十字架信仰の力 ・・・・・・・ 2013年巻頭言
2013 1/5
昨年の10月から11月の約1ヶ月にかけて、タンザニアのジョセファット・ガジマ牧師(40)が日本に滞在され、全国で聖会を行われました。
彼は、ダルエスサラームで開拓教会を始めて、10年で推定10万人の教会に成長し、世界各国にも支教会が作られています。そのミニストリーの中でも、聖霊の満たしや
いやし、解放もたくさん起こりますが、何と言っても特徴的なのは、「死人のよみがえり」 が頻繁に起こることで、すでに去年の時点で400人を超えました。そして、生き返った人々から驚くべきあかしが語られています。 イエス様が言われた、「 ・・・ 、あるいは、わざによって信じなさい。」とあるように、世界中でどこにも見られないような著しいわざの働きそのものが、それらのあかしと ガジマ師のメッセージの信憑性を保証しています。(ヨハネ5:36)
生き返った人々は、いわゆる”ゾンビ状態”ではなく、死んだ原因となったガンなどの重篤な疾病も、瞬間的に完全にいやされて、その上で
霊が戻され、生き返っています。また、”仮死状態”ではなく、血液が血清と血餅(けっぺい)(=「水」と「血」)に分離し、医師が防腐剤を注射して、死後4日以上も病院の霊安室に置かれた多くの死人が生き返っています。(生き返った人々は、その後、イエス様を信じて救われ、ガジマ師の教会・支教会にいます。)
また 実際に、日本の A調布教会の信徒の息子さん(30)が ガジマ師の教会に長期滞在して、礼拝中に死人が生き返ったところをビデオに収めることに成功しました。(* 後日、公表予定です)
そのあかしの中で、ノンクリスチャンの状態で死んで、ガジマ師や他の牧師たちの祈りによって生き返らされた人々のあかしは非常に生々しいものです。
聖書に書かれているということで 我々はその存在を信じていますが、「ハデス」という一時滞留所は本当に存在し、人は死ぬとそこで生前の行いに応じて ハデスの堕落天使らによって拷問を受け続けるということです。また、人は、死んで霊が肉体を離れるときに、生涯で味わったよりも強い痛み(=
これが「死の苦しみ」)を感じるということです。これは生き返ったすべての人が証言していることです。(救われたクリスチャンは、この死の苦しみを感じないそうです。)
もっとも、イエス様がの再臨された後に、人々は「最後の審判」によってさばかれ、「ゲヘナ(=
火と硫黄の燃える最終的な霊の焼却炉)」に堕落天使らも投げ落とされ、そこで彼らは永遠に苦しむことになります。 「(海も、)死も、ハデスも、その中にいる死者を出した。 ・・・ それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。」(黙示録20:13、14) と書かれているとおりです。
ハデスで拷問を受ける理由は、結局、人々の霊が悪霊のレベルまで堕落して、主が、心おきなく彼らをさばくことができるためと思われます。これは、黙示録にある
地上での最終的なさばき(「第七の鉢のさばき」)で、すべての不信者が完全に悪霊どもに憑依されること(黙示録19:17、18)と同じです。
また、ハデスにいて、死んだ人が生き返るときに見た、ガジマ牧師と共にいた人たち(御使いかイエス様)の姿は、太陽のように光り輝いていたそうです。
一方、クリスチャンの場合は、死んで生き返った人は、特に イエス様のメッセージを伝えるために地上に戻されました。
→ ビデオ: (下のほうに、生き返った人々のあかし)
死人を生き返らせることは、「病人をいやし、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。」(マタイ10:8) とあるように、なんと、いやしと解放と並べて、命じられています。
ガジマ師が 11月に A調布教会の聖会で語られたメッセージは、特に日本のクリスチャンたちに対し、(国家のとりなしも重要ですが、その前に、)”家系の罪”の悔い改めをすることでした。
律法の「3代4代までの 罪の のろい」(確かに思い当たる節があるでしょう)、
「ノアが(ハムにではなく、彼の子孫の)カナンをのろった」という 理不尽なのろい(ただし、子孫に罪の性質が色濃く出る)、そして、バプテスマのヨハネが人々に悔い改めをさせ、そのただ中に
イエス様が来られたことです。彼の使命は「主の道を整える」ことでした。主の臨在は、悔い改めのただ中にやって来ます。 (北海道の金粉の奇跡も、アイヌ人に対する罪の悔い改めの最中に起こりました。)
主のわざが著しく具体的に起こっている器が語ったことで、これは、まさに、日本のリバイバルのための
主からの重要なメッセージです。
「人に惑わされないように気をつけなさい。 わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」(マタイ24:4、5)
さて、聖書には、世の終わりの兆候として、多くのにせキリスト、にせ預言者が現れ、多くの人を惑わすと書いてあります。これはいったい誰の事を指しているのでしょうか?
