終末の大リバイバルについて;
〜 サマリヤの女の箇所より
人として来られた神のひとり子イエス様は、私たちと同じように飲み食いし、喜怒哀楽の感情があり、疲れたら休まなければならなかった。十字架の直前にはさすがに動揺し弟子たちにとりなしの祈りを頼んだ、そんな人間らしい人間だった。
一方、同時に、イエス様の周りには、わざに次ぐわざが起こり、膨大な数のわざを行ない、イエス様はわざの塊であった。ただし、思いのまま、あるいは、大雑把にわざを行使したのではなく、全てのわざが、忠実に一つ一つ御父に聞き従って行なった結果である。 賜物だから、聞き従わなくてもできたであろう。(賜物は、実は、祈らなくても、聞き従わなくても、主から与えられていれば現れる。) さらに、十字架から降りる事さえできた。
しかしながら、御父と御子との無限の愛の信頼関係はどんな状況にあっても全くゆるがないものであった。
バプテスマのヨハネは、弟子たちに悔い改めを教え、主の働きのために彼らを整える働きをしていたが、彼の所にわざが起こっていなかったわけではなかった。ただ、イエス様の行なうわざがあまりにも強く偉大なので、彼は目立たなくなってしまった。そして、彼はひっそりと獄中で殉教したのである。(これが彼の使命であった。)
さて、終末のリバイバルには私たちがその担い手として、イエス様以上のわざを行なう事が予告されている。(14-12) その一つのやり方として、”サマリヤの女の箇所”から学んでいこう。 これは、ヨハネの選んだ7つのしるしには含まれていないが、リバイバルの方法として非常に重要な記述である。
「ひとりが種を蒔いて、(すぐに)ほかの者が刈り取る。」(ヨハ4-37)
この、ヨハネ4-34〜38は、終末の大収穫を予告する箇所である。そして、サマリヤの女の記述のただ中に位置している。
終末の大リバイバルでは、種蒔きしてすぐに刈り取りのくりかえしになる。(イエス様はそのときその様子を幻で見た。(4-35)) その用いられた人が、”サマリヤの女”である。
種蒔きとは、主が語られるそのポイントの人の所へ行き、賜物を行使して個人伝道する事である。(4-16〜18) 刈る者とは、この場合この女性であって、イエス様や弟子たちがわざわざ排他的なサマリヤの村に入って伝道しなくても、彼女の伝道によって信じる人々を村ごと獲得したのである。(4-38)
ここで、賜物の行使が重要である。イエス様により知恵・知識のことばが語られ、その結果、人目を避けていたこの女性は大いに変えられ、自らの意志で、猛烈な勢いで伝道していったのである。
彼女にとっても、いやされ、解放され、主の御名によって皆と一つになり、天に宝を積んで良い事ずくめであった。
主の働きは、このような最も不可能と思われる状況下で、単純な聞き従いによって成し遂げられる。それは、ただ、主の栄光が現される為に、すべてが計画されているからである。
知恵・知識あるいは見分け的には、彼女の状況は相当ひどい。しかし、さばくのではなく、余計な事を付け加えず、愛をもって、示されたとおりに語って実を結ぶ事ができた。(*)
今まで、ヨハネの福音書の中で、イエス様がいかに御声に聞き従う歩みをしてきたかについて、長々と述べてきた。 私たちにとっての最大の難関は、祈ってばかりの非能率的に見える、この聞き従いの歩みに徹する事を”決意”する事である。 それが結局は最も早道であり、安全・確実・快適な道なのである。 私たちは、へりくだって地道に主と交わり続け、まわりの人や他の教会の事などを気にせずに、なおかつ自己中心に陥らず、主の御声を聞く事を続けていくべきである。(預言の賜物は、主に聞く時間を大幅に短縮する効果があるが、それでも忠実に、直接主に祈って聞く態度を忘れてはならない。主の臨在が共にあり、主の御声をいつも覚えている為である。)
リバイバルのポイントは、イエス様がしたようにように、ひたすら小さい聞き従いの連続であり、最後までそれを続ける事に尽きる!。
途中で誘惑に負け人間的になったら倒れる。倒れない為には内側の品性が、聖霊によって充分整えられていなければならない。(雑な物量作戦(ソロモン、米・TV伝道者のスキャンダル)、人間的な組織化・プログラム化(T歴21-1〜)、妥協的な預言など。主の臨在が去れば、敵の誘惑が来る。(Tサム16-14) 今までの全ての失敗は、本番でこのような事が起こらない為である!。)
私たちは最後まで、イエス様の十字架を見上げつつ、聖霊様の細い御声に忠実に聞き従い続け、リバイバル状態を保っていかなければならない。(「持っている物をしっかりと握っていなさい。」(黙3-11) リバイバル状態は、終末時のわざわいからの守りだからである。(マタ24-17、18 cf.24-19(**))
(*) エバは、主のことばを曖昧にし、余計なことばを付け加えて惑わされた。(創3-3) ただし、現在はイエス様の十字架のゆえ、”新約教会”の時代であり、エバやヨブのようにサタンにやられっぱなしの時代ではなく、霊の戦いで勝利し、また、悔い改めのきく時代である。
(**) ’身重の女’とは、まだ生まれていない求道者の群れ、’乳飲み子’を持つ女とは、信じているが聖霊のバプテスマを受けていない状態の群れである。 リバイバルの時は、その影響を受け多少燃えるが、終末の迫害の時、この状態では悲惨である。
’屋上にいる者’、’畑にいる者’とは、いずれもリバイバル状態にあり、激しく伝道・あかし・預言し続けている群れである。彼らは、聖霊のバプテスマ(予備の油、尽きることのない泉)を受け、霊に燃え続けている賢い乙女であり、髪の毛一筋も失われる事無く守られる。(ルカ21-18) ただし、かなりの数の使徒・預言者は殉教すると思われるが、それが彼らのミニストリーの一部だからである。