創造のみことば   ・・・・・・  信仰のみことばによる創造のメカニズム

                                                              2007 2/10


  日本のリバイバルが、クリスチャンに対する単なる励ましではなく、ほぼ確実に起こることが多くの預言者を通して語られている。しかし、示しや預言が与えられたならば、それは神様の目から見た成就の"結果"であって、その"過程"としては私たちは代価を支払うことが必要であり、聖霊様が激しく臨まれる時のために、特に、みことばの備えをしていかなければならない。聖書のみことばは、神の最高権威の現れであり、同時に、みことばは神(ヨハ1:1)である。そして、聖霊様のみわざは、神様の法則(=みことば)に従って行なわれる
  そこで、日本のリバイバルに向けて、私たちにとっての具体的な信仰の備え ・・・ 信仰、いやし、預言などの、誰もが行なうべき各分野 ・・・ において、聖書のみことばをどのように適合させていくべきかを、一度整理して学んでみたいと思う。


    (参考文献)   ・ 「4次元の人」、チョー・ヨンギ、2006 11、トランスフォーメーショングロース ・・・(特にお勧めの本)
              ・ 「神の油注ぎ」、メル・ボンド、2004 4、JRM
              ・ 「サタンの策略」、メル・ボンド、2006 9、JRM ・・・(特にお勧めの本)
              ・ 「とりなしの祈りリーダーセミナーテキスト(T、U、V、W、X)」、ソン・ファニン、(DVD付で各5000円)、JRM


  (1) 霊の次元の法則:


  人間は、動物と違って、神に似せて造られた"霊的な生き物"である。精神の次元(知性・情操・意志)と霊の次元は重なる部分がある。私たちが、神様の次元の中に生きるためには、霊の次元のビジョンの持ち方にポイントがある。それは、「思索」という精神の次元にまず、「みことば」が入らなければならない。


  ・ 「神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」(創2:15)、「あなたの信じたとおりになるように。」(マタ8:13)

   ・・・ 罪の無い時のアダムは、神様が人に備えた本来の霊的能力、すなわち、霊の次元をプログラミングすることによって、神様に、「地を従えよ。支配せよ。」(1:28)と言われたことが成就していった。彼が語って名前を付ける権限を与えられ、その言葉が、そのままそれらの実体を表すものとして反映されていったのである。
  そして、"神の信仰の通りに"ではなく、「あなたの考えどおりに」、「あなたの信仰のとおりに」、「あなたの幻のとおりに」、「あなたの言葉のとおりに」というように、人間にこのような責任を負わせている。

  ・ 「初めに、神が天と地を創造された。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊(=聖霊)は水の上を動いていた(=舞いかけていた; was hovering over)。そのとき、神が 「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。」(創1:1−3)

   ・・・ 神様が天地創造された方法が描かれている。まず、霊の次元で、神様の霊、すなわち、聖霊様が舞いかけ、働きかけ、あたため、孵化し、その後 命令のことばを発せられ、そして、その通りになった。
  そして、私たちは、御子イエス様の十字架により、価なしに罪の無い神様の子供とされたのだから、父なる神様の天地創造と同じ方法で創造のわざを行なうことができるはずである。それは、聖霊様による祈り、聖霊様との親しい交わりにおいてこのことがなされていく。私たちが持つ、霊の次元のビジョン(ただし、神様からのビジョン)を聖霊様によって暖め、情熱を持ちつづけるならば、神様の時に"確信"が来る。それを宣言して行動すればその通りになっていくのである。


  ・ 「だれでも、この山に向かって『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ自分の言ったとおりになると信じる(確信している)なら、そのとおりになります。 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じ(確信し)なさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マコ11:23、24)

