イエスの御名             09 9/1

                                           Kenneth.E.Hagin

 

(この本は1994年に私たちの教会で翻訳し、信仰ニミニストリーズから出版していたのですが、絶版のため再版したものです。)

 

目次  第1章 イエスの御名

第2章         さらに優れた御名:それはどのようにして来たか

第3章         相続した

第4章         授与によって(授けられた)

第5章         征服によって

第6章         この御名にある権威

第7章         この御名:教会の所有物

第8章         神性によって裏打ちされて

第9章         救いにおけるこの御名

第10章 この御名とバプテスマ

第11章 日々の歩みの中でのイエスの御名

第12章 全てこの御名によって

第13章 私の名によって悪霊を追い出しなさい

第14章 クリスチャンでも悪霊に取りつかれることがあるか

第15章 必要な3つのステップ

第16章 天にいるもろもろの悪霊

第17章 彼に在って

第18章 奇跡:クリスチャンの標準

第19章 信仰と御名

第20章 この御名によって支配する

第21章 この御名には癒しがある

第22章 告白とこの御名

第23章 メディテートの為の聖句(黙想)

 

        信仰のことばミニストリーズ 作成 03.7.30 星野明義


 

1 イエスの御名                     

 E..ケニヨン師は彼の本「素晴らしいイエスの御名」の巻頭でこのように述べておられます。

 

  ある午後の事「イエスの御名」の事を語っていると話の途中で一人の法律家が私にこう尋ねました。「あなたはイエス様が『代理人としての力』すなわち彼の名を使う法的権利を私たちに与えて下さったと言うのですか?」私は彼に言いました。「兄弟、あなたは法律家で、私は法に関しては素人です。私に教えて下さい。イエス様は私たちに『代理人としての力』を与えて下さったのですか。」彼は言いました。「もし、言葉がその言っているだけの意味を持っているなら、イエス様は代理人の力を教会に与えたということになります。」そこで私は彼に尋ねました。「代理人の力というのはどれだけの価値のあるものなのですか?」彼は答えました。「それは、その背後にどれだけのものがあるか、どれだけの権威、どれだけの力がこの名に代表されているかにかかっています。」そこで私はイエス様がどれだけの力と権威を持っておられたかを調べ始めました。

 

 イエス様が持っておられた全ての力と全ての権威が彼の名のうちにあるのです!

 ところで、私たちは彼の名を使う代理人としての力を持っているのでしょうか?

 神の御言葉は私たちがそれを持っていると教えています。イエス様は、私たちが祈りの中で彼の名を用いる事が出来ると言われました。彼は私たちが悪霊に対して彼の名を用いることが出来ると言われました。彼は私たちが癒しのわざの奉仕をする時に彼の名を用いることが出来ると言われました。

 実に、その名を使うという事、そこにこそ全てに対する解決の鍵があるのです! 私たちは人々を解放するためにあまりにも長い間、自分自身の人間の能力に頼ってきました。所が、それをするのはこの名なのです。ケニヨン師はこのように書いています。

 

  彼の能力の大きさ〔主イエス・キリストの能力の大きさ〕がその名の価値の大きさであり、その名のうちにある全てのものが、私たちのものなのです。なぜなら、イエス様は私たちが制限されることなく、自由にこの名を使うようにと彼の名を私たちに与えて下さったのです。

 

<祈りにおけるこの名>

 イエス様は祈りの中で彼の名を使うことについてこのように言われました。

ヨハネ16:24 あなた方は今まで、何も私の名によって求めた事はありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなた方の喜びが満ち満ちたものとなるためです。

 

 言い換えてみると、イエス様がここで弟子たちに話されるまでは、弟子たちは彼の名によっては何も求めなかったという事です。そして彼は弟子達に地上の「新しい日」について話し、このように言っています。「求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなた方の喜びが満ち満ちたものとなるためです。」

