3. 召しの見分けと日本のリバイバル




  「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。」(Tコリ12:27、28)

  「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。」(ロマ12:6−8)


  教会の中に奉仕者を置かれたのは、父なる神である。(cf. 5役者(エペ4:11)を任命するのはイエス様であり、9種類の御霊の賜物を分け与えるのは聖霊様(Tコリ12:7−10)である。) すべての奉仕の究極の目的は、キリストのからだが、キリストにあって完全な身丈まで達するためであり(エペ4:13−16)、そのために、5つの奉仕者(5役者)(エペ4:11)すべてがともに働くことが必要とされる。キリスト教界のある分野で、成長が止まってしまうのは、私たちがこれらの奉仕者のうち2つか3つ(伝道者、牧師、また、教師)しか認識していないためである。大きな働きをし、キリストのからだの徳を高め、建て上げるためには、使徒、預言者を含めてこれらの奉仕(ミニストリー)がともに機能することが必要である。

  教会の歴史を調べると、多くの場合、教団・教会の組織は人の手によるものであり、それをいかに正当化したからといって、結局は人が人を任命をしているに過ぎない。組織が器が必要だからといって、その必要性がそのまま召しになるのではないのである。それは、神様の”容認”の範囲で行なうようにされている。神様はすべての教会を愛しているので、それぞれの組織を尊び、そのことですぐに教会を裁くということはしない。

  しかし、本来の聖書的には、人々を任命して、教会に置くのは神ご自身である。では、どのようにしたら神の召しがあるとわかるのだろうか?
  もし神の召しがあるならば、1) その人自身の霊の中にその確信があり、自身の心の中にその証しを持つはずである。また、2) その人自身が召されている職務に伴う霊的な備え ・・・ 御霊の賜物を受けるはずである。神様が自分にしてほしいと願われることは何でもしようと決心するまで、神様に献身し、聖別された者となっているならば、やがて自分の内にあるものを意識するようになってくる。
  また、普通は、本来の神の奉仕が開かれるまで(パウロがアンテオケの教師だったように)別の奉仕につけられ、その時が来るまで備えられる期間がある。この時、「小さいことに忠実」であることがその召しに移るためのポイントである。 召しの取り違いは、キリスト教界の中に頻繁に起こっているので、特に、”人から勧められて”そのような立場になった器には要注意である。取り違えた召しの立場に立ってしまうと、偽の働きをしてしまう危険がある。

  個人預言によって、その人のうちにある召しについて語られることがあり、その人に召しの確認を与える。個人預言はあくまでも”確認”を与えてその人を”励ます”もの(* 預言は、励まし、慰め、人の徳を建て上げるもの(Tコリ14:3、4))であり、基本的には、本人の召しは、その人の生活にあって個人的に神様と交わりをする中で、すでに内側に与えられているものでなければならない。個人預言は、その人が主にあってどのような立場にいるのか、どのような役割りを持ち、どの部分を受け持っていくのかを明らかにする。
  ((注) 個人預言をむやみにあちこちからもらうことは大変危険なことであり、その人の人生に混乱を招き、人生を破壊することがある。もし、預言者といわれる人が個人預言をして、その預言がその人の霊の内側にある確信と全く異なる場合は、その預言は神からのものではなく、その預言者は偽者であると判断すべきである。ただし、ごくまれに、本人が考えたこともない全く新規の示しが個人預言で語られることもあり、この場合はそれがわかるときが来るまで”棚”にあげておく。)



  また、たとえ個人預言が良かったにしても、使徒的ネットワークの中での「戦略」が重要である。
  日本のリバイバルという大きな働きをする場合、御体が組み合わされ、結び合わされたものとなり、その性格がイエス様に似るものとならなければならない。
  たとえば、宣教団体が宣教師たちを送り出しても、大して実を結ばないで帰ってくるのは、預言者的な目、使徒的な目で見ていないからである。また、牧会者は、いかに羊が愚かであるかを知っているにもかかわらず、食物がなくなる方へと連れて行かざるを得ない場合がある。しかし、本当の監督はそこには食物が無い事を告げるのである。預言者、使徒は人々や事柄を”見抜く”ので、これを言われるとほとんどの人が怒り出す。したがって、監督と牧会者は別々の役割を担っていなければならない。(たとえて言うなら、いわば技術者・設計者(使徒、預言者)と営業マン(牧会者)の違いである)
  このように、本当の使徒、預言者に常にコンタクトをもつことは、地域教会(cf. 公同の教会)の成長にとって必要不可欠なことであり、そのためには牧師たちが砕かれ、内側がへりくだることが必要である。このようにして、教会・教派の壁を打ち破ることができるのである。



