(4) 祈りによるたましいの整え;


 ペンテコステ派のクリスチャンなど、よく祈る人ほど、この内側を忘れがちである。(カリスマについての正しい知識はあるけれども、大いなるわざを見た後のイスラエルの民のように幼い部分がある。)

 聖霊様の注ぎかけは二通りあって、信じた時に霊と心に宿る内側からのものと、按手や礼拝などによる上からの注ぎかけなどの外側からのものである。内側は信じた時恵みによってある程度たましいがきよめられるが、潜在意識に救われる前の傷や自己憐憫などが残っている部分もある。

 だから、みことばと共に、祈り方にあっても、内側を主に探って、取り扱っていただくように毎日祈る必要がある。(詩139−23、24)
 (その時、嘔吐などの霊的反応があっても続けるべきである。)

 人の内側は深く、自分自身でもわからないので、聖霊様に探っていただくように祈るのである。
 心の最も深いところに、(主に反抗する性質の)怒りや憤りがあると言われている。40年間荒野で羊を飼ってへりくだらされ、誰よりも謙遜であった神の人モーセも、ただ一度の怒りによって主の約束を台無しにしてしまった。(民20−10〜12、詩64−6)
 これが取り扱われたならば、神に本格的に用いられる時が近いと言える。
 逆に、悲しみや涙は、感情のうち最も浅いところにある。涙は心を開くほんの入り口である。だから、泣いたからといってその人が変えられたと思ってはいけない。


 キリスト信仰は、他のどんな宗教・哲学・イデオロギーや人の思索と決定的に違う点は、十字架上のイエス様と共に、死ぬところから始まることである。自己に生きている間は、主に充分に用いられる事は無いのである。十字架(死)があって、次に、復活(いのち)がある。だから、私たちが完全に死んだ所から、主の力があふれ出てくるのである。これは、この世の支配者たちが誰一人として悟らなかった、神の知恵であり、真の使徒たちによる真の教会形成の方法でもある。(Tコリ2−9〜、箴24−3、4)

 実は、心を変えるには、十字架の力で充分なのである。ただし、十字架の意味を知る、すなわち、神の愛を知るために、みことばと聖霊様によってたましいが築き上げられていく必要がある。みことばも御霊も、究極的にはイエス様の十字架をあかししているからである。(Tヨハ5−6〜8)


 「預言者たちのたましいの神」(黙22−6)とあるように、預言者は、御父からのことばと霊をストレートに流すとなる為に、たましいがほぼ完全にイエス様のようになっている必要がある。イエス様は五職(使徒、預言者、伝道者、牧師、教師)のすべての権威が現れている。そのために、預言者は、賜物のスキルだけではなく、本当によく祈り、取り扱われて不要な部分が削り取られ、また、みことばを学ぶ。(預言者には、御霊の賜物としては、さらに、知恵のことば、知識のことば、霊を見分ける力(*)が必須であると言われている。 * 単なる猜疑心や感覚ではなく、具体的に霊を見て、あるいは、言葉で見分ける能力)


                 戻る