十字架信仰の力  ・・・・・  2006年巻頭言
                                                          2006 1/4



  2005年は、日常の”安心”、”安全”、”信頼できるもの”という神話が、日本中で大きく揺らいだ1年でした。4月25日朝JR西日本・福知山線快速が脱線・建物に衝突し、107人が死亡、555人が負傷しました。これは、通勤客を獲得するための”経済路線”でした。アスベスト禍が明るみに出た背景にも”経済性”がありました。それにもかかわらず、時代の流れは”官”から”民”へと流れています。 また、凶悪化する少年事件や、11月広島で、12月栃木でそれぞれ下校中に小1女児が殺害される卑劣な犯罪が起こり、これらは大きな社会不安を引き起こしました。

  その中でも、姉歯・元1級建築士による構造計算書の改ざん事件は、クリスチャンにとって重要な”環境からの示し”といえるような事件でした。
  昔と違って、H型鋼などの鉄筋を組んでから建てるのではなく、下から1階ずつ鉄筋の植え込まれた型枠にコンクリートを流し込んで建て上げていきます。そして現在の建築基準法では、震度5ではほとんど被害が無く、震度6〜7の大地震でも倒壊しない、という考え方で設定されています。しかし、今回の偽造では、建物(マンション、ホテルなど、6都県・78物件)の一本の柱(鉄筋コンクリート)内の周りに置かれた鉄筋の太さと本数が大幅に低減(直径32mm→25mm、32本→12本)され、千葉県のマンションでは、さらに、1階から最上階まで同じ鉄筋量でした。そうすると、1階と2階部分の耐震強度は基準値の31%しかなく、震度5強〜6弱の地震で鉄筋が切れ、柱にひびが入り、震度6強では1階部分のすべての柱にひびが入り、建物は大きく傾き、(阪神大震災のように)1階部分が潰れてしまうそうです。
  (ちなみに、預言されている東京大地震では、歴史にないほどの大きな地震で、ほとんどすべての建物は崩壊する。(by.リック・ジョイナー) だから、新しい立派な教会堂を建てることは意味ないと思われる。 また、フィリピンのマニラでは揺れ無しに 手抜き工事のためそのままオフィス・ビルディングが傾いて崩壊し、台湾の鉄筋アパートでは 各戸が石やセメントなどの重量物で改造し1階が潰れた実例がある。)


  教会は、キリストが土台です。しかし、たとい土台が”砂”ではなく「岩」であっても、その上に建てられる建物(*)(神殿)の「(**)」の強度が低いと、霊的な揺るがしによって簡単に倒壊してしまいます。柱の強度は、その中にある”鉄筋”の太さと量によります。すなわち、主イエス様といかに強い親しい関係にあるか(=いかに聞き従いのパイプが太くて多いか)ということが問われるのです。コンクリートは静かな圧縮応力には強いですが、地震によるせん断や引っ張りの応力にはきわめて弱く、鉄筋が入ることによってそれらが著しく強化されています。高い建物ほど土台と結びつく柱の強度が必要です。これは、私たちが、まったく主に聞き従っていないというのではなく(みことばからの示し、思いの中への語りかけ、聖霊様の促し、執筆・説教時の導き、などはよく体験することですが)、主の時に備えて、そのレベルをもっと上げていかなければならないということです。
  これから、(リバイバルと東京大地震の前に、) 教会が霊的に揺るがされてきますが、土台であるキリストにしっかりつながっている(***)聞き従いの歩みが、より強く求められていきます。そのためには、聖霊派、福音派、カトリックを問わず、設計段階からの偽装、すなわち、”教理”の妥協的部分を根本から見直す必要があると言えます。 ・・・ 第一に、品性(=完全に内側が解放され聖なる者とされ、すべての主が語られている言葉に聞き従っていること)、そして、神の存在を世に明らかにするためのカリスマ信仰、艱難期後再臨の終末論、権威・秩序・制度の考え方、など。御声を聞いて、完全に従うためには、内側の解放ときよめ(聖なること=完全に神のものであること)が必要です。日本に聖霊様が注がれる直前の、現在ほど、教会に”聖め”が要求されている時はありません。

    *  実際的な教会堂の建物を建設する時も、祈りと信仰による一つ一つの太い聞き従いと、信仰の試練と苦しみが必要であった。(チョー・ヨンギ師、『第四次元』 p223−274)

   **  「聖所の柱」(黙3:12、ガラ2:9、Tテモ3:15)

   *** 「私(イエス)につながっていなければ、実を結ぶことはできない。」(ヨハ15:4)


  さて、法務省の犯罪白書では、故意に人を死亡させた14歳以上の少年278人のアンケート(資質面の問題について・複数解答)によると、「思いやりや人の痛みに対する理解力・想像力に欠ける」が63%、「感情をうまくコントロールできない」55%、「忍耐心がなく我慢ができない」55%でした。暴走族らによるリンチなどの集団型犯罪は全体の76%と最も多く、特にリーダーが明確でない集団リンチではエスカレートしやすい傾向にあります。一方、家族型犯罪の少年の45%は虐待を受けた経験があり、26%は自殺未遂の経験があり、39%は両親が離婚している、でした。”人の痛みへの想像力に欠ける”とは、体験的に学習していない、体験的なしつけがなっていないということです。
  また、10年ほど前からの社会現象として、携帯ゲーム機によるテレビゲーム(2004年には人口の2割強)やネットゲーム(高校生以上、韓国や中国では死者も出ている)で培われた少年の、いわゆる”ゲーム脳”は、ゲームに耽溺することにより 合成麻薬レベルの量の 脳内ホルモン(ドーパミン:快感と興奮に関与する)が分泌され、小さい時からであるほど、視覚野から運動野へのバイパス回路ができ上がり、大脳の前頭葉(理性や自制、善悪の判断、言語、意志をつかさどる)が用いられていない状態になります。(ネブカデネザルのような7年間の獣の状態・ダニ4) これは、前頭前野に損傷がある”前頭葉症候群”の患者の特徴によく似ています。
  このようにして、キレやすい、反省しない、無感情の子供(あるいは、未成熟な大人)になっていきます。そして、わずかの感情の傷に悪霊が働いて 重大な事件を引き起こしていきます。