にせ預言者の類型パターンには、次のような人たちが考えられます。
1. 初めから救われていない、違う霊による者、 2. 時の支配者におもねり妥協して、その支配者の都合の良いことだけを語る者、 3. 最初は主に立てられた預言者でありながら、後に堕落してしまった者、 4. 人間的な言葉を”預言”と称して人々を支配するもの、 5. 精神疾患を持ち、立たされるべきでないのに語ってしまうもの、 そして、 6. 異端的な教理の影響がで出てしまうもの、 などです。
1.は、ニューエイジや、占いの霊によるもので、必ずしもキリストを自称していないが、クリスチャンたちも影響を受けてしまうものです。 人類滅亡の契機と一部で噂される2012年12月12日のマヤ暦最後の日が最近話題となりました。中国では、”全能神”というキリスト教の一派が、神の支配する地上天国を樹立することを主張したために、1000人近くの人々が当局に逮捕されました。惑わされなかった他の中国のクリスチャンたちも圧力を受けました。 ロシアでも、買い占めが起こり、カルト的にせキリストも現れています。 米ミシガン州では、この日が”終末の日”として銃乱射を警戒して学校が休校になりました。 日本では、ごく一部の人たちが冷やかし半分で、ネットなどで少し話題になった程度でした。
2.は、旧約時代の妥協型のにせ預言者で、純粋に主のことばを語らず 世の支配者におもねる態度で預言をするので、「偽りを言う霊」が働いてにせ預言を語るもの。十字架を負わないと惑わされる典型的な例です。(歴代誌U
18:18−22)
そして、終末の時代には、終末のにせ預言者が「天から火を降らせるような大きなしるし」を行って人々を惑わし、「反キリストを拝ませる働き」をすることによって、その罪がクライマックスに達します。(黙示録13:11−15)
3.は、初めは主によって預言者として召されていながら、(理由はいろいろあると思われますが)次第に主との関係が疎遠になり、主からの言葉が少なくなって、新たに立てられた別の預言者に対するねたみによって、にせ預言を語り、結局その預言者を殺してしまうもの。(列王記T
13:11−32) 「ねたみ」は、カインがアベルを殺したときからの、原罪に非常に近いもので、イエス様も、ねたみに燃えたパリサイ人たちによって十字架につけられました。 伝説の預言者として初期に用いられたポール・ケインは、最後は同性愛の罪で落とされました。
4.は、カルト的な教会のパターンの一つですが、預言の賜物が未熟でまだ良く捉えられていない段階で、権威・秩序を過度に重視し、主任牧師が自分の願望によって器を立てるために、人間的な言葉をそのまま主からの”預言”として扱い、人々を支配し、遣わすもの。 SJ教会がこれでした。
充分成熟していない信徒を牧師として立て、後でいろいろな問題や分裂・牧師の脱会などが出ました。(ただし、SJの地方教会では良い教会もあります)
5.は、解放されていない精神的問題があるにもかかわらず立てられ、フラッシュバックの危険があるもの。(日本でも事件かありました) イエス様は、悪霊から解放されたばかりの人が
お供することを許さず、ただ人々に自分をあかしをするよう言われました。解放された後、たましいが矯正されるまで時間が必要です。