 いいえ、私たちはイエス様の為に求めるのではありません。イエス様の為に(for Jesus sake)求めるという事は彼の名によって(in His Name)求めるということではありません。私たちは自分の為に求めるのです。癒しが必要なのは、イエス様ではありません。癒しが必要なのは私たちです。祈りの答えが必要なのはイエス様ではありません。私たちです。このような類の知識の欠如によって多くの祈りが無効になって働いていません。なぜならイエスの名によってというところをイエスの為にと祈っているからです。

 このヨハネの箇所でイエス様は、私たちに新しい契約の祈りで彼の名を使うようにとその名を与えて下さっているだけではありません。彼は、彼の名によって祈る祈りは特別に注目されると断言しているのです。

ヨハネ16:23 …まことに、まことに、あなた方に告げます。あなた方が父に求める事は何でも、父は、私の名によってそれをあなた方にお与えになります。

 (※訳者注、英語では…Whatsoever ye shall ask the Father IN MY NAME he will give it you あなた方が私の名によって父に求めるなら彼はそれをあなたに与える ) 

 

 イエス様がこのように言っているのに注目して下さい。「あなた方が私の名によって−私がそれを保証します。−父に求めるなら父があなた方にそれをお与えになります。」

 何と驚くべき祈りの約束でしょう! しかし、私たちがイエス様の言われたことを理解しなかった為に、新約の教えではなく、宗教的な教えに洗脳されていたので、神様の約束を水割りにして薄めてしまってきたのです。私たちはイエス様の言われなかった事を付け加えてしまったのです。私たちは別のことを加えてしまいました。「神様の御心ならそうして下さいます。−しかし、それは神様の御心ではないかも知れません。」と私たちは言ってきたのです。

 新約聖書にはそのように言っている箇所はありません。人々は祈りの答えを得ずに、「それは神様の御心ではなかったんです。なぜなら彼はそれをして下さらなかったのですから。それが神様の御心だったなら、神様はそれをして下さったはずです。」と言ってきました。

 イエス様はこのヨハネ16:23,24において神様の御心を示しておられます。私は1933年の4月22日に生まれ変わりました。私が新しく生まれた時、私は病気で寝たきりで、もう助かる見込みもありませんでした。私が今お分かちしている祈りの秘訣と、イエスの名を使うことについては、ある程度、この時期に学んだのです。この事を学ぶのには少し時間がかかりました。私は16ヶ月の間病床に伏していました。しかし、1934年の8月に、私は信仰の祈りを祈る事を学んで癒しを受けました。

 さて、今から私はある事をお話ししたいと思います。私の語る事によく注意していただきたいのです。(ある人たちは人の言う事の一部をつかんでその全体を逃してしまうのです。) 

他の人の事を祈る場合には、彼らの意志が関わる事を理解して下さい。誰もその人が望まないものを祈りと信仰によって他の人に押し付ける事はできません。もしそうできるなら、私たちは全ての人に救いを押し付けてしまう事でしょう。他の人の為に、その人の必要やその人の願いの為に祈る場合は、その人の意志が関わってきます。そして、その人の疑いは私の信仰の効力を打ち消してしまう事ができるのです。しかしながら、私の必要の為に祈る私の祈りに対して他の人の不信仰が影響する事はありません。

 さて、この説明をした所で、次に語る事が私の言いたい事です。私は45年間祈って答えを得なかったという事は一度もありません(私は私に関してと、私の子供が幼かった頃の彼らに関しての祈りについて言っています。) 私はいつも答えを得ています。―そしてその答えはいつでも「はい」です。                    

 ある人々は言います。「神様はいつでも祈りに答えて下さいます。ある時には彼は『はい』と言われ、ある時には、彼は『いいえ』と言われます。」

 私は聖書の中でそんな事を読んだ事がありません。それは単なる人間的な理論に過ぎません。

 イエス様はこう言われませんでした。「あなた方は今まで何も私の名によって求めた事はありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。しかしながら、彼はある時は『いいえ、だめです。』と言われ、またある時には『はい、そうしましょう。』と言われ、ある時には『ちょっと待ちなさい。』と言われます。」