   ・・・ この創造の霊的なプロセスをより詳しく見ると、マルコ11:23は、命令(宣言、告白、行動)する前に、祈ってその通りになるという"確信"をまず得なさい、という意味である。聖霊様によって祈るほど、初めは遠くに感じられたものが、近くに感じられるようになり、そして遂には非常にはっきりした"確信"が来る。
  この"確信"こそが信仰の"実体"である。(信仰とは、人間的な信念ではない。) それは、「祈りによって得ることができる、からし種のような確信」(マタ17:20、21)でもある。 たとえば癒しを自分で祈る場合(癒しは、聖書のみことばが約束する「救い」の一つであり、みこころである)、祈祷院で3日間祈って"癒されたという確信"が与えられたら、現状(病の状態)は変っていなくても、何日か過ごしているといつの間にか癒されている。イエス様がのろわれた木も、枯れたのは1日後だった。
  イエス様が、ご生涯にご自身の十字架のビジョン(「苦き杯」)を見せられ、十字架の上で全人類の贖いが成し遂げられたことを知って(確信が来て)、「完了した」(ヨハ19:30)と宣言され、復活されたのは3日目の朝だった。(ただし、新約時代の現在は、ノアのように100年も待つ必要はない。)
  そして、確信が与えられたら、そのビジョンはすでに実在しているかのように行動すべきである。ビジョンは、手に取るようにはっきりとしたものでなければならない。使徒たちは、イエス様の復活を確信し、その結果、福音を宣べ伝えたとき、聖霊様による大いなるしるしと不思議が「主イエスの復活のしるし」(使4:33)として伴った。


  ・ 「敵を愛しなさい」、「自分にしてほしいと思うとおりに、あなたの隣人にしなさい」、「与えなさい。そうすれば、人はあなたに溢れるばかりに与える。あなたが人を量るはかりで、あなたが量り返される。」、「さばくな、さばかれないために」、「すべての人を、自分より優れた者と考えなさい」、「人の上に立ちたければ、すべての人に仕える者となりなさい」、等、新約時代の律法に関するみことば
  ・ 「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法(=みことば)を守る者は幸いである。」(箴29:18)

   ・・・ 霊の次元では、"あなた"と"私"の区別がなく、ただメッセージだけがある。敵を愛することは、自分自身のためであり、もし敵を憎むと、自分の3次元に破壊が起き、自分が最初に傷つけられる。他の人に対するメッセージが考えの中に記録されると、一番近い自分の体(健康など)、あるいは、生活の中に影響力を及ぼす。心に満ちた考えは、口から言葉となって出てくる。語った言葉は、ブーメランのように自分に帰って来る。("情けは人のためにあらず。自分のため"、も同様な経験則)
  このように、神様は私たちに、聖書のみことばによる考えをもつように勧めている。みことばによって考えを変えるならば、この世の3次元の人生の中で創造的な神の奇跡が起こっていくのである。



  (2) 思索をみことばで満たすことの重要性:


  ・ 「霊とまこと(=真理、みことば)をもって御父を礼拝する」(ヨハ4:23)

   ・・・ 礼拝、すなわち、神様との交わりは、聖霊様と聖書のみことばによらなければならない。聖霊様によってみことばを深く知ることができる。そして、聖書を読むために時間を費やすならば、神様の偉大な力が現れる。使徒たちは1日中みことばのために時間をかけていた。祈りにおいても、「神のみことばに聞かないならば、祈りの中においても忌み嫌われる」(箴28:9)より、断食して長い間大声で祈っても、みことばからそれた祈りは聞かれない。


  ・ 「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばによるのです。」(ロマ10:16、17)、「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザ55:11)

   ・・・ 霊の次元の法則は、積極思考やニューエイジのような人間的な、あるいは、悪霊からの考えによるものではなく、神のみことばから来る。そして、神様のみことばがすべてを成し遂げていく。


  ・ 「心(=考え)の一新によって自分を変えなさい」(ロマ12:2)、「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」(ヨハ15:3)、「なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。」(Tヨハ4:17)、「聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるため」(エペ5:27)

   ・・・ 私たちの最終目標は、(品性にあっても力にあっても、) キリストに似る者になること(Christ-like-ness)、である。この第一目標を決してそらされてはならない。そのためには、みことばによって考えが新しくされることにより、"神様のご性質"を私たちが所有することである。
  80万人教会のチョー・ヨンギ師は、講壇で説教する時は、聖徒の霊の中に4次元の世界を変える目的で語り、特に、考えの領域を変えさせるために努力をすると語っている。癒しの器メル・ボンド師も、私たちの人生におけるサタンとサタンの王国の罪や苦悩は、私たちの考えの中で滅ぼされる、と言っている。運動選手たちは実践訓練のため、まず考えの訓練(メンタルトレーニング)を行なう。このように、思索(考え)は、肯定的な結果、あるいは、否定的な結果を導く第一歩であり、である。考えの中にみ言葉が入り、それがもっと強くなると、み言葉にそった幻・夢を見たりするようになり、最後に自分の口で告白するようになる。
  また、みことばが直接霊の中に入ることも大いにある。霊とは、人間がもっとも分かりやすい言葉では、潜在意識である。潜在意識の中までみことばが入るとそれが、無意識のうちにも行動に現れてくる


