初期の天皇の系譜について
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  大和政権における天皇の系譜は、初代神武から9代、あるいは、13代までは架空であり、歴史は意外と新しく、しかも、初めから秦氏一族の協力を得てスタートしていることが分かった。また、日本における本格的なヘブライ・キリスト文化が始まったのは21代雄略天皇からであり、秦氏が深く関わっている。さらに、天皇家の系譜が安定して、”万世一系”のようになったのは、29代欽明天皇からである。


  (1) 秦氏の協力による応神天皇のヤマト進出:

  ”倭の五王”の系統が15代応神から始まることはよく言われている。『古事記』によると、初代神武から13代成務までは近畿を拠点としているが、14代の仲哀は、最初は穴門(あなと)の豊浦宮(山口県豊浦市)、のちに筑紫の国の香椎宮(福岡市)に拠点を持ったという。仲哀はクマソ侵攻を、皇后の息長帯ひめ(おきながたらしひめ=神功)は朝鮮半島侵攻を主張し対立した。次の15代応神は誕生の地が宇美(福岡県粗谷郡)ということで、14代仲哀までが、福岡・山口県を勢力圏にしていて、15代応神から近畿まで進出し、急に領域を拡大した。13代以前が近畿にいたことは後世の作り話であると考えられる。

  応神系統について、『記紀』の年数をほぼ信用してよいのは30代敏達から33代推古までであり、応神(130歳)、景行(137歳)、他も80-90歳などとなり、あまりにも長すぎる死亡年齢となる。むしろ、”倭の五王”(人命不明も含めて”倭の六王”)からの宋王朝遣使が記されている『梁書』の方が信用できる。これによれば、16代から21代までの兄弟関係まで明らかになり、23代から28代までは途中で断絶し、万世一系に近い系譜となったのは29代欽明以降であることがわかる。また、埼玉県稲荷山古墳の鉄剣(1978発見、471年記入)には115文字のオホビコからオワケ臣までの父子関係の直系伝承が書かれ、その中に21代雄略とみられる人物がいることも、初期の年代が比較的新しいことを物語っている。

  すると、応神天皇の時、記録にあるように、大陸から渡ってきた秦氏一族(120−127県(あがた)=数千人から1万人規模)が、天皇に協力し、大和朝廷の設立に初めから関わったことになる。また、このときから急に古墳が巨大化し、秦氏の土木技術が用いられたと考えられる。
  秦氏は、朝鮮東部の新羅経由で日本に来たが、新羅は中国大陸からの漢族以外の逃亡民(秦人、新羅は元、秦韓と言った)で構成されており、五胡十六国時代の前秦滅亡(394)、後秦滅亡(417)と時代が一致している。すなわち、秦氏は、チベット系(前秦・(てい)、後秦・羌(きょう))の民であり、羌は、アミシャブ(イスラエルの10部族調査機関)が発見した、現在の中国四川省のチベット系少数民族の羌岷(チャンミン)族と同じであり、彼らは失われたイスラエル10部族のひとつであるマナセ族の末裔であると自称し、アミシャブからも認められている。



  混乱期の50年間は、24代仁賢の娘が 応神から5代目の26代継体の妻となって、少なくとも母系でつながっている。
  

  (2) 秦氏によるユダヤ文化の導入:

  ここで、最も驚くべきことは、大和朝廷を建て上げるために天皇家を大いに助けた秦氏一族は、クリスチャン、しかも、ユダヤ教的な(あるいは、ユダヤ人の)、しかも、原始キリスト教徒(一部、景教徒も含む)であったことである。それは、秦氏が設立にかかわった宗教的な建物や習慣に、ヘブライ語や旧約聖書の儀式・慣習といったユダヤ性だけではなく、新約聖書からの教理や教えが、秦氏が渡来した初めから含まれているからである。