また、心に「苦い根」を持ちながら、霊的権威が与えられることはありません。(使徒行伝8:9−)
そして6番目に挙げた、異端的教理というものが、見分けにくい、この時代の最大の問題点です。(「滅びをもたらす異端」(Uペテロ2:1))
「にせキリストが大ぜい」ということは、結構メジャーなところに入り込んでいるということです。
ケネス・ヘーゲン(”信仰のことば運動”、1980頃)の弟子 ケネス・コープランドの流れに、最も基幹の、「救いの信仰」に異端的な要素が入り込んでしまい、それが世界中の聖霊派の諸教会に流布していることが、ジェイコブ・ブラッシュ師(イギリス、神学校教師)によって指摘されています。(レッド・アース・ミニストリーの文) それは、ケネス・ヘーゲンの十字架理解は、御子イエス様が、肉においても、霊においても、死んだと主張していることです。( ・・・ 初期の グノーシス的な霊肉二元論の考え方。霊が全て正しく、肉体は全て汚れたものであるというもの。)
その内容は、”イエスは十字架上でご自身の働きを完成されず、イエスはサタンの性質をご自身に受け、地獄に行き、そこで三日間苦しみを受けた。その後イエスは地獄で新しく生まれた。その後に悪魔を滅ぼし、御父の元に戻った”、というものです。( → 参考ブログ: ケネス・ヘーゲン兄が異端である理由 * ただし、文中の”モリエル・ミニストリー”の引用については、ガジマ師さえも批判していて、”批判の霊”に惑わされているミニストリーなので、参考にはならない)
これは、明らかに、聖書の記述に反します。 聖書には、
1. 十字架上で、すべての民の贖いを「完了」された。(ヨハネ19:30)
2. 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(このとき、御父を「神」と呼んでいるので、御父と分離された状態)の後に、「完了した」、「父よ、わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)と言われた事。父なる神との一体の関係が、十字架上の最後に回復している。
3. 「肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」(Tペテロ3:18) 霊においては生かされて、ノアの時代に不従順だった霊たちに、みことばを宣べ伝えられたのでした。決して、ハデスやゲヘナで苦しまれ、霊的に死んで、(一時的にも)サタンの性質を受けられたのではありません。
4. 「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。」(マタイ24:35) 神のことばである主イエス様は、永遠から、永遠まで、決して変わることが無い方。
と、書かれています。
この、聖書を逸脱する”異端的”な教理は、残念ながら、すでに世界中の器たちに広まり、特に、いわゆる”繁栄の福音”を教えている教師たち(ケネス・ヘーゲン、ケネス・コーポランド、フレッド・プライス、ベニー・ヒン、ジョイス・メイヤーなど)に浸透し、また、カンザスの群れや、他の ケネス・ヘーゲンミニストリーで学んだ器たちも影響を受けているといわれています。
もしこの”信仰”をもって 霊的なミニストリーをするとどうなるでしょうか?
