4. 御父の愛;   
              ・・・ セルフ・カウンセリングのために   by ピーター・ジャクソン師  02.11


 「わたしが父におリ、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」(ヨハ14−11)

 一説によると、私たちがコミュニケーションを取る手段として、7%が言葉により、残りの93%がボディーランゲージ、特に、目で行なうと言われている。 イエス様が神のことばであれば、残りの神とのコミュニケーションは、神のわざを見たり、神のご臨在を感じたり、摂理的な環境を通しての交わりなどである。

 ヨハネの福音書の14章から17章にかけては、イエス様が、”天の父”を示し、その交わりに入れるために世に来られたことが中心的に書かれている。 御父の愛とは、イエス様を受け入れることにより、御父ご自身が私たちの心に住む、親近感の体験である。(ヨハ14−23)

 イエス様は近い、しかし、御父は遠い、と見ている人は多い。しかし、御父も近くにいてほしいと願っておられる。

 拒絶される経験(愛されていない、必要とされていない)は大きな逆の力である。 サタンの最大の偽りは、”父はあなたを愛していない”という言葉であり、これは氷のような心を作る。 肉の父や父のような位置付けの人を通して傷が与えられた場合、本当の霊の父をそのように見てしまう。 そうなると、あら捜しの父、行ないの救いになってしまう。何かをやらなければならない世界、何かをしたら愛するよ、という、クリスチャンになる前の、価値観が全く違う世界(この世、エジプト)である。
 このように、神が遠くにいると、神を恐ろしく、近寄りがたいものとして見てしまう。

 それゆえ、みことばが語っているように、イエス様と御父を同じように見るべきである。

 ルカ15章の放蕩息子のたとえ話は、実は、”父の心の物語”である。 今までの事をすべて忘れ、ありのままで、後継ぎの子供として、最高の待遇で受け入れた。(一方、兄は父の言い付けを破った事はない。しかし、本当に愛する者は、自ら進んで2マイルも行く。)
 父との壁は、御父との壁になる。 赦しは、福音の真髄である。 ささげもの(礼拝)をそこに置いて、まず、人に赦しを求め和解する必要がある。

 神の国に入って、御父を見るために、私たちは幼な子になる必要がある。 ”幼な子”とは、言われた事を何でも信じる者、すなわち、見る前に信じる者である。 しかし、せっかくの神の約束がありながら、かつてのだまされた経験から、疑り深くなり、まず見ようとする。 不信仰とは、真理の上に、感情や経験の事実を置く事であり、これがサタンの強調点である。自分で資格が無いと決めつけてしまうのである。

 しかし、御子が自由にしたのだから、完全に自由である。(ヨハ8−31、32) (ex) いやしの信仰は、病気である事をまず否定する事。)
 そして、もし自分で自分を縛らなければ、大胆に父なる神の前に出ることができ、祈りが聞かれるのである。(Tヨハ3−21、22)



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