  ここで、神の子イエス様が、すべての人の罪のために十字架にかかられるとき、どんなに苦しまなければならなかったかを見ましょう。

  ゲッセマネの祈りの時、1回目の祈りで まだ確信がない(マタ26:39)、2回目 積極的な祈り(:42)、3回目 行動する祈り(:44−46)に段階的に変化しています。御父と一体であり、完全な愛の関係だったのが切り離される、また、肉体的にも十字架は非常に苦しい。このため”血の汗”を流して祈られました。血の汗は、非常に恐れなければ流すことができない汗です。
  捕縛の夜、大祭司、祭司長、長老、律法学者たち(ユダヤ人の代表)によって偽証の裁判が行われ、つばきをかけられ、御顔をおおい、こぶしで殴りつけられ、’言い当ててみろ’と嘲弄されました。役人は平手や棒で殴りつけました。
  夜明けに、ローマ兵(異邦人の代表)が駐留しているピラト総督の所で、ピラトが十字架をやめさせようとして、しかし結果的に、むごたらしい39回の鞭打ちを受けられました。このローマ流の鞭打ち刑は、兵士の最も強い男が 先の方にガラスや骨を埋め込んだたくさんの鉛の玉をつけた家畜用の鞭を、鞭打ちと同時に体に巻きつけて力いっぱい引っ張るやりかたです。このため体の皮膚は引き裂かれ、時には 目がえぐり出され、内臓が飛び出ることもありました。当時のヘブル語聖書によると、十字架では生肉がぶら下がっているようだと記されています。 その後、ローマ兵の大隊が、紫の衣を着せ、いばらの冠をかぶせ、葦の棒で叩いて嘲弄しました。
  十字架刑は、午前9時から午後3時まで6時間も続き、その間道行く人々やユダヤ人の指導者ら、ローマ兵たちが悪口を言い、傍らにつけられた罪人も悪口を言いました。(この罪人は、”自分と私たちを救え”と言ったのは 神の力は信じていた。しかし、もうひとりに”神をも恐れないのか”と言われたようにへりくだってはいなかった。こう言ったもう一人の罪人は、この時点でもイエス様を「神の子」と信じていた。)
  「私は乾く」と言われた後に差し出された酸いぶどう酒は、エリヤが助けに来るかどうかを人々が見るための気付け薬であり、残酷に延命させるためのものでした。

  近年、科学や創造論などの自然啓示によって 神様の偉大さが当時と比較にならないほどあかしされてきています。この 人間が決して計り知ることのできない偉大な方が、ご自身を無にされ、実に十字架にかかられ死なれました。しかし、神様はなぜこうまでして、苦しまれたのでしょう? それは、主の真実をすべての人々に表すためでした。
  そして、私たちも、主を知るためには、痛みや苦しみなどの犠牲が伴います。内側が解放され、聖められるためには、すなわち、肉が死ぬためには、死の苦しみがあります。十字架のキリストと同じようになって、そして、復活の栄光にあずかります。無力なところに、主の油注ぎがあります。
  (筆者も数年前建設現場で背骨を骨折したとき、イエス様の十字架の苦しみの何万分の一かを体験しました)


  神様の本質は「愛」です。イエス様は、さばきの時にも、永遠に「愛」なる方です。
  御子イエス様は、御父のすべての栄光を表しておられる方です。
  実際に臨死体験をしたある犯罪者の男は、死んで、さばきの座のイエス様の前に立ったとき、この上もなく非常に苦しみました。その苦しみは燃えるゲヘナにいるほうがはるかにましだと思うほどのものでした。それは、イエス様の栄光の輝きによって表されている、神様の想像を絶する愛の光に照らされ、彼自身の罪の醜さが白日のもとに曝され、彼が生前に十字架を信じてその愛を受け取ることができなかった、という今となってはどうしようもない後悔のためでした。この悔しさのゆえの苦しみは「彼らは泣いて歯ぎしりする。」ほど激しいものでした(マタ13:50)。ただしこの男は 神様のあわれみによって地上に戻されました。
  ゲヘナに落とされることは恐ろしいことです。しかし、神様の真実な愛を拒絶しつづけることはもっと恐ろしいことです。

  日本に、大いなる聖霊様の油注ぎが臨む時が来ますが、私たちがキリストの栄光を表すためには、まず内側が聖められていなければなりません。聖めとは、”完全に神様のものになる”ということです。私たちは聖霊様に示していただいて、悪霊との関係を断ち切り、内側の傷にイエス様の尊い血潮を塗ってきよめていただくことが必要です。内側がきよめられていなければ、神様の声を充分に聞くことも、本格的に用いられることもありません。
  オタクも偶像崇拝者も”不安”からそのような状態でいます。しかし、聖霊様が注がれれば、感情も思索も、ゲーム脳もいやされ、用いられるように整えられます。むしろ、自分で何かしようという、”原罪”にかかわる人間的意志や思索の部分が死ぬ手間が大幅に省かれ、「先の者が後になり、・・・」ということが成就します。


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