日本では、まだ キリスト教勢力がマイナーであるため、にせキリスト、にせ預言者のニュースがあまり無いのですが、海外では、スキャンダルや金銭トラブルなど頻繁に話題になっています。
アメリカ在住の ある日本人牧師のあかしでは、その教会に、ちょうど 韓国、東南アジアやオーストラリアへの中継点として、預言者たちが来て預言をしていく(同教団なのでやむを得ない)そうですが、いつも全く的外れな”預言”をしていくそうです。
10年前の”預言”によって、4−500坪あった教会を一番値段の安いときに売り払い(現在では3倍の価格)、その結果として、後の場所が与えられずに10年以上が過ぎ、現在は公立の学校を借りて毎週礼拝を持っているそうです。それでも教会員の人たちはまったく後悔していないそうです。 また、TVなどで放送されている、シンディー・ジェイコブの預言は、(霊が違うと感じさせ、)大きなことを言うのですが、何も起こらない。ベニー・ヒンは大きく外れている。ピーター・ワグナー師でさえも、現在は少し外れてきているそうです。
筆者も、20年前 N県にいた時、NS教会(教団は福音派で、聖霊のバプテスマ、いやしなどのカリスマになった教会。当時、他は福音派ばかりで、カリスマを教えているところは無かったので何回か行きました)で、牧師の口から上記の異端的教理をはっきりと聞きました。その教会は、”いやし”のミニストリーでは、祈ると体や患部が(あやつり人形のように)動くのに、実質的ないやしは起こっていませんでした。おそらくオカルトの霊が働いていたと思われます。(教会のホスピタリティーはよくできていて、人々は皆
親切でしたが、しかし霊的には気持ち悪い感じがしました) その後、青年部の分裂騒動が起こりました。 その後も、オカルトの霊の働きは、他の地方のいくつかの教会のミニストリーでも見ることができました。2003年に韓国系のTD教会に招かれていた I.S.のミニストリーは典型的なオカルトでした。
この”異端的な”信仰の状態で、「預言」を語るとどうなるでしょうか?
イエス様は神であり、「神のことば」です。(ヨハネ1:1) もし、この「神のことば」なる方が、一時的にも”サタンの性質”を持ったとしたら、「預言」の中に、「にせ預言」が混在することにならないでしょうか? サタンの実質は、「真理の無い偽り者」(ヨハネ8:44)であり、「盗み、殺し、滅ぼす」方向に持っていく言葉、すなわち、「にせ預言」となってしまいます。(
⇔ 御子イエス様が来られたのは、「サタンのくびきを打ち砕き」、「私たちが
いのちを持ち、しかも 豊かに持つため」です。 これこそ本当の「預言」です。)
預言と にせ預言が混在している例としては(経済的な例ですが)、 A教団のT教会で、ある兄弟は個人預言を受けて、土地取引で大もうけをし、九州(彼の出身地)に教会堂を建てて献品し、結婚もしました。しかし、たとえば、ある姉妹は、”預言”に従った結果、持っていた一財産を失ってその教会を出たことを筆者に伝えました。 その教会は、人の入れ替わりが激しい教会です。
「西のほうでは主の御名が、日の昇るほうでは、主の栄光が恐れられる。」(イザヤ59:19)
「愛を追い求めなさい。また 御霊の賜物、特に、預言を語ることを熱心に求めなさい。」(Tコリント14:1)
ここで問題なのは、個人預言を否定する、この反動で、聖霊の賜物、特に、「預言を語ること」求めることに消極的になってしまうことです。これこそ、サタンの策略です。 この”反カリスマ”の霊の惑わしに乗ると、かつて、福音系の教会が 聖霊のバプテスマや異言、いやしなどの働きを、教理レベルで拒絶した誤謬による結果と同じようになることです。
一つだけのタラント(=「救い」だけ)では、それをも失ってしまう危険がある。
筆者がかつていた N県の福音派で、反カリスマの先頭に立っていたある教会役員(数十年も役員だった)の人は、その後、なんと”まひかり教”に行ってしまった!「聖霊様を汚す罪」のため救いを失ったか、初めから救われていなかったのに”宗教の霊”を受けてずっと役員をやっていたのか?(マタイ25:14)
ペンテコステ派でも、個人預言を警戒するところも多いですが、たとえば、チョー・ヨンギ師が集会で行う会場にいる人々に対するいやしは、(チョー・ヨンギ師自身がそう言いましたが、)「いやし」の賜物ではなく、「知恵・知識」と「預言」でした。( ・・・ の悪い人がいます(知恵・知識)、今、その人は いやされました。(預言、この場合、個人預言)) 「預言」の威力は抜群です。
「日の昇るほう」=日本、(サハリンや、インドネシア、オーストラリアなども)では、主の「栄光」が恐れられるとあります。この「栄光」とは何でしょうか?