 私達はなぜ祈りが働かなかったのかという人々に対して答えを与えようとして聖書にそのような事を付け加えてきたのです。しかし、祈りが彼らに働かなかった理由は彼らが御言葉を働かせなかったという事です。それが私に働かないなら、私が御言葉に沿っていないからです。

 人は良いクリスチャン、聖められ、世から離れた、聖なる者でありながら、祈りが聞かれるという事となると、どうもだめだと言う事があり得るのです。私達はそれらの人々が正しい生活をしていると信じています。しかし、そういう人たちも祈る時に自分自身の正しい生活を誇って祈りに答えてもらうことはできません。恵みの御座の前に来て、神様に自分のやった全ての事を言ってそれを誇り、答えを得ることはできないのです。

 いいえ違うのです!私たちはイエスの名を携えて御座の前にやって来るのです! そして、神の言葉はこれまでそうであったように、今日も働くのです。

 「私の名によって父に求めなさい。」イエス様は言われました。「私は保証します。そして、天の父はそれをあなたにお与えになります。」ケニヨン師はこう言っています。

   

   この言葉は祈りを純粋に法的土台の上に置くものです。なぜなら彼が私たちに彼の名を使う法的権利を与えてくださったからです。私たちが新しい契約の中にある私たちの特権と権利を握って、イエスの名によって祈るなら、その祈りは私たちの手からイエス様の手に渡され、そして彼がその祈りの責任を負って下さるのです。そして私たちは彼がこのように言われたことを知っています。「父よあなたが私に聞いて下さる事を感謝します。そして私はあなたがいつも私に聞いて下さると知っています。」

   言い換えれば、天のお父様はいつでもイエス様に聞いて下さり、私達がイエスの名によって祈る時には、イエス様ご自身が祈りをしているのと同じなのです。彼が私達に代わって下さるのです。この事によって、祈りが法的な土台に立つばかりではなく、祈りは事業の提案となります。私たちが祈る時にはイエス様に変わって、ここで彼の意志を成し遂げようとするのであって、イエス様は私たちの代わりにそれを天のお父様に持って行って下さるからです。

 

<戦闘におけるこの名>

 イエスの御名は私たちをとりまく目に見えない力に対する闘いにも用いられます。私たちはイエスの名のうちに全ての暗闇の世界の力に対する権威を持っているのです。

マルコ16:17 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語り 18 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人は癒されます。

 

 他の訳ではこうなっています。「これらのしるしが共にあります」私はこの訳が好きです。この訳は私たちが彼と共に働く者であるという聖句(Uコリント6:)と一致します。

 ギリシャ語を直訳すると、マルコ16:17はこうなります。「これらのしるしが信じている者たちと共にあります。すなわち私の名によって彼らは…」全ての神の子は信じている者です。これらのしるしは神の子供一人一人のものである筈です。なぜならイエスの御名は一人一人の神の子供が持っているからです。

「私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語り…〔私たちはイエスの名によって異言で語る権利を持っているのです!〕蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人は癒されます。」

 「この箇所で」ケニヨン師は言っています。「イエス様は大宣教命令においてのご自身の果たす役割を示しておられます。」マタイに書かれているこの命令を見てみましょう。

マタイ28:18イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「私には天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。19 それゆえ、あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、      

   20 また、私があなた方に命じておいた全ての事を守るように、彼らを教えなさい。見よ。私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいます。

 

 イエス様は言われました。「いっさいの権威が私に与えられています。」もしあなたがそこで読むのを止めるなら、あなたは喜んでこう言うことでしょう。「神様感謝します。イエス様が権威を持っておられます。彼が天においても地においても権威を持っておられます。彼は何でもご自分のなさりたいことをする事がおできになります。それは彼に任されています。なぜなら彼が権威を持っておられるからです。」

 しかし、それがイエス様の言われたことの全てではありません。即座に彼は教会に権威を委ねて、彼の名によって出て行かせたのです!「私には天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえあなた方は行って…」

