7. 主の枝にとどまること ・・・ 聖徒たちの整えの時;



 「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。 ・・・ わたしにとどまりなさい。」(ヨハ15−2、4)

 「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。 義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者(クリスチャン)や罪人たち(未信者)は、いったいどうなるのでしょう。」(Tペテ4−17、18)

 「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」(マタ24−12、13)


 形の上ではなく、イエス様との愛の交わりによって、いくらかでも実を結ぶ者はだれでも、神の働きに召される。 そして、リバイバルの時に備え、不要なものが取り払われ、御子と御父とのさらに深い交わりに入れられる。 それは、もっと多くの御霊の実を結ぶためである。
 その条件としては、ただ、御子イエス様にとどまる事だけである。 あらゆる惑わしは、イエス様から離すことにある。

 Tペテ4−17の”さばき”とは、終末の大リバイバルのための整えの事である。 
 その結果、さまざまな人間の欲望(複数)から神のみこころ(単数)のために生きるようになる。(Tペテ4−2)

 ・ 左にそれる事:
 マタ24−12にある不法”とは、”神の法を破る事(lawlessness)”であり、聖書のみことばに書かれている主の命令に忠実でなくなる事である。すなわち、みことばをエバの時のようにあいまいにし、神の定めに逆らわせるような自己中心的な(自分を高める)誘惑が許される時である。 この世にあって、イエス様の命令とは反対のことを勧めるような社会となる。(みことばに反する性的・経済的な誘惑に特に注意!)
 教会でも、リバイバルが近づくと、内部が取り扱われてひどい状態になる。(K教会でも、A師のS教会でも、O師のY教会でも、どこでもそうである) 特に、教会と私生活の2面性が現れ、隠れて犯す罪を悔い改めるか否かで、その人のその後の進路が決まる。(えーっ、あの人が?というような状況) 悔い改めない者は、主の教会にとどまる事はできない。(もちろん、教会移動などの主の導きによる再配列はある。)

 ・ 右にそれる事:
 また、反キリストの霊による人間主義(人本主義・神よりも”人を恐れる事”が出てくるようになる。この誘惑とは、行き過ぎた芸術的礼拝のようなものとは逆で、むしろ、イエス様がパリサイ人らを糾弾したように、また、ソドムやツロよりもコラジンやカペナウムを非難したように、教会を”宗教的な偽善”に陥らせる方向のものである。(宗教の霊、”告発の霊”、律法主義の霊、行き過ぎた権威・秩序の行使(これが意外と間違った教理としてはびこっている)、にせ預言の霊、迫害の霊など。 ・・・ これらが全部揃ったならば、それは”終末のにせ預言者”である!。) 霊は惑わす者であるから、彼らはそれをすることで神に奉仕しているのだと思っている。 そして、堕落して淫婦になった教会は、結局、その乗っていた同じ獣に滅ぼされてしまう事になる。(その後遺症は悪霊付きの状態である。(黙18−2)) アメリカやカナダなどの、信仰の自由を享受していた国ほど、黙示録13章に書かれてある終末の前段階としての、この傾向が強く出る。


 私たちの最終目的は、品性にあっても、信仰にあっても、人として来られた神の子イエス・キリストに似る事(Christlikeness)である。 この地上におられた時のイエス様のようになれれば充分なのである。

 したがって、私たちは、特に、この時期、右にも左にもそれる事なく、イエス様のみを模範とし、また、みことばに堅く立って歩んでいるかどうかに気をつけていかなければならない。 それは、そんなに難しい事ではなく、ただ堅く、意固地なまでも、イエス様にとどまる事、それだけである!。


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