それは、主の しるしと不思議、御霊の9つの賜物(Tコリント12:7−11)の現れ、また、解放、死人のよみがえり で無くして何でしょうか? (人間的な方法ではなく、)御霊の賜物によって、御霊の9つの実(= まとめて「愛」の実、ガラテヤ5:22、23)を結ぶことができます。また、御霊の賜物は、伝道のための強力な武器です。武器無しに戦場へ行くと、傷を受け、死ぬこともあります。
(* 「西のほう」は、アメリカ西海岸など、すでに名目上”キリスト教国”でありながら、「主の御名を恐れる」ことが少なくなっている状態からの
回復がなされることを言っています。)
したがって、日本のリバイバルには、聖霊様による ”力の伝道”、しるしと不思議を伴う伝道が特に用いられることになります。 これは、「ユダヤ人はしるしを求める」とあるように、ユダヤ人伝道の召しにも共通することです。
「預言を語ること」は、(聖霊様のバプテスマに伴う「異言」や、「いやし」、「悪霊追い出し」と同じように、)クリスチャンならば誰でもできることであり、勧められていることです。(* いわゆる「五職の預言者」は、生まれる前から主によって定められ、はっきりとした主の目的・テーマがあり(ex.国々の預言者、警告の預言者など)、イエス様が直接任命されます(エペソ4:11); 使徒の場合は、パウロのように「異邦人使徒」などのテーマがあります)
小アジアの港町コリント(荒くれ男、血の気の多いラテン男児や水商売の女性が多かった)にあったコリント教会は、秩序が混乱して風紀が乱れていた、しかし、御霊の賜物はよく開かれていた、という不思議な教会でした。パウロは、実に、この教会に、「預言を語ることを熱心に求めなさい」と強く勧めたのです。もちろん、「預言を吟味しなさい」、また、「愛を追い求めなさい」とも言いました。
そして、Tコリント15章では、「福音」について「最も重要なこと」として再確認させています。
ましてや、日本の教会が預言を語ることを、どんなに主は求めておられることでしょう。 純粋で正しい「救いの信仰」を持っている人ならば誰でも、御霊の賜物、特に、「預言」を語ることを、積極的に求めていくべきです。
(参考) AT教会のガジマ師聖会で、副次的に行われた個人預言のセミナーを受けてきました。(大まかに次の順序で、個人預言の訓練を行いました。)
・ 霊的環境整備のため、(預言を語れなくさせる)”宗教の霊”、”オカルト・占いの霊”などの妨害の霊を、イエスの名によって
縛って追い出す。(旧約の預言者は 宗教の霊によって殺された)
・ 聖霊様が預言の霊として臨在してくださり、預言が開かれることを祈る。
・ 2人か3人でペアを組む。(夫婦、親しい友人でない人と。知っていると人の知性が出てしまうため。)
・ 「主は言われます。神様はあなたを愛しています」という(誰に対しても共通する)言葉で語り始め、できるだけ早口で2〜3分語る。語り終わったら、交代して行う。 (人間の霊、自分の思いは結構強く、預言を妨害するため。語る人にとって意味不明のことばであって良い。早口で語るのがコツ。
すでにかなえられた、という信仰をもって語る。)
・ 3人で預言する場合は、1人を2人が預言し、まず1番目の人が預言し、2番目の人は1番目の人が捉えた流れに沿って預言するようにする。(「吟味」しながらの預言。 御霊の一致が感じられたら、それは神様からの言葉である可能性が高い)
(・ 信仰の弱い人やノンクリスチャンはオブザーバーになって休んでいてもらう。)
これは、祈祷会などで短い時間すると良いと思います。 AT教会のS牧師によると、このような訓練で語られた言葉の約50%は、10年の間に成就したそうです。
知恵・知識やいやしなどと違って、預言が実際成就したかを吟味するには時間が必要(結果吟味)ですが、後になって成就した言葉の多さに驚かされます。 ただし、みことばと違う言葉は即 捨て、内側に示されていることと違うものも捨て去るべきです。