 私が「700クラブ」というテレビ番組に出演した後で、一人の奉仕者が私に手紙を書いてよこしました。彼はいつでも、もし神様がそうなさりたいのなら、神様はそうなさるのだと信じなさいと教えられてきました。神様が権威を持っておられ彼が力を持っておられるのだから全てを神様にお任せしなさいと教えられてきたのです。この奉仕者の家には病人がいました。彼自身、精神的に抑圧され、人生に憂鬱さを感じていました。彼はそれを通して主が彼に何か働きかけておられるのだと思っていました。ですから、彼は押さえつけられ、憂鬱を感じながら、家族には病や患いがあるまま、何年も奉仕の働きを続けてきたのでした。彼は人生の中で何年もの間勝利をとる事ができないでいたのです。「しかし」彼は書いています。「神様はずっと前から私を取り扱ってこられたのです。そして私は整えられ、丁度その言葉を受け入れる事のできるような状態になっていた時にあなたの話しを聞いたのだと思います。」

 神様は彼の霊に真理、すなわちこの地上においてのことは、そのように全て神様に任されているのでは無く私たちに任されているのだという事を示そうとされていたのです。

 彼はこう書いています。「あなたが何かを言おうとされた時、私の目が開かれました。私は見えるようになったのです。まるで主が私の心に『それがいつもいつもあなたに語ろうとしてきた事なのです』と言われたような感じでした。」

(私達の頭はある方向に教育され、教え込まれているので時々、自分の霊の声を聞くのが困難な事があるのです。)

 彼は言いました。「私は存在するこれらの状況などは私たちがどうするかにかかっているという事、イエス様は私たちにそれに対して何かをなすように権威を授け、任せておられるという事が解ってきました。」

 イエス様の言っておられることを要約するとこのようになります。「天においても、地においても、いっさいの権威は私に与えられています。さあ今、私はあなた方にこの権威を委ねます。私はあなた方が全ての国々の人を弟子とするように遣わします。そして、見よ、私はいつもあなた方と共にいます。」彼はどのようにして私たちと共におられるのでしょうか? マタイ18章を見てみましょう。              

マタイ18:19 (まことに)あなた方にもう一度告げます。もし、あなた方のうち二人がどんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられる私の父は、それをかなえて下さいます。

 

 さて、これは素晴らしい言葉です。これは素晴らしい事実を述べている箇所です。しかし、この箇所を文脈から離して、これだけを取り上げてしまうとイエス様が言っておられることを逃してしまうのではないかと思います。なぜなら彼は次の節において、なぜこの事がなされるのかという理由、その秘密を語っておられるからです。

マタイ18:20 二人でも三人でも、私の名において集まる所には、私もその中にいるから

 ハレルヤ!さて、再び言いますが、ここで20節だけを文脈から外してとりあげるなら、私たちの言うことはしごくもっともなのですが、この節の伝えようとしている完全な意味から外れてしまいます。例えば、私たちが教会の礼拝に集まる時にこういうふうに言ったりします。「主がここにおられます。なぜなら『二人でも三人でも、私の名によって集まる所には私もそこにいます。』と彼が言われたからです。」

 それはある意味で真実です。しかし、それはイエス様がこの節で本当に言おうとされている事ではありません。イエス様は地上で心を合わせる二人の人について話しておられるのです。彼はその二人または三人に対してどうしてそれが働くのか言っておられるのです。

  「再び、私はあなた方に言います。もしあなた方の二人が地上で心を合わせて求めるものはどんなものでも、天にいる私の父によってそれはかなえられます。なぜなら二人または三人が私の名によって集まる所、その真中に私もいるからです。」

そこに私がいます!彼はこれらの二人または三人が心を合わせたことが実現するようにとそこにいて計らって下さるのです!

