真の芸術についての考察 ・・・・・ 「まことをもっての礼拝」(ヨハ4-23)



 預言者たちの預言によると、主は、新しい賛美と芸術の働きを教会に回復させ、それらに聖霊の油注ぎを与えようとされている。真の”芸術”は、主が創られたものを通して主御自身のすばらしさを知り、私たちに畏敬の念をいだかせるものである。そして、それは主を崇める方法として教会に回復してくるはずである。
 イエス様の十字架という、神の真実が現された事に対する私たちの応答として、私たちが主を愛するならば、「まことをもって礼拝する」(ヨハ4-23)事が、リバイバルの動きに先だって行なわれるのである。(cf.「霊による礼拝」・・・賛美、異言、預言、また、聞き従っての奉仕など)

 芸術の分野として、 1.被造物そのものにおける主の栄光のあかし・・・宇宙は主のキャンバスであり、主は被造物を御自身の喜びとし、それらを祝福されるように創られた。)(→ ”芸術”としての”科学から信仰へ”もその一つ((*)再度、作成予定))、 2.人工的なものに主の油注ぎが与えられ用いられるもの(シロアムの池・・・岩をくりぬいて作った人工的な池、他の水源から流れ込んでいる。それは、人々の目を見えるようにさせ、主の栄光を見るように導く。むしろ、目が見えるといっている人々が見えなくなる。)が考えられる。


 さて、これらの油注ぎが教会に与えられるが、積極的な受け入れ態勢ができていないと、それらは世に出て行って働きがなされる事になる。
 取税人や遊女たちの方が、宗教の霊に囚われた宗教家たちよりも、先に神の国に入る。急進的な、あるいは、同性愛に落ちた芸術家の方が、実は、真の礼拝に近い。彼らは、ただ、もう少し自己中心から脱却すれば、良い実を結ぶようになるように思われる。なぜなら、今は、イエス様の十字架の血による新しい契約の時代、恵みの中の恵みの時代だからである。 (ソドム ⇔ カペナウム、 ツロ(**)、シドン ⇔ コラジン、ベツサイダ(マタ11-20〜24))

 教団・教派にいるいないにかかわらず、他の教会や新しい動きに壁を作らない教会が用いられる。12使徒はてんでばらばらの個性を持っていて、今の教会に収まりにくい人々だった。保守的あるいは自己中心になって、自分と流れの同じ仲間や教会・教派としかかかわらない”霊的同性愛”は、エイズのように、外乱に対する免疫力を低下させる。(いのちの無い死んだ形式主義の奴隷、カリスマならば霊的過敏症やにせ預言)
 神を崇めて礼拝しているように見えても、実は、私たちが心を奪われているものを礼拝しているに過ぎない。(自分、教会、教団、牧師、偶像、カリスマ、教理など。聖書すら偶像になり得る。) このような時、新しく造られたものになることはできない。善悪の知識の木の実のうち、”善の実”も、”悪の実”と根は同じであって、一見良いものを装う為、人間の善は十字架にとっては最大の敵、また、神への冒涜である。聞き従いのBest(最善)の代わりの、人間的な Good(まあ良い)は最悪である。(人間的な一致など)。

 また、行き過ぎた権威・秩序の行使は、(歴史も証しているように、)教会内の異端的あるいは反抗的動きをする毒麦のような人たちを全部合わせたよりも、ずっと破壊的であり主の御心を損ない、教会にとって大きなさばきを招くものである。

 一方、いのちの木の実による真の創造性は、世にある、あらゆるゆがんだ描写の芸術を色あせさせ、人々の目を引かなくさせ、そして、人々の目をキリストに向けさせ、真を持って主を礼拝させるようにするのである。


 *  時代の終焉にあって、自然の最小単位である個々の光(光子という素粒子)によって、想像を絶する偉大な御父、創造主なる主の存在と、全宇宙の驚くべき基本的な性質(一つ一つの素粒子の全宇宙に対する分離不可能性)が解き明かされた事は、神のユーモア(神の諧謔(かいぎゃく)性)としか言いようがない。どの哲学者がこのようなモデルを想定し得たであろうか。
 そして、イエス・キリストという世の光が、物理法則を超えた奇跡によって神をまっすぐに解き明かし、その十字架と復活によって、信じる全ての者に永遠のいのちを与え、世々に至る圧倒的な恵み再創造の力主の栄光を私たちにもたらしたのである!。


 **  ツロの文化は、贅沢で、派手で、俗悪で、騒々しかった。(エゼ26〜) しかし、ツロという国が滅ぼされた直接の理由は、主の民イスラエルをあざけったことである。主は、ツロやシドンと比較して、敬虔そうに見える宗教的な善人の町々を非難し、さばきを預言している。
 主は、イエス様の十字架と聖霊の力によって、これらの人々を敵の支配から奪回し、聖め整え、リバイバルの働きに大いに用いようとしておられる。

 (ツロは、エルサレムという税関(「国々の民の門」(エゼ26-2))を通して、南の国々と交易をせざるを得なかったが、この預言直後のバビロンによるエルサレムの陥落により、各国の財を直接得るようになった。エジプトなどの外国の力や文化を取り入れ、海運などの交易によって繁栄していた。ツロは要塞の町であり、バビロンの王ネブカデネザルによる13年間の包囲や、他の国々による攻撃にも耐え陥落しなかった。(直接的にはこの預言は成就していない。エゼキエル書は終わりの時の各国の様子を預言したものと考えられるので、ツロがどの国を指しているのかを知らなければならない。不景気とは言え日本は世界経済を何とか支える、いくつかの経済的な要塞の町の一つと言える。) 歴史上のツロは、BC332年になって、ギリシャのアレクサンドロス大王によって廃墟になった。)


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