  ・ 「肉の考えは死であり、御霊による考えは、いのちと平安です。」(ロマ8:6)

   ・・・ アダムとエバの時代から、サタンは惑わしの方法を変えてはいない。私たちに罪の性質があり、神のみことばに反逆させようとささやくサタンが存在するので、私たちの思索(考え)の領域が真の戦場となる。罪の無いイエス様もサタンの誘惑を受けられ、聖書のみことばを引用することによってサタンを撃退された。
  思索に妨害を与える悪霊(思い煩い、心配性など)については、考え・思いをみことばで満たすことによって、入ることを許さなくする。(「家を主人(イエス様=みことば=光)で満たす」(マタ12:43−45)) ここで、思索の領域はもちろん、もっともしなくてはならない領域が、霊の領域である。思索の領域でだけ信仰生活を送るならば、敵に打ち勝つことはできない。聖書のみことばをよく読むと、霊の領域のことを語っていることが分かってくる。
  賜物を扱う時は、「腰に真理の帯」を着ける。腰は「力」、真理は「みことば」であり、力の働きの時は必ずみことばでガードされなければならない。ミニストリーや器はすべて見分ける必要があり、みことば無しのミニストリー、あるいは、みことばに書いていない事を押すようなミニストリーは、サタンからの惑わしである。(たとえば、人をタッチで無理やり倒すミニストリーは、人を操る"テレパシーの霊"による)


  ・ 「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」(ヤコ1:14、15)

   ・・・ この第一の段階が悪魔的である。(欲→誘惑→罪→死) 私たちは神のことばにおいて、今日、頑固者であった方が良いのである。みことばで語られていることを、よく考えて理解し(Tコリ15:2)、"考え"が神様に集中して狭くなっている人の人生が最高のものであり、神様に焦点を合わせることができない人は人生に苦しみと死を招くことになる。敵からくる欲の誘惑に打ち勝つことが我々のテーマとするところである。



  (3) いやしのみことば:


  ・ 「しかし、わたしの名を恐れる(=畏れる、崇める)あなたがたには、義の太陽が上り、その翼(=光線)には、癒しがある。」(マラキ4:2)

   ・・・ 「恐れる」とは、「畏れる、崇める」の意。当時の太陽は光線が翼として描かれていた。この場合の「太陽」とはイエス様の事。このみことばは、ヘンリー・グルーバー師の日本のリバイバルについての預言の中にあらわされ、特に、日本中にしるしと不思議を起こすためのみことばである。
  癒しの油注ぎを解き放つ時、私たちの内におられるイエス様によって、私たちがイエス様のようである。いやしの方法は、かつてハンター夫妻が教えた「病人に手を置く」(マコ16:16、18)だけではない。この場合、"手から神様のいやしの光線が出て、それが病人の患部へ注がれていく"、というみことばの約束に対する信仰である。
  同様のみことばは、メル・ボンド師による「輝きは光のよう。ひらめきはその手から放たれ、そこに力が隠されている。」(ハバクク3:4)が用いられ、数え切れない多くの人たちが癒されている。アメリカでも日本でも、異性に手を触れると問題が起こることがあるので、手を触れないで癒しをするメル・ボンド師のこのやりかたの方が優れている。


  ・ 「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るい。」(マタ6:22)

   ・・・ 「光」とは、霊、精神、肉体という身体に与えられる神様の栄光、力、油注ぎを表す。神様の栄光は人間の「霊の目」を通して入ってくる。ここで、「精神の目」も「霊の目」も共に密接に働いて一つの目となるので、神様の油注ぎ、神様の力は、まず精神の目から始まって現れてくる。したがって、必要とし、願っているものは何でも、そのために神の油注ぎを受けようとする精神の目の焦点が完全に合っているなら、神の油注ぎと力である神の光に完全に満たされるのである。
  たとえば、いやしの祈りを受けて何か感じるところ(熱くなる、軽くなるなど)に焦点を合わせる。
  祈り手が語る時、光(神の油注ぎ)が手から流れ、いやしを必要としている人の病んでいる部分に入り込んでいく様子を、心に描いて目で見るようにする