 さてここでもう一度マタイ28章に戻ってみましょう。「見よ。私はいつもあなた方と共にいます。」彼はどのようにして私たちと共にいるのでしょう。そう彼はこのように言われたのです。

 二人または三人の人々が一致して、どんなことについても「私の名によって願う所に、私はおります。」と言われました。これがその秘密です。彼は彼の名の力と権威のうちに、私たちと共におられるのです!

 

<イエス様の資源>

 E.W.ケニヨン師はこのように力強く述べ、教会に壮烈なチャレンジを投げかけています。

 

  イエス様が私たちにこの名を使う法律的権利を与えて下さった時、天の父はこの名が祈りの中で使われるなら、それは全てを包括し、全てを意味するのだということをご存知でした。…そしてその名を祈りのうちに認めることは天の父の喜びなのです。

  ですからその名のうちに秘められた可能性というのは私たちの理解をはるかに超えているのです。そしてイエス様が教会に対して「何でもあなた方が私の名によって父に求めるなら」と言う時、彼は私たちに天の資源を引き出すための小切手を与えてくれているということになるのです。そしてその小切手にはサインがしてあって、いくらでも必要な額を書くようにと私たちに渡されているのです。そうとわかったら、教会はイエス様の資源がどれだけのものか、その名が今日教会に対して持っている富の大きさがどれほどなのかを知ろうと徹底的に探り出すでしょう。

 

 クリスチャンたちが人生において、その生活において今いる場所、立場というのは、その人自身の書いた小切手の額によるのです。ほとんどの人々は、ほんの小さな金額しか書きませんでした。なぜなら彼らはイエス様と彼の名に対して小さなビジョンしか持たなかったからです。

 何度か必要な時、私も小切手にサインして他の人に金額を書き込むようにと言った事があります。勿論私はその人たちにいくらの金額を書くようにと指示しました。私はその人たちにいくらでも好きなように書くようにとは言いませんでした。しかし、イエス様はそう言われたのです。彼は小切手にサインしてそれを私たちに渡して下さったのです。

 あまりにも多くの人達は10万ドルと書くべき所を、それに1ドルとしか書きませんでした。そしてそれで自分は謙遜だと思ってきたのです。それゆえ彼らは低い生活水準で生活してきました。

 イエス様は、例えば、地方教会の牧師たちにもこの小切手を与え、「金額を書き込みなさい。」と言われたのです。ところが彼らはたった数ドルとしか書かずに25年もの間、 ぼろぼろの建物の教会で、イエスの御名に恥辱を与えているのです。それが彼の名の供給する事のできる全てだというのでしょうか。

 個人的な生活においても同じ事が言えます。多くの新生した聖霊に満たされたクリスチャンたちが悪魔に打ち負かされて低い生活水準で生活しています。事実、彼らは他の何よりも悪魔についてばかり語っています。いつでも彼らが不幸な事、ついてなかった事、悪い事について語るなら、それは悪魔を誇っている事になるのです。いつでも自分が病気でどんなに悪いかを語るなら、悪魔のわざを言い広めて悪魔を語っているのです。(悪魔が病や患いを持ってくる張本人です。神様ではありません。) いつでも「とてもそれは成功しそうにないですよ。」と言うならそれは悪魔をたたえ、誇っているのです。

 そうではありません。イエス様について語ろうではありませんか!イエスの名について語ろうではありませんか!彼は私たち一人一人に個人的にサインした小切手を与えて下さって「金額を書き込みなさい。」と言っておられます。彼は天の資源を引き出すためのサインした小切手を私たちに与えて下さったのです。

 この名が今日教会と一人一人の信者のために持っている富の大きさを知るために、イエスの資源について徹底的に調べるなら、私たちの人生は変わります。もし私たちがこの名に対して低い評価をし、それにあまり関心を払わないなら、私たちはあまり多くのものを期待することはできません。なぜなら、私たちは自分の持っているものを知らないからです。

 

 

 

     第2章 さらに優れた御名:それはどのようにして来たか

 

