霊の働きと見分けについて
                                                                   2007 5/1
                                                                     トップへ戻る

  霊は、目に見えないが確かに存在する4次元的存在である。みことばには聖霊様が伴い、悪い言葉には悪霊が働く。奇跡や預言は3次元を超えた4次元的働きであり、4次元は3次元を支配する。世の終わりに際して、私たちはこれらすべての事を見分けていかなければならない。


               1. 賜物によるいやしとみことばによるいやし
               2. 霊の見分けについて
               3. 召しの見分けと日本のリバイバル


    (参考文献)  ・ 「サタンの策略」、メル・ボンド、JRM、2006 9
             ・ 「ニューエイジムーブメントの危険」、尾形 守、プレイズ出版、1996
             ・ 「超能力ははたしてあるか」、大槻、ブルーバックス、1993 ((注) これは霊的なことはすべて否定している)


  1. 賜物によるいやしとみことばによるいやし



  未信者や初心者が、いやしの集会でダイナミックに癒されることはよく見聞きすることである。このとき伝道者によるいやしの賜物がよく用いられる。
  一方、ある程度信仰の年数を経た、しかもいやしを信じているクリスチャンが、何度も祈り、あちこちのいやしの集会に出て、癒されないでいつも失望に終わる人たちがいるのはなぜだろう?教会の柱である人々が何年も苦しみ、それほど熱心でない人々が突然神様の奇跡を体験するのである。

  手を置くこと(マコ16:17−18)、油を塗って祈ること(ヤコ5:14)、病人のために祈ること、また、「いやしの賜物」(Tコリ12:8−10)がこれまで強調されてきた。御霊の賜物は、これを信じて聖霊様に従っていくとき現されていく。ただし、この超自然的な賜物は、確かに人を通して現れるが、その人がいつでも働かせたいときに自分で働かせるものではなく、御霊に心を開いて御霊が願われるままに用いる時に現されるものである。これは、イエス様が、「父がしておられることを(幻で)見て行なう」(ヨハ5:19)、「ただ聞くとおりにさばく」(ヨハ5:30)と言われたとおりである。


  しかし、イエス様の出身地であるナザレでは、イエス様は、「病気がちな数人の人々に手を置かれた」(マコ6:5)だけで、盲人や耳の聞こえない人、足の不自由な人、中風の人々などを癒すことができなかった。それは、預言者としてのイエス様に対する彼らの不信仰のためであった。彼らはユダヤ人だから当然 旧約聖書のみことばを知っていたが、実は信じていなかったのである。(* イエス様は、神であり、神の子であると同時に、使徒(=遣わされた者)、預言者、伝道者、教師、牧者のすべてである。預言者の職務にはいやしが含まれる。)
  イエス様が、「イスラエルのどこにもこのような信仰は見たことがない」と感心されたのは異邦人のローマの百人隊長である。聖書では、コリント人には「御霊の賜物」がよく現れ、ヘブル人には「信仰」が強調されている。
  また、エリヤの時代の大ききんの時、「シドンのサレプタのやもめの女以外は、彼らのうちのだれのもとへもエリヤは遣わされなかった」(ルカ4:26)とあり、さらに、「預言者エリシャのとき、イスラエルにはらい病人がおおぜいいたが、シリヤ人ナアマン以外は、彼らの中のだれもきよめられなかった」(:27)と言われた。イスラエルにいたらい病人たちは、なぜエリシャのもとにきて癒されようとしなかったのだろうか?それは、

  「私は主、あなたをいやす者である」(出エジ15:26)、 「私はあなたの間から病気を取り除く ・・・ あなたの日数を満たす」(出23:25、26)、 「主はあなたからすべての病気を取り除く」(申7:15)

  と言われたみことば、すなわち、彼らは神様との間に結ばれたこれらの「契約のことば」「信じる」ことが必要であり、いやしのために彼らはどんな預言者をも本当は必要としなかったからである。

  ”失われた人々が救われるように祈りなさい”、と述べている新約聖書の個所は存在しない。そのかわり、「収穫の主に、彼の収穫の中へ働き人たちを送ってください」(ルカ10:2)と祈るように言われている。伝道する人をだれか送ってくださいと祈らないと、彼らは救われることはない。いくら長い時間、断食して祈ったにしても、神様が言われたことばに従って「行動」(伝道)しなければ、彼は救われないままである。
  同様に、いやしについても、いやしてくださいと祈るわけではないのである。(いやしは、あらゆる「救い」の一部)
  多くの人たちがいやしを受けそこなってきたのは、その信仰の土台を神のことばにではなく、祈りに置いてきたからである。祈りは、それが神のみことばの中にある約束に基づいているときだけ成功する。


  「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
   彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし
   彼の打ち傷によって、私たちはいやされた
」(イザ53:5)