  ・ 「わたしが見ていると、サタンがいなずまのように天から落ちました。」(ルカ10:18)

   ・・・ いやしや問題解決の祈りをする時、まず、問題の根となっている悪霊を追い出す。悪霊は、神よりも次元は低いが、人間よりも次元が高い存在、「空中の権威を持つ者」である。イエス様は、宣言して手を置く前に、病の霊(ルカ13:11)を取り除かれた。強い者を追い出して初めてその家を占領することができる。(マタ12:29)
  悪霊が追い出されると、患部は、御父が定められた自然法則にのっとって自然治癒し始めるが、さらにいやしと再創造を祈って、信仰の行動をすると奇跡的に早く回復する。


  ・ 「エフライムは生焼けのパン菓子となる。」(ホセ7:8)、「二心の人は、主から何かをいただくことができず、歩む道すべてに安定の欠いた人です。」(ヤコ1:7、8)

   ・・・ 「生焼け」とは、片面だけが焼けてもう片面は焼けていない、の意。すなわち、一方では主に頼り、もう一方では世的な方法に頼ることであり、これは主に忌み嫌われる事である。北イスラエルはこの背信によってアッシリア捕囚とされた。二心の人は主から何もいただくことはできない。ミニストリーをする時、祈り手を臆病にしたり、いろいろなたわいもない思いを考えさせたりしてサタンが妨害してくる。これにやられると、しるしと不思議が現れることはない。また祈りを受ける人にも、目をつぶる、黙っているなどさせて、二心にならないようにさせる。単純な人、幼子が御国に入る



  (4) サタンに立ち向かうためのみことば:


    悪霊追い出しや解放の働きは、危険ではないが、バランスを崩さないように注意すべき点がある。悪霊や否定的なものは(警戒はしても)どこにいるかなど決して捜し求めるべきではない。さもないと、「捜せ、そうすれば見出す」のみことばのとおり、それらが来てしまうからである。そのため、いやしの祈りの場合も、祈りを受ける人に対し、どのくらい"良くなったか"と聞いて、良くなったところを捜してもらうようにする。私たちの思索は、常にみことばで満たし、考えを常に良いものを捜し求めるように訓練しておかなければならない。(ピリ4:7、8) チョーヨンギ師の口癖のようになった(賢い)祈りは「試みに合わせず悪から救い出したまえ」だそうである。しかしハンター師も言っているように、悪霊(病や精神病など)に出くわすはっきりとした時があり、その時は、みことばに基づいて信仰をもって大胆にそれを追い出さなければならない。特に、いやしの祈りをする時は、病気の悪霊(「強い者」)をまず追い出してから、いやしと再生の祈りをするのが普通である。


  ・ 「神(および 神のみことば)に従いなさい。そしてサタンに立ち向かいなさい。」(ヤコ4:7)、「あなたを攻めるために作られた武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、私から受ける彼らの義である。」(イザ54:17)
   ・・・ クリスチャンが神様と神様のみことばに服従するとき、サタンの猛攻撃に反撃することができ、悪霊は恐れて逃げていく。また、神のことばを知り、みことばを用いているクリスチャンたちには、敵の武具は役に立たず、彼らを誹謗、非難、中傷するどのような言葉も、神のことばによって罪に定めることができる。


  ・ 「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。人に惑わされないように気をつけなさい。」(マタ24:4)