  現代の時代の使徒、預言者は、明確な幻などによってイエス様から直接遣わされた者(*2)であり、キリストの奥義聖霊の油注ぎがキリストから委譲されている。(エペ3:9、使8:14、15) Tコリ12:28の”任命”とは、権威や身分が定められる事のみならず、戦略的地位に置かれる事を意味する。

  ここでさらに、使徒の条件は、最低限2つ以上の御霊の賜物が開かれていて、特に現在が「世の終わりの時の初め」に現れる「(器を通しての)惑わしの霊」が著しく働く時(マタ24:4)であるので、賜物としての「霊を見分ける力」(=五感で感じて聖霊様の臨在と御使いと悪霊を見分ける能力)が必須であるとされている。(*3) また、リック・ジョイナー師によると、使徒は教会に仕える霊的な「宦官(かんがん)」(イザ56:5)であり、最終的に使徒はイスラエル宣教に向かう。使徒的な働きが回復する時、”十全な福音”が回復し、イスラエルと教会は一つとなる。(*4)
  また、預言者は、著しい預言の賜物はもとより、知恵・知識、霊を見分ける力が頻繁に現れ、開かれている必要がある。誰でもできる「預言」の働きは、「人の徳を建て上げ、勧めをし、慰めるもの」である。(Tコリ14:3) しかし、「預言者」の働きは、これらに加えて、方向性を示し、未来を示していき、示された預言に対してなぜこのようになったかということも示し、教えや矯正、叱責などについても語っていく、より責任の重い職務である。




  *2  ”使徒”という言葉は”遣わされた者(使者)”と訳されているギリシャ語と同じであり、 バルナバとパウロ(使14:14)、主の兄弟ヤコブ(ガラ1:19)、アンドロニコスとユニアス(ロマ16:7)、シルワノとテモテ(Tテサ1:1、2:6)、アポロ(Tコリ4:4−9)、二人の無名の兄弟たち(Uコリ8:23)、エパフロデト(ピリ2:25) であるが、明らかに5役者の「使徒」でない”使者”たちを含んでいる。((ex) パウロが使徒、伝道者、教師(Uテモ1:11)であるのに対しテモテは使徒ではない)
  また、子羊の12使徒(パウロを含む)は、使徒・預言者という「(普遍的)教会の土台」(エペ2:20)となる、永遠の新しい契約新約聖書の著者たちであり、直接キリストの生涯に触れたキリストの「証人」であり、イスラエルから異邦人に福音をもたらした「異邦人使徒」たちであり、「使徒」の中でも特別な位置付けにある。彼らの名は、新しいエルサレムの城壁の12の土台石に永遠に記念とされる。(黙21:14)

  *3  聖書では、ペテロ(Tペテ5:8、9、使8:23)、ヨハネ(Tヨハ4:2、3)、パウロ(Uコリ11:4、14、15)など、使徒たちは明らかに賜物によって霊を見分けている。(メル・ボンド師による霊の見分けの実際については、『サタンの策略』(JRM、2006 9)参照)

  *4  教会に再び、使徒的な働きが回復する時、使徒たちがイスラエルについて述べたのと同じメッセージが再び語られるようになる。ユダヤ人は「あなたがたのゆえに、神に敵対している者」(ロマ11:28)であり、この「福音」は、ユダヤ人に語って「彼らにねたみの心を起こさせる」ならば、その語っている福音は本物である。
  イエス様を通して、イスラエルと教会(=2本のオリーブの木)が一つになる時、他に比べるものがないほどの いのちと力が地上に解き放たれる
  召されている人は、「取るに足りなく、愚かで、弱い」からこそ召されている。(Tコリ1:26−) それは、誰をも誇らせず、主の目的のために全身全霊をささげさせるためである。
  イスラエルは、自分の力に頼れる限りはいつまでも福音に敵対し続けるが、近年、平和を求めるように変わってきた。(B.F.Pでは、物質援助によってイスラエルの超正統派ユダヤ人とさえ交流を持つようになった) ただし、再び中東和平は決裂し、その後で、ゴグ・マゴグの予告の通り、中東和平を正式に結ばせる者が反キリストである。
  今後、世界中で反ユダヤ的になり、アメリカでさえもユダヤ人への迫害が始まっていく。ユダヤ人を受け入れたクリスチャンも迫害を受け、その迫害の中で一つに結ばれていくが、この時、クリスチャンは大きな霊的権威をもって、”単純な福音”を彼らに突きつけるのである。これは、人間的な同情心ではなく、純粋な福音をもつことによって行なわれる。純粋な福音とは、救いの泉をもっと深く掘り下げるものでなければならない。
  ”十全な福音”は、使徒職が回復するまでは現れない。(by.『収穫』、リック・ジョイナー)



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