  たとえば、
  1) 伊勢神宮の外宮; 外宮が建てられたのは21代雄略天皇の時(内宮は11代垂仁の時とされるが詳しいことは分からない)と言われている。神道用語で「造化三神」である、アメノミナカヌシ(豊受大神)、クニノトコタチ、ウカノミタマ(顕現の神、稲荷大神)は、明らかにキリスト教の三位一体(それぞれ、父なる神、子なる神、聖霊)を表している。外宮には、このうちのアメノミナカヌシ(天の真中に座す神=父なる神)が祀られている。秦氏は、内宮で祀られている、カナンやエジプトの地にもあった偶像崇拝起源の”太陽神(アマテラス)”ではなく、旧・新約の両方に共通の「父なる神」を祀ったのである。
  2) 稲荷神社; 景教(ネストリウス派・東方キリスト教)では、イエス・キリストのことを、しばしば、「JNRI」、あるいは、「INRI」と表現する。これを読むと「インリ」、すなわち、「イナリ」となり、”稲荷”は当て字である。安閑天皇の時代に、秦氏はイエス・キリスト神社として稲荷神社を建てた。最初に建てられた稲荷神社は、和歌山県有田市の糸賀稲荷で、この地方は現在も”王子信仰”が盛んな地でもある。建立時の稲荷神社は霊験あらたかで、瞬く間に日本全国へ広がった。(狐が祀られるようになったのは、後の8世紀になってからで、空海による。)
  3) 四天王寺; 聖徳太子が建てた四天王寺は、実は神社であり、玉造(たまつくり)の地にあったことがいくつかの文献にある。イナリの神が祀られ、聖徳太子はそこで戦勝祈願したといわれる。587年に最初に建てられた地には、現在”玉造稲荷神社”が建っていて、鳥居は赤くなく、西向きであり、現在の四天王寺の西門にも鳥居がある。
  4) 宇佐八幡宮; 現在応神天皇が祀られている宇佐八幡宮(大分県宇佐市)は、元々、応神天皇が拝んでいた神が祀られていた。宇佐八幡宮は、秦氏が創建した全国の八幡神社の中心であり、そこには本殿が3つあり、本来は3つの神(三位一体の神)が祀られていた。”八幡”とは、元々”ヤハタ”と読み、”ユダヤ”を意味するヘブル・アラム語の”ヤェフダー”、あるいは、”秦氏の神”の”ヤハ・ハタ”から来ている。749年に、ここから初めて神輿(みこし)が上京したが、神輿は旧約聖書の「契約の箱」に酷似している

  また、初代神武天皇以前の日本神話の系図についても、旧約聖書によるエフライムの系図と話の内容が全く同じである。(T歴7:20−27) これは、日本神話が書かれた当時、天皇家をユダヤのエフライムに見立てたい、しかも 聖書をよく知っている伝承者または筆記者が、意図的に創作した物語であると言える。ニニギもエフライムも、”実り多い”という意味。神武天皇の名前は、カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト であるが、これを古代ヘブライ語で表すならば、 カム・ヤマトゥ・イヴリ・ベコ・シュメロン・マクト すなわち、”サマリヤの王、ヤハウェのヘブル民族の高尚な創設者”、という意味になってしまう。(サマリヤは、古代ユダヤの北イスラエルの首都。”スメラ”を”シュメール”ととると意味不明となる。)
   

  (3) 秦氏以前の旧来の日本文化:

  旧来の日本の宗教については、秦氏が直接関わらなかったアイヌ文化の中に、精霊信仰(アニミズム)として表れている。(ただし、アイヌ文化は、さらに北方のオホーツク文化などと合流した。また、青森にいたユダヤ人グループからのヘブライ語が少し入っているといわれている。)
  『記紀』のなかで呪術的力をもつ女王は神功だけである。(14代仲哀が神託を無視して死亡し、かわりに仲哀の妻の神功が国を治めたとある) 『三国志・倭人伝』が書かれた3世紀の、邪馬台国の卑弥呼の時代(卑弥呼が魏に使いを出したのは239年)は、神託政治、女性首長が一般的であった。ところが、九州では、『豊後国風土記』に、五島のツチグモ(イツマヒメ)、海部郡・宮浦の首長(ハヤツヒメ)、『肥前国風土記』に、佐嘉郡のツチグモ(大山田女、狭山田女)、賀日の里のツチグモ(ミルカヒメ)、オミナ山のツチグモ(八十女)、ソノキ郡のツチグモ(ハヤギツヒメ)、『日本書紀』のツチグモ(アソツヒメ)などのように、3世紀の卑弥呼やイチヨ、また、4−5世紀の神功のような、神託政治をする女性首長はごくありふれた存在だった。すなわち、邪馬台国は九州にあったことになる。

