7. 新天新地〜永遠
(8) 新天新地;
新しい天と新しい地;
以前のものがもはや過ぎ去り、神の幕屋が人と共にある。 〜 神の本質は時間を超越しての神の領分であり、時間の中に人の領分があり、信じる者は、イエス様が備えられた、永遠に続く全く新しい天国の宇宙へ入れられる。 神の御顔を仰ぎ見る。〜 かつては、神を見ると人は死んだ。ここでは親しく神を仰ぎ見ることができ、永遠に礼拝だけが残る。 また、人は、永遠に、価なしに、いのちの水の泉から飲み、いのちの木から食べ、その葉の香りによって常に新しい活力が与えられる。 のろわれるものはもはや何もない。それは、ただ一度の、御子イエス様の十字架の功によるのである。
(信じなかった人々のゲヘナの苦しみは永遠に続き、天国の人々はそれを見て、御子イエス様の十字架による贖いの尊さを永遠に知り続ける事になる。ただ、生前に十字架を信じたか信じなかったかによって決定される、この両極端な状態を、永遠にまでも見せつけられるのである!。)
新しいエルサレム;
都は一辺が2220kmの巨大な立方体で、城壁の高さは約65m。(御使いの尺度と同じ)(*)
都は混じりけの無いガラスのような純金でできていた。
そこには、造られた神殿も照明も無く、御父と御子御自身が神殿であり、また、照明である。その栄光は透き通った碧玉のような都全体に輝き渡り、神の栄光がそのすべてに反映されていた。
新しいエルサレムの城壁は碧玉でできており、城壁の12重の土台石は12種の宝石で飾られ、12使徒の名が書かれてあった。(**) 12の門はそれぞれ一つの大きな真珠でできていた。
(* 新天新地の空間的広がりは、今の宇宙と似たような構造になっているらしい。(多次元とか、時間が輪とか、3方向性量(通常の計量はすべて+と−の2方向の概念)とかの異常な空間ではない) それぞれの部分空間は、人間が想像できる(空間どおしの重なりはあっても結局)3次元空間+時間の概念の範囲内になっている、これが、被造物である御使いの尺度でもある。 神はこれらをはるかに超越したまことに果てしない存在でおられ、その御座から照らされる栄光の姿を永遠に垣間見ることができるとは、どんなにすばらしいことだろうか!。)
(** 天国を見てきたデュプランティスの話によると、ペテロ、パウロ、ヤコブ、ヨハネ・・・の順になっていたそうである。 ヨハネは多くの実を結んだが、殉教せず、生前のイエス様に最も近かった割合でこうなったのだろう。ヤコブは兄弟ヨハネをねたまなかった。パウロは受肉したイエス様に会ったことが無く、その割に、彼ほど十字架を負った人生を歩んだ人はいなかった。ペテロは主のことばどおりである。 11使徒の聖書に書かれてある最終的順は、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ピリポ、トマス、バルトロマイ(ナタナエル)、マタイ、アルパヨの子ヤコブ(小ヤコブ)、熱心党員シモン、ヤコブの子ユダ。(使1−13)
碧玉は通常不透明なので、透き通った碧玉はダイヤモンドを表わすと言う学者もいる。いずれにしても、天のエルサレムは、キリストの栄光を受けて、都全体が光り輝いていた。。
宝石の成分は、珪酸やアルミナなどの、いわば、どこにでもある泥であり、それをきわめて純化したものに、ごく微量の不純物を混ぜて(これで各宝石の個性的な色が付く)、非常な高温・高圧に長時間保つとできる。 サファイヤ=瑠璃(るり)、緑玉=エメラルド(?)、緑玉髄=翡翠(ひすい)(?)、など。尚、第8の緑柱石(ベリル)だけは元素からして特殊で、ベリリウムが主成分である。=ナタナエル?)