 ケニヨン師は、人は栄誉ある御名を三つの方法で得ると指摘しています。ある人たちは栄誉ある名のもとに生まれてきます。例えば王様などがそうです。他の場合、人々は自らの業績によって自分の名を大いなるものとします。そして又、他の場合、人は栄誉ある名を授けられるのです。

 このさらに優れた御名はこれらの三つの全ての方法によって来ました。イエスの御名は彼がその栄誉ある偉大な名を相続したゆえに偉大です。又、彼の御名は彼の成し遂げた業のゆえに偉大です。そして彼の名は彼に授けられたゆえに偉大です。

 私達はこれらの驚くべき真理を深く探って行きたいと思います。それらの真理は私達がつかむことのできないほどに大いなるものです。しかし、私たちがその真理を食物としてとるなら、徐々に少しづつ、それは私たちの内なる良心の一部となっていきます。私たちは自分の霊のうちに頭ではなく―この真理の一瞬のきらめきをとらえる必要があります。(頭ではなくと言っても、霊の奥深くに入るには、知性を通らなければなりません。知性は霊の中に入るための扉です。)

いったんこれらの真理が本当に私たちの霊のうちに明らかになってくると、旧約聖書の中に「その地には巨人がいる」とありますが、私たちはそのように言われるようになるのです。なぜならそのことによって私たちは霊的な巨人になるからです!

 私たちのうちのある人たちは時々このきらめきを見てきました。そうして私たちは探検に行ってきました。しかし、このようにしてこの真理を探り、それによって養われ続けるなら、私たちはその地をただ時々訪れ(一瞬のきらめきとしてとらえ) るだけでなく、その地に住むようになると私は信じています。

 

 

 

 

     第3章 (その御名を)相続した           

ヘブル1:1 神はむかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、又、いろいろな方法で語られましたが 2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。 3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力ある御言葉によって万物を保っておられます。又、罪のきよめを成し遂げて、優れて高い所の大能者の右の座につかれました。

  4 御子は、御使いたちよりもさらに優れた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。 5 神はかつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、私の子。今日、私があなたを生んだ。」またさらに、「私は彼の父となり、彼は私の子となる。」 6 さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」

 

 イエス様は「御使いたちよりもさらに優れた御名を相続された」のです。彼は天上に存在する

どのようなものよりも偉大な名を相続されたのです。

 息子として、彼は全てのものの相続人なのです。彼は「神の本質の完全な現れ」です。彼は父なる神の「輝き」あるいは他の訳では「より優った強い光」です。

 彼は私たちに語りかけている神です。そして彼は「さらに優れた御名を相続された」のです。いつ彼はそれを相続したのでしょう。彼はこの地上に来られる前、天においては、何も相続されませんでした。なぜなら彼は全てのものを持っておられたからです。

 彼はそれを地上に来られた時相続されたのではありません。なぜならビリピ人への手紙の中では全ての誉れと栄えとを捨てられたとあるからです。(ピリピ3:6〜8)

彼はいつこの名を相続されたのでしょうか。次の聖句にその答えをつかむ手がかりがあります。

 

ヘブル1:4 御子は、御使いたちよりもさらに優れた御名を相続されたように、それだけ御使いよりも優るものとなられました。 5 神はかつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、私の子。今日、私があなたを生んだ。」

 

 この箇所は私たちに、いつ彼がさらに優れた名を相続したかを教えてくれます。それは神様が彼にこう言われた時です。「あなたは、私の子。今日、私があなたを生んだ。」今日です! それがこの事の起こった日です。彼が生まれたその日です。

 イエス様はいつ生まれたのでしょう? ほとんどの人たちは彼がベツレヘムで赤ん坊としてこの地上にやってきた時に彼が生まれたのだと思っています。いいえ!違います!