  秦氏が来る前の古代日本は、元々このような呪術・神託政治が一般的であって、Y染色体DNAのD2系統、すなわち、ハム系のアフリカ・地中海沿岸のカナン人などと同じような偶像崇拝の民であったと思われる。(* 分裂後の北イスラエルの霊性も、異邦人と区別がつかないほど、相当ひどかった(アハブの妻イゼベルなど)ので、D2系統がエフライムである可能性もある) したがって、アマテラスのような太陽神が先に祀られていた
  古代日本の宗教に関する言葉のいくつかに限定していえば、アイヌ語とも共通している。(カミ(神)−カムイ(神々)、タマ(霊)−タマ、ヒト−ピト、イノチ−イノツ、ラマ(魂)−ラマツなど) このような、日本人の精神性の最も深い部分については、その用語がほとんど変わっていない。(アイヌ語の、その他の言葉は日本語と全く違っていて、北方アジア系といわれる。)

  一方、8世紀に、渡来人や秦氏の立場から書かれた『記紀』や『風土記』にある、ツチグモやクマソという言葉はヘブライ語(*)であり、ユダヤ文化をもつ秦氏によって、大和朝廷に敵対する彼らにこのように名前が付けられたと考えられる。

  また、文身(口唇、眉毛、腕などへの黒や藍色などの刺青)の風習は、3世紀には『三国志』・倭人伝より九州や朝鮮半島の弁辰地方で行なわれ、7・8世紀には『日本書紀』・景行紀より東国のエミシに、8世紀には『隋書』・流求国伝に、そして、17・18世紀には『エトロフ島漂流記』などよりアイヌに、この風習を持っていたことが書かれている。

  したがって、天皇家そのものは、元々彼らと同じような従来からの豪族の一つで、彼らと同じ人種であった可能性が大きい

   * ケモシュ(Kemoshi)」(民21:29、モアブ人の守護神)と”クマソ”について、 ・・・ イスラエル人エフデは策略によって短剣を上着に隠し持ち、ケモシュの宮に入り込み王を剣で刺し殺し(士師3:16−30)、ヤマトタケルノミコトも策略によって短剣を上着に隠し持ちクマソの王を刺し殺した(日本書紀) ・・・ という、全く同じ伝承を持つ。
  また、ヘブル語で「トシュウェイ・グモ(Toshvei-gumot)」とは”穴に住む者”で、エドム人、すなわち、「岩の裂け目に住む者」(オバデヤ1:3)であり、”ツチ・グモ”という大和王朝に抵抗する、未開で凶暴な人たちだった。



  (4) まとめ:

  秦氏が、大和朝廷成立と古代日本の信仰と文化に対して、果たした役割は非常に大きい。後の武家社会においても天皇家が存続しつづけたことや、明治維新後、日本が欧米の奴隷や植民地にもならず、世界に向けて2度も大進出した要因は、ひとえに、天皇家が本当の神を拝み、祭祀として仕えていったからではないかと思われる。日本の霊的な王である明治天皇や昭和天皇がクリスチャン(祭祀王、執り成し者)であったことは、日本人にとって大変幸運なことであり、日本人種がハム系の民族的のろい(創9:25)を持っているにもかかわらず、霊的にはヤコブやモーセの祝福の預言(創49:22−26、申33:13−17)が霊的なエフライム(「人目に隠れたユダヤ人=霊的イスラエル=教会」(ロマ2:29))として成就していったと考えられる。
  (現在の日本のクリスチャン人口は一流の文明国であるにもかかわらず、イスラエル並に異常に少ない(0.5%)。もし、日本人の多くが、”本当の人種的なエフライム”であるならば、尚の事である。)



        (参考文献)  ・ 日本の中のユダヤ文化、久保有政、学研、2003 8
                  ・ アイヌ史を見つめて、平山裕人、北海道出版企画センター、1996


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