もちろんこれは教会内の訓練として、互いに預言の訓練を行うことを合意・了承した上で行うにとどめ、対外的にやるべきではないものです。
誰でも 時々は「預言」を語ることができますが、訓練と吟味を繰り返す中で、特に
主から「預言の賜物」が与えられた器を発掘することができます。
また、誰でも預言を語ることで、その人の内側におられる聖霊様が活性化される( = 「徳を高める」(Tコリント14:3))、という一大メリットがあります。 祈りも、奉仕にも、伝道にも、すばらしい相乗効果です。
「不法がはびこるので、人々の愛は冷たくなります。 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」(マタイ24:12、13)
前後の文脈から、この「不法」とは、世のことではなく、教会内のことで、 1. 多くのにせ預言者の 信仰を生ぬるくさせる働きと、 2. その反動による、聖霊様の自由を奪う働き、の両方のことです。
(世による本格的な迫害は、終末の大リバイバルの直後です)
後者について、すべての集会、ミニストリーには聖霊様に第一の主権があります。 先ほどの”宗教の霊”を除く必要があります。 100年前の ほとんど人手によらないアズサリバイバル(無名の黒人の伝道者セイムーアによって始められた)も、プログラム等を作り、”制度的”になった途端止みました。(そのかわり、他のところへ飛び火しました。)
また、必要最小限以上の権威・秩序を定めると、”支配の霊”、”服従の霊”による”カルト”になってしまいます。
12月31日に E区の K教会行われた、ドクター金山師(ニューヨーク在住・産婦人科医、日本の霊の戦いで来日)のメッセージの中で、2007年ノルウェー招聘時に示された 世の終わりのリバイバルのときに神様に用いられる5つの国の一つが日本でした。 そして、日本が特別に宣教の召しとして語られている国は、なんとイスラエルでした。
「異邦人の完成のなるときまで」(ローマ11:25)とありますが、ユダヤ人たちに公表できない”隠れキリシタン・ユダヤ”
= メシヤニック・ジュー の形で信仰を守っているグループが、世界にもイスラエルにも結構います。イエス様が主であると公表する
かの時には、殉教し、あるいは、ユダヤ・コミュニティーから追放されます。(殉教者の精神が必要です)
「ギリシャ人(=異邦人)は知識を追求し、ユダヤ人は しるしを求める。」とあるように、日本人だけでなく、ユダヤ人に対しても、「しるしと不思議を伴う伝道」が効果的に用いられると考えられ、御霊の賜物を求めることは、日本人クリスチャンにとって ますます必要であることになります。
約2000年前、主イエス様が、十字架上で、私たちの罪の贖い(神様のものへの買戻し)を 完全に「完了」してくださいました。十字架にかかられたイエス様が、永遠に変わらない「神のひとり子」であるがゆえに、贖いは完全だったのです。
また 神は、神ご自身のひとり子であるキリストを、ただ一回、いけにえの「子羊」として捧げられたことにより、「律法」の要求が完了し、その贖いを受け入れる者を 無条件で良しとされました。 罪は一つも犯されませんでしたが、神が「人」として来られ、私たちの弱さを体験されました。そして、弱い私たちをあわれみ、復活された今、父なる神にとりなし続けておられます。
御子イエス様の十字架によって、「神の愛」が完全に明らかにされました。
「使徒行伝」とは、聖霊様による「聖霊行伝」です。 私たちは、偉大なる神の愛に答え、御子イエス様の十字架と復活にあずかり、主と共に神の栄光に預かるものとして、自分の十字架を負ってイエス様の弟子となり、主を恐れつつ、聖霊様と共に進んで行こうではありませんか。