 神の子は彼が肉体をとった時に生まれたのではありません。神は父と共に初めから存在しておられたのです。彼はただ肉体をとられただけです。

 

ヘブル10:5 ですから、キリストは、この世界に来られて、こう言われるのです。「あなたは、いけにえや捧げ物を望まないで、私の為に、体を造って下さいました。

 

 彼は、この地上に来られた時に生まれたのではありません。彼は天の父と共に初めから存在し、いつもおられたのです。(私が言いたいことは次の聖句の括弧の中に入れた言葉です。)

 

ヨハネ1:1 初めに、言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。 14 言葉〔それは既に存在しており、生まれる必要はありませんでした。〕は人(K.J訳では)となって、私たちの間に住まわれました。

 

 いいえ、「あなたは、私の子。今日私があなたを生んだ。」というのは彼が肉体をとられた日の事を言っているのではありません。それではそれはどの日の事でしょう。

 

使徒13:33 神は、イエスをよみがえらせ、それによって、私たち子孫にその約束を果たされました。詩篇の第2篇に『あなたは、私の子。今日、私があなたを生んだ。』と書いてある通りです。

 

 イエス様が生まれたのはいつですか。それは彼がよみがえられた時です!あの復活の朝です!

 彼はなぜ生まれる必要があったのでしょう。それは彼が私たちと同じようになって神から切り離されたからです。彼が全ての人の為に霊的な死を味わわれたからです。彼の霊、彼の内なる人が私たちの代わりに地獄に行かれたのです。

 

ヘブル2:9 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、全ての人の為に味わわれたものです。

 

 肉体的な死は私たちの罪を取り除くことが出来ません。彼が全ての人の為に死を味わわれたというのは霊的な死の事です。 ※肉体的十字架の死ではなく、神様との分離、霊的な死です。

 イエス様は新しく生まれた最初の人です。なぜ彼の霊は生まれ変わらなければならなかったのでしょう。なぜなら彼は神から引き離されたからです。イエス様が十字架上で何と叫ばれたか覚えていますか。「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか。」

<聖書的死>

 多くの人々は死の事となると聖書で言っている意味を知らないのです。聖書に書いてある死というのは決して存在しなくなるという事ではないのです。決してそうではありません! 

 聖書の中にはいくつかの種類の死について書かれていますが、私たちが覚えておかなければならない三つの種類の死があります。すなわち()霊的な死、()肉体の死、()永遠の死(又は第二の死火と硫黄の燃える池に投げ込まれる事) 霊的な死とは何でしょう。それは霊的な命の反対です。それは存在しなくなるということではありません。

 エペソ2:1にはこうあります。「あなた方は自分の罪過と罪の中に死んでいた者これは新しく生まれる前の私たちのことです。「を生かし」(エペソ12:5)

 パウロはテモテに生きてはいても死んだ人々について語っています。(Tテモテ5:6)彼は、それらの人々が存在しなくなったとは言っていません。 ※神様と分離、断絶している。

 私たちが罪人の事について、霊的に死んでいるというのはその人の霊が存在しないという事ではありません。彼の霊は存在します。そして永遠に存在します。なぜなら、人間のその部分はその人が救われていても、救われていなくても神に似せられているからです。人間というのは永遠に存在する霊です。(そして魂を持っています。)しかし、罪人の霊は神との交わりがなく、神との関係が断たれているのです。

 神様はアダムに善悪の知識の木についてこのように言われました。「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時(K.Jin the dayその日のうちに)あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:17)

 神様は肉体的な死について言われたのではありません。なぜならアダムは肉体的にはその日のうちに死ななかったからです。しかし彼がそれを食べた瞬間に、彼は霊的に死んだのです。それはアダムが存在しなくなったという事ではありません。それは瞬間的に彼と神との交わりが断たれ、神との関係が切れてしまったという事です。

 アダムはそれまで神と共に歩き、神と共に語り合い、神がアダムと親しく語り交わろうと一日のうちの涼しい時間におりてこられましたが、彼は見つかりませんでした。彼はアダムを呼んで言いました。「アダム、あなたはどこにいるのか。」アダムは答えました。「私は…恐れて、隠れました。」なぜでしょう。彼が罪を犯したからです。

