7. 信じるものは救われる ・・・ 科学と聖書の比較


 現代は科学万能の時代。正確には、科学信奉”の時代であり、実際に目で見て実証できないものは、二の次とされる時代です。しかしながら、実証できなくても、科学的な”定説”となったものも同様にそのまま信じられている状況にもあります。これは、自然を探求し突き詰めれば、いずれはこのような時代になると考えられていました。 ここで、啓蒙されていない昔の無知な時代の”キリスト信仰”を持ち出して、今あえて”科学”と比較するのも面白いと思います。そうすると、キリスト信仰と科学がいかに合い入れない、いわば水と油のような関係にあるかが分かります。

     項目                科学                 聖書     
1.  神の存在  (神はいない) 神は永遠の昔から存在する人格神
2.  天地万物の起源 ビッグ・バンによって大宇宙が
自然発生的に誕生した
神が6日間で神のことばによって
天地を創造した
3.  生物・人の起源 地球上の長い時間をかけて
自然発生的に誕生した
神が6日目に地上の各種の動物と
神に似せて人を造った
4.  物質観 物質やエネルギーは形を変えても
トータルの量は不変(保存則)
神は万物の秩序を定め支配しているが、
時として、無から有を創造する
奇跡は再創造のわざである
5.  霊とたましい  心理学的には取り扱う事が
できるが、その実体については
触れないことにする
霊は永遠不滅の存在
人の霊のほかに、天使と悪霊がいる
6.  死後観  (人は死んだらおしまい。
もしかしたら、何かに生まれ変る
かもしれない)
天国と地獄がある。
人は原罪のために地獄でさばきを受け
なければならない
7.  救い  (困った事があっても何とか
やっていけば良いではないか、
死んだらそれまでだ)
神の子イエス・キリストの
十字架による罪の贖いを
ただ信じることによって
神の子とされ、永遠のいのちを受ける
8.  探求法 知的に論理的に突き詰めて
いけば、どのようなものでも
正確に知り、また支配できるはず
神のことばに聞き従うのが、たとい
非合理的に見えても、最善の生き方。
聖書の中にすべての宝がある
9.  事の善悪  (定められた法律に従えば
後は何をやっても良いではないか)
神が定めた具体的な戒めがある
10. 終末観  (これからずっとこのままでいく
だろう。環境保護とか人口増加
問題などに気をつけよう)
この天地の終わりの時、及び、
神のさばきの時が来る
11. 人生の目標  科学・技術の発展により
社会に貢献する、と同時に
利潤を追求する
神の栄光が現れることを求める


 さて、冒頭の疑問について、すなわち、これだけ聖書と相反する”科学”、あるいは、”科学的・合理主義的常識”が圧倒的に押し迫っているのに、何故にクリスチャンは何ら問題なく神を信じているのでしょうか?。クリスチャンは科学を知らないから信心深いのではありません。(物理学者でも技術者でも政治家でも神を信じているクリスチャンが大勢います。)

 それは、神の方からその人たちに呼びかけ、その人たちがそれに応じて、イエス・キリストの十字架を信じて、その結果、聖書に約束されている神の霊(聖霊)”を受けたからです。
 もし、十字架と共に私たちのたましいが死ぬならば、聖霊によって生かされるのです。

 聖霊は、神の真理をすべてのクリスチャンの心に悟らせ、また、真理に導きます。
 また、聖霊によって、”聖書”が”誤り無き神のことばであることがわかります。

 これは、決して他の人による洗脳ではなく、はっきりと心で神を認めていても、知的には科学や常識を知っています。そして、頭ではそれらを理解していても、聖霊は心の内から語り、違うものは違うと教えてくれます。

 もし、あなたに、神の呼びかけがあるならば、心を開いて、救い主イエス・キリストを自分の神として受け入れてください。聖霊を受ける時、この世に無い、全く新しいいのち平安を体験します。


 ※  たいていの教会に行けば牧師さんが親切に導いてくれます。


 【 聖書のみことばより 】

 「そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると、光ができた。」 (創世記1−3)