   ・・・ 終わりの時代に現れる最初の悪霊は"惑わしの霊"であり、人を通してキリスト教のミニストリーなどで現れる。(露骨に"私はキリストだ"などと言って現れるという意味ではない) サタンはいつも神様の偽物をもって惑わす。たとえば、
  頭に手を置く"タッチ"で人を倒すミニストリーで、常にそのミニストリーを行い、無理に倒そうとするものは"テレパシーの霊"によるのであり、倒れても癒しや解放が行なわれていない。テレパシーの霊は、追従者を動かし、最も高いレベルになると思いだけで人を動かすようになるものである。後に倒れっぱなしのことは聖書にはない。(ダニエル10では御使いが彼の手を取り起き上がらせている) 倒れることよりも神のみことばの方に注力すべきである。
  また、「あやまちに陥っている人を正して、キリストのもとへ連れ帰る」(ガラ6:1)のが神様の目的なのに、知識の賜物のサタンによる偽物はその人を辱め、神の秩序に疑いを持たせるだけである。
  霊を吐き出すミニストリーは、聖書にはない(マコ9:17−22は口から泡を吹く現象)。
  悪霊追い出しは、悪霊は皆異なり、追い出しの時の現象にはどれひとつとして酷似した例はなく、また、一度のミニストリーで完全に取り除いたケースもない。したがって、一つの現象に固執するこのようなミニストリーは、欺きの"宗教の霊"が強く関わっているので要注意である。


  ・ 「もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」(ガラ1:8)、「こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。・・・」(Uコリ11:13−15)、「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。」(マタ7:16)

   ・・・ 今日、サタンが光の天使に偽装したように、悪魔的力に用いられている有名な伝道者がいる。しかし、「神の愛」をあらわす事、「御霊の実 ; 愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、柔和、自制」(ガラ5:22、23)を結ぶことは、サタンが理解できず真似できないので、これによって見分けることができる。
  "宗教の霊"、"儀式主義"、聖書よりも"教理や組織の信条の偏重"、"人間の礼拝"なども同じく実を結ぶことができない。悪霊は、今日、人間の礼拝を受けようとして激しく動き、そのため人々は背後にある悪霊の性格を帯びていくのが分かる。たとえば、有名になった賛美歌手で、人々がほとんど彼らを礼拝している人がいるが、実際の彼らは悪霊のようである。また、みことばよりも賛美偏重の教会では、人々にほとんどみことばが入っていない。そのため、その歌詞に反するどんなみことばによるメッセージも人々に全く入っていかない。



  (5) とりなしと預言のみことば:


  ・ 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」(エレ1:5)、「あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。」(ヘブ1:9)

   ・・・ リバイバルとは、死んでしまった者が生き返ってくることであり、"祈り"によって人々、都市、国家が命を吹き返すのである。とりなしの祈りをする人々には抑圧や困難などの敵の攻撃があるのは、とりなしの祈りこそが、敵が最も嫌うものだからである。しかし、他の人々をとりなすからこそ、神様はとりなし手を愛される。愛する人、教会、都市、国のために、自分の時間と人生をささげて、犠牲的な祈りをし、自分よりも、まず、他の人のことを考えるからである。
  神のことばを取り次ぐことは、次のような方法でなされる。 私たちは、毎日、毎日、祈り、聖書を読み、礼拝することによって、"みことば"をたくわえ続けていく。そして、誰かを教え、慰める必要があるとき、たくわえたものが自然と出てくるのである。預言の働きは人を励まし、奨め、建て上げることであり、すべての人ができることである。私は預言するんだ、と考える必要はない。
  しかし、エレミヤには、不安感があった。それは彼が成人であったのに、自分が幼いと思っていた、つまり、臆病だったのである。これは、"失敗を恐れること"は拒絶体験から来る。


  ・ 「神の耳は、義なる人の祈りに傾けられる」(Uペテ3:12)、 「口先で近づき、」(イザ29:13)、「人間の命令を教え込まれているからにすぎない。心は利得を追っている。」(エゼ33:30−32)
   ・・・ "宗教的な人"は、自分をカバーすることを知っている人、自分自身、人々、神をも欺くことを知っている人、そして、力が無い。自分のあるがままの姿で祈る。誠実で、真剣な心を持っているならば、人に見せることは考えない。自分のことではなく、神様のみを意識する祈り、神の栄光を求める祈り、罪や怠惰、不従順にあきあきした人、・・・ "義人の祈り"は聞かれる。しかし、神様は"宗教的な祈り"を憎まれる。