 罪が彼を神から引き離してしまったのです。霊的な死とは神から離れる事を意味しています。アダムが罪を犯した瞬間に、彼は神から離れてしまったのです。

 霊的な死は、神から離れるという以上の意味を持っています。霊的な死とはサタンの性質を持っているという事をも意味するのです。イエス様はパリサイ人たちにこう言われました。「あなた方は、あなた方の父である悪魔から出たものであって、あなた方の父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言う時は、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」(ヨハネ8:44)

 パリサイ人たちはとても宗教的でした。彼らは安息日には会堂へ行きました。彼らは祈り、十分の一を献げ、断食し、多くのりっぱな行い、善行をしました。しかし、彼らはキリストについて偽り彼を殺してしまいました。イエス様は彼らは悪魔の子だと言っておられます。彼らは悪魔の特質を持っていたのです。

 人が新生するならその人は神の性質を受けるのです。それは命と平安です。悪魔の性質は憎しみと偽りです。

 イエス様は全ての人のために死―霊的に死―を味わわれました。罪というのは肉体的な行為以上のものです。それは霊的な行為です。彼は私たちが彼が今そうであられるようなものになるために、私たちがかつてそうであったようなものになられたのです。(私たちが霊的に生きたものとなる為に霊的に死んで下さった。)

 

Uコリント5:21 神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって神の義となるためです。

 

 イエス様は罪となられました。彼の霊は神から離れたのです。そして彼は私たちの代わりに地獄に下られました。ペテロがペンテコステの日に、主イエス・キリストについて語った説教の言葉に注目して下さい。「あなたは私の魂をハデスに捨て置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。」私はこのペテロのメッセージを全部読まれるようにお勧めします。彼は詩篇16:8〜10においてダビデは実に神の霊によって預言しているという事実を伝えています。

 

使徒2:25ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。 26 それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。 27 あなたは私の魂をハデスに捨て置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。』 29 兄弟達。先祖ダビデについては、私はあなた方に確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。 30 彼は預言者でしたから、神が彼の子孫の一人を彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。 31 それで彼のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨て置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。

 パウロは使徒13:33で同じことについて語っているのです。

 

使徒13:33 神はイエスをよみがえらせ、それによって、私たち子孫にその約束を果たされました。詩篇の第2編に、『あなたは、私の子。今日、私があなたを生んだ。』と書いてある通りです。

 

 ペテロもパウロも同じことについて言っていたというのは明らかです。

 あなたはこの事実を理解するまで、イエスの御名の権威を理解することはできません。イエス様は苦しみの牢獄に下り―地獄そのものに下り―私たち一人一人のために義の要求を満たして下さいました。なぜなら彼は私たちの身代わりとなって死なれたからです。

 天におられる神様は言われました。「それで十分です。」そして神様はイエス様をよみがえらせました。神様は彼の霊と魂を地獄から引き上げられたのです。―神様は彼の体をお墓からよみがえらせました。―そして言われたのです。「あなたは私の子。今日、私があなたを生んだ。」

 どの日ですか? 彼が生まれた日です。彼がよみがえった日です。それならその日こそ、彼がさらに優れた御名を相続された日です!








 ● (第4章−第23章)が必要な方はご連絡下さい。料金は1000円ですが、1000円を超える分はミニストリーへの献金としてお受けしております。下記の口座への振込みを確認しだい、メール添付でお送りいたします。

・私は脳出血で、左半身麻痺の為、現在はヘーゲン師の真理をネットで提供する働きだけを行っております。

・ヘーゲン兄の流れはワード・フェイス、つまり言葉の信仰と呼ばれております。1984年から2002年ころにヘーゲン牧師が天に召されるまで、手紙と献金により交流がありました。

 

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761-0431香川県高松市小村町(オモレ)651−15TEL,FAX087-847-8977

信仰のことばミニストリーズ 作成01.7.14日、

全面改訂03.2.27日 星野明義

メールアドレス stngfay3231@ma.pikara.ne.jp



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