに、私はもうあなたの必要のために備えをなしているのですから、あなたのするべきことはただ『サタンよ、お前の手を私の手から離せ。』と言ってあなたの必要を宣言するだけなのです。あなたはキリスト・イエスによって人生において支配するのです。」

 私は次に行った教会で、このように言いました。「主よ、私がここにおいて必要とするものを得るためにはこれが働かなくてはなりません。この前、私がここで受けたのは一週間にたったの60ドルくらいです。私は今週150ドルを宣言します。」そして私は言いました。「サタンよ、私のお金から手を離しなさい。主イエス・キリストの名によって!」おわかりですか。あなたは可能なことを信じる必要はないのです。不可能なことを信じるのです。私はその教会に一週間だけいる予定でしたが、10日の間そこにいることになりました。私はこの10日の間に200ドル受けるように宣言しました。牧師はお金を要求することは全然しませんでした。彼はただ献金のお皿を回しただけです。そして集まった献金を数えてみるとなんと240ドルも受けたのです。

 このことの後私は集会を開くために方々の教会に行った時、お金は容易に入ってきました。多くの場合、牧師は驚いて、「伝道者のためにこんなに献金が集まったのはこの教会はじまって以来ですよ。」と言うのでした。そして私はどうぞお願いしますと、とりたてて要求したりなど全然しませんでした。私はドアを開ける鍵を得たのです。

 神に感謝します!私たちは呪いの下にはいないのです。なぜなら、イエス様が私たちを自由にして下さったからです!「病気は健康に!貧乏は裕福に!なぜならイエス様が私を贖われたから。」

 

暗唱聖句  愛する者よ。あなたが魂に幸いを得ているように全ての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。

中心真理  私たちは生まれ変わった信者として、律法の呪いからの贖いを得ており、アブラハムの祝福と神の繁栄の約束の相続人である。





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信仰のことばミニストリーズ 作成01.7.14日、

全面改訂03.2.27日 星野明義

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