  ・ 「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」(Uコリ10:4)、「なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」(ヨハ8:44)、「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(詩139:23、24)、「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」(詩51:10)
   ・・・ 神様のものを持つため、神様により深い明け渡しをして、自分の心の奥底までゴミを取り除き、完全な平安を持ち、人生を楽しんでいくために、神の臨在をいつも人生に持っていく必要がある。私たちは、"愛"か"憎しみ"か、"信仰"か"疑い"かのどちらか一方しか持つことができない。
  幼いとき拒絶体験を受けると、成長過程で、だめな人間、愚かな人間、醜いと思うようになる。そして、内側に、隠された記憶、盲点がないか神様に聞くならば、神様は、隠された盲点を明らかにすることができ、赦すならば、神様がいやしてくださる。その要塞を、みことば(=真理)によって打ち砕き、その後、自分の"考え"を守り、キリストに従うことに逆らうすべての"思弁"やすべての"はかりごと"をとりこにする必要がある。

  * 拒絶から解放される 4ステップ:

  私たちはすでに過去に起こったことをコントロールすることはできない。しかし、それに対する反応の仕方に責任がある。

  1. 感情の痛みの根源を認める:
  父・母でなく、敵が原因だったこと。サタンは人を通してダメージを与える。(ソン・ファニン師については、父が死んだことに対し、おまえは運の悪い子だ、馬鹿だ、おまえのせいだ、・・・、と、父が早く死んだことを責めていた。)
  ・ 「真理が自由にする」(ヨハ8:28) ・・・ 何年にも渡ってサタンがうそを言ってきた。これに対し、目を開いて、真理(=みことば)を見る。

  2. 自分の自己イメージ、自己価値が傷ついてダメージを受けていることを知る:
  自分は頭が悪い、みっともない、・・などと考えると、何もできなくなってしまう。敏感で怒りやすい、さばきの心、自分をカバーしたいという思い、人生に対し正直に生きていない、・・。

  3. すべての人を赦す:
  これは、どのような場合でも、しなくてはならないことである。
  ・ 「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペ4:32)

  4. イエスの名によって、サタンのうそを、全部捨て去る:
  サタンの力に対して権威を行使する。 「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコ4:7)の時。



  (6) 誠実な心と主を恐れることの祝福:


  神さまを畏れることによって与えられる、7つの祝福について見る。

  1. 箴言9:10 「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」
   ・・・ 誠実な人はまず最初に、神さまと共に歩む体験をするための知恵を持ち、神さまの知識を持ち、神さまの方法を持つ。

  2. 詩篇145:19 「また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。」
   ・・・ 誠実な人は、自分の決断するすべてのことについて神さまを敬い、それゆえ、その心の願いが成就する。

  3. 詩篇147:11 「主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。」
   ・・・ 誠実な人、心の正しい人は、神を畏れる人を神さまが喜ばれ、その人がするあらゆることにおいて、神さまは恵みを与えられることを知っている。それゆえ、神さまは守り、答えてくださる。

  4. 詩篇128:1−4 「幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。 あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。」
   ・・・ 神さまを畏れる人の家は、家族全体に、祝福として、繁栄があふれていく。

  5. 箴言22:4 「謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。」
   ・・・ 誠実な人の心の態度、それが謙遜である。自分を高めることをしない、プライドを持つことをしない、そのかわり、神さまがその人を高め、信頼してくださり、あらゆる種類の富と誉れをもって、その人を尊んでくださる。

  6. 箴言10:27 「主を恐れることは日をふやし、悪者の年は縮められる。」
   ・・・ 誠実な心をもって歩む人は、罪意識や恥意識を持たない。神さまの平安のうちに過ごし、ストレスが少なく、長寿を楽しみ、人生を喜んで過ごすことができる。

  7. 箴言14:26、27 「力強い信頼は主を恐れることにあり、子たちの避け所となる。主を恐れることはいのちの泉、死のわなからのがれさせる。」
   ・・・ 神さまは誠実な人たちの避け所となる。そして、その子たちは安全な場所にいて、いのちの長い人生を受け取る。



  (7) 預言の見分け方・預言の開かれ方、等:


  「預言を軽んじてはならない」、「すべてのものをテストして何が良いものであるかを見分けなさい」(Tテサ5:20、21)

   ・・・   8つの見分け方の原則がある。(* とりなしの祈りリーダーセミナーで語られた。テキスト、DVD参照)

  受けた預言に対して戦いをする必要がある。神様が言葉を与えられる時、どのようにその場所にたどりつくかは言われずに、私たちにチャレンジを与え、私たちが神様にもっと近づいていくようにさせるのである。


                         戻る