 「神よ。 あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。 その総計は、なんと多いことでしょう。」 (詩篇139−17)

 「知恵ある者は、その頭に目があるが、愚かな者はやみの中を歩く。しかし、みな、同じ結末に行き着くことを私は知った。」 (伝道者の書2−14)

 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。」 (イザヤ書55−8)

 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」 (マタイの福音書6−33)

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 (ヨハネの福音書3−16)

 「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」 (ローマ人への手紙1−20)

 「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じるものを救おうと定められたのです。」 (コリント人への手紙第1・1−21)

 「なぜなら、万物は御子(イエス・キリスト)にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」 (コロサイ人への手紙1−16,17) 

 「あなたがたには聖なる方からの注ぎの油(聖霊)があるので、だれでも知識を持っています。」 (ヨハネの手紙第1・2−20)

 「私は見た。小羊が第六の封印を説いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。」 (ヨハネの黙示録6−12)


 ( 筆者の救いの時のあかし )

 大学入学の時、私はある体の問題で非常に悩んでおりました。高校の時、倫理社会の参考書で読んだ聖書の福音書の一節を思い出して妙に気になっていて、聖書を読みたいなと思っていました。また、キリストだけは他の何物とも違うと感じていました。それは深遠で神々しい、青白く輝く光のイメージでした。そのほかの、仏教や神道や他の宗教などは何か軽々しく、薄っぺらで、偽りのものだとも感じていました。なぜなら、キリストの十字架の愛の尊さをうすうす感じていたからでした。このような神は神としてふさわしい方だと。そしてこのような神は他にはいないと。 もし神と言う存在が本当にあるならば、神はこのような深く尊いお方だろうと思いました。
 そのすぐ後、大学の教室でKGK(キリスト者学生会)の人たちが新約聖書を配っていましたが、他の学生たちは単なる配布物と思い、席の後ろに回して、ちょうど私のところまで来て終わりました。これはきっと神様が私に聖書を読むようにくれたのだと思い、家に帰ってから読み始めました。 すると、聖書のみことばを通して、神が何度も何度も、”信じるか?”と語ってくれました。それで、私は驚いて、語られるたびに、”信じます”と答えました。本当に心で信じて口で告白してしまいました。
 その数週間後、今まで一度も聴いたことが無かった、父親が持っていたバッハの曲のレコードを聴いた時、聖霊が強く臨み、喜びにあふれ、曲を口ずさみながら踊りだしてしまいました。この時同時に、幼い頃のいやな思い出や傷がいやされ、すべて本当にきれいな新しい情景の思いに変えられてしまいました。この幻はまさしく天国のそれであると思いました。そして、心の内にあった殺意や苦々しい思いがすべて消えてなくなり、非常に心が軽くなりました。
 その後、時間的余裕があったので、人生の勉強だと思い、学内で宣伝していた統一協会や超越瞑想やエホバの証人や得体の知れない偶像崇拝の宗教にちょっと顔を出してみましたが、私はすでに救われ、聖霊を受けていたので、それらが全く違う、偽りの、魅力の無いつまらないものであると感じ、全く動揺される事無く、すぐ出てきました。
 信じてから1年後、自宅に配られていたトラクトによって福音系の教会に行き、念の為にその教会の牧師さんから救いの祈りを導いてもらいましたが、すでに信じていたのでこのことで特に変化はありませんでした。(水のバプテスマは、ある都合の為、ずっと後の8年後に受けました。)
 大学での学びは学びとして、私の心の内は大いに変えられ、平安とこの世に無い神の喜びにあふれました。そして、聖書は、頭では理解できない所があっても、まちがいなく神のことば、真理であると確信しました。この確信は、20数年経った今も、全く変わる事がありません。


( ※ 新生している、どのクリスチャンにも、イエス・キリストの十字架による救いのあかしがあります。これは、文化や人種や国籍を超えて、初対面であっても、どのクリスチャンにも共通している事です。真理がより明らかにされる為、いろいろな教理上の教派がありますが、基本的には同じ救いです。 なぜなら神の霊はすべてを超えて一つだからです。)


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