  「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(Tペテ2:24)


  これは、神様のいやしにおける愛とあわれみを示す、最も基本的なみことばであり、イエス様の十字架によるいやしは救いときよめと並行して書かれている。私たちが永遠のいのちを受けるよう 私たちの罪・咎のを贖うために十字架で死なれただけではなく、私たちのたましいが平安であり、身体が健康であるように、神の子イエス様は身代わりに苦しまれ、傷つけられたのである。だから、サタンには私たちを病気にする資格など無いのである。
  そして、これらは全人類に対してすでに「完了した」(ヨハ19:30)ものであることを知らなければならない。((ギ)”テテレスタイ”は、支払い・返済が済んだことの印、旧約時代では”未来完了形”、現在の新約時代では”過去完了形”) それゆえ、癒しがすでに完了したように私たちもみことばに基づいて振舞わなければならない(=信仰の行動)のであり、これが私たちがなすべき責任であり、ここに霊の戦いがある。いやしは、このように、すでに成就した事実なのである。あらゆるのろいは私たちからイエス様へ移され、イエス様と私たちが同時にのろわれた状態になっていることはできないのである。非常に単純な真理である。
  もし、”神様が準備できたら、それから神様はそのことをするでしょう。それまで私は神様を待っているのです”、”もし、神様のみこころならばそれを私に与えてくださるでしょうし、もし私がそれを手に入れていないならば、それは神様のみこころではないのでしょう”などと言っているならば、神様無しに死んでいくのである。そうではなく、みことばに基づいて「御国を奪い取る者」が、行動によって恵みを受け取っていくのである。

  「信仰」とは、「熱烈に確信して信じる」ことである。症状の確認ばかりするならば、いつまでも癒されることは無い。なぜならそれは、みことばを疑う行為だからである。完全にリラックスして、忘れるほどにゆだねるならば、気が付かないうちに癒されている。(もし痛みがあって気が散るならば、痛みをイエスの名によって叱りつける。)



  ・ メル・ボンド師による癒しは、集会で祈った直後は、その人に瞬間的に 30%、60%の癒しが起こり、その後は、祈りを受けた人の信仰の行動次第である。メル・ボンド師を通しての聖霊様のアドバイスにより、みことばに従って行動した人はすべて完治している。

  ・ (これは癒しではないが、ゆだねることについて) 海外からの器4人が帰国のため成田空港へ行ったが、時間が相当遅れてしまった。そのうちの一人のドイツ人が飛行機に乗るためにいろいろ画策しつづけた。残りの3人は、車の中で遅れたことを思い切り主に感謝して、そしてぐうぐう寝てしまった。成田に着いてその3人は飛行機の出発が遅れたため間に合った。しかし、そのドイツ人の器だけが日本でもう一泊する羽目になった。
  メル・ボンド師は、ゆだねることについて「リラックス」と言っている。神様から何かを受け取るときは祈ったり語ったりしないで、何もしないで受け取る。幼子のようにみことばを単純に信じ、「天のお父様」にゆだねるならば、みことばの宝を現実のものとして受け取ることができるのである。

  そして、結局のところ、
  「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハ11:25)
、となる。


  イエス様が身代わりに完了してくださったことによる、完了したみことばは、癒しのほかに、
  ・ 経済的な祝福のみことばとして、

  「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(Uコリ8:9)

  ・ のろいからの解放のみことばとして、

  「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。」(ガラ3:13)

  ・ きよめのみことばとして、

  「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。」(Tヨハ3:9)

  も同様である。私たちは、すでにキリストが成し遂げてくださった真理に立ち、それでもじたばたしているサタンと戦い、勝利していくのである。

  * ”律法的”になると(・・苦労した人が律法的になって、他人にもそれを要求しやすい)「恵み」が恵みでなくなってしまう。みことばの祝福はすべて、神様からの「恵み」として受け取るべきである。(→ クリスチャンの最大の問題点について


  韓国人のチョー・ヨンギ師によると、日本人は事をあいまいにするのを好む民だそうである。単純な信仰のためには、当然のこととして行動するほどに、みことばを強く、はっきりと信じる必要がある。(日本語自体が、英語、ギリシャ語などと比べてあいまいだからより一層努力する必要がある。) また、神様にゆだねることについては、もう少しアフリカ人や東南アジア人、中南米の人たちに見習わなければならないと思われる。


  ・ 語ること、行動することの重要性:

  「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」(詩篇1:2)

  「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。」(詩篇119:9)

  「ただおことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。・・・このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」(ルカ7:6−10)

  「・・「お着物に さわることでもできれば、きっと直る。」と言っていた(直訳)からである。・・・「娘よ。あなたの信仰があなたを救ったのです。・・・」」(マコ5:25−34)


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