5. 奇跡の要素と十字架の価値
(1) 神による天地創造とさばきの大前提:
奇跡とは、人間を遥かに超えたある人格者がその意志によって行う超常現象で、そのプロセスがどこまでいっても科学的に解明されない現象である。(ただし、奇跡現象の結果は科学的に”これは奇跡である”と確認され得るものである。)
確かに、創造論の”神による天地創造”の大前提は、進化論者によって”論法が万能”であると皮肉られ、科学的証拠をいくら提示しても(情報としては面白くても)、”天地創造”の概念があまりにも常識から飛躍しすぎていて、これが創造論がそのまま(特に、日本のような非キリスト教国では)一般的に受け入れられない最大の理由になっている。
しかし、神によるしるしと不思議の要素が”再創造”のわざとして、数多くはっきりとあかしされるならば、これをモデルにして、神による大創造やさばきのわざを認める人が多く現れてくるのではないかと思われる。(2.〜4.で挙げた科学的究明は”傍証”の位置付けとなる。) ただし、全てを見せないで信じる、”信仰”に至らせるのが神の主な目的であるから、奇跡はあくまでも信仰に至らせるための役割を担う程度のものである。
神の奇跡は、常に、あたかも今までずっとそうであったかのような、体の組織や物質の”完成品”を再創造する。たとえば、会衆の見ている前で、完全な手や足や目玉が生えてくる!。
それゆえ、神様は、天地創造の時、”大人の宇宙”(=遠い所の光さえすでに地上に届く形で)を初めから創造したと公然と言えるのである。
聖書は、考古学的資料としては、他のどんな歴史的資料よりも詳細に渡って述べられ、その内容も書かれた当時からまったく変わっていない唯一の書物である。(ただし、聖書を神のことばとして知るには、聖霊様によって知らなければならない。救われていない人の聖書解釈はメチャクチャである。
信じて聖霊様を受けた者は、外典・偽典や他の古文書には神の油注ぎが無いことが分かる。また、神学校の卒業時の按手礼などで違う霊を受けた場合、みことばとのギャップが生じる事がある。)
その聖書全体の記述の割合では、天地創造やノアの洪水の記事は少なく、しるしと不思議の記事が非常に多くの割合を占めている。(新約聖書の福音書では約1/3もある。残りは、教え、預言、十字架・復活などの出来事、系図など。旧約聖書でも典型的な奇跡だらけである。)
1) 天地創造は、御子にあって、宇宙も地球も生物も美しく完全に創り上げられ、それらが完全に調和していた。 その時、御子イエス様は、ご自身の栄光の性質を万物に表現された。(神の三位一体、特に、御子との関係が明確に表わされる、数学定数の e、π、i
、自然の全般に現れる指数関数・自然対数は、物理分野における典型的な実例ではないだろうか?(*))
「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロ1:16、17)
「神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれた(π、電子軌道)とき、わたしはそこにいた。 ・・・・ わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者( e )であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。」(箴8:27−31)
* 自然は、自然対数の底( e )として現わされる御子イエス様を記念する数式で満ちている。(組み立てる部品となるような、あまりにもプリミティブな原理・法則(ニュートンの力学法則、相対性原理など)は除く)
@ 型 (死を表わす): 熱力学、統計力学、コンデンサーの充電・放電、化学平衡、エントロピー、放射性核崩壊
・・・
A 型 (@とBの混合): 減衰振動、一般的な電気振動 ・・・
B 型 (いのちを表わす): 真空中の電磁波・光、量子力学的な振動、 ・・・・
2) 一方、天地創造だけではなく、ノアの洪水の一連の事件についても、下の水の存在や、大陸の急激な大移動など、科学だけでは説明がつかない(さばきとしての)神の”奇跡”の要素が必要である。
そして、4000年前のノアの洪水は、非常に近い将来に起こる”天変地異”と終末の神のさばきを警告している。天地創造だけではなく、黙示録に書かれている終末のさばきについても、はっきりとあかしされなければならない。
「終わりの日にあざける者どもがやってきて ・・・ 次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。 ・・ 何事も創造の初めからのままではないか。』 ・・・・ 次の事を見落としています。 ・・ 地は神のことばによって水から出て水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、 ・・・・」(Uペテ3:3−7)
「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす」(ヘブ12:26) ・・・ 注) 「地」とは直接的にはモーセの時のシナイ山の事であるが、ノアの時代の地殻大変動をも言っている
「(第六の封印の後、)太陽は毛の荒布のように黒くなり、月は全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。・・・天は、巻物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。」(黙6:12−17)
終末の時の神のさばきは、7年以上の時間をかけ、ノアの洪水の時よりも厳しいさばきが行われる。天には、すさまじい前兆が現れる。この時、全ての地位・立場の人たちが、(ノアの洪水の時に多くの生物がそうなったように)山や岩に”私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と子羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ”と言う。(ルカ23:30)
瞬間的に土砂に閉じ込められる方がはるかにましだからである。(*)
黙示録にある災害は、初めはゆるやかに始まり次第にひどくなるが、これはその時になって初めて救われる少数のたましいをなんとかして獲得するためであり、”さばきにおいても神は愛である”と受け取ることができる。
(2) 御子の十字架の価値:
約2000年前の、御子イエス様の十字架こそ、神の遠大なる計画の中心であり、私たちにとっての救いの根源である。
十字架による贖いは、私たちの時代だけではなく、旧約時代、また、洪水以前の昔の時代にもかかっている。(Tペテ3:19、20、4:6)
年表をよく見ると、キリストの時代には、ローマの支配化で、小さな地震などもあったが、ノアの洪水に匹敵するような大きな変化は特にこれといって起こらなかった。ノアの洪水(BC2000年頃)、終末のさばき(AD2000年+α)と並んで、歴史の節目に十字架が位置している。
すなわち、御子イエス様が、十字架の上で、全ての時代の人々の罪の身代わりに一身に神のさばきを受けられた事を現わす。(一例として、ノアの洪水のさばきによるグランドキャニオンの凄まじさを見よ)
それは、イエス様の霊が、単なる人間ではなく、実に、神のひとり子だから、この大いなる価値があるのである!。余りある圧倒的な勝利である。
イエス様が、ご自身の、すなわち、神の第2位格の栄光を現したことがあった。(変貌山(ルカ9:28−36)、復活後の昇天の時(使1:9))
しかし、御生涯のほとんどのわざは、(霊は神であるが、たましい・肉体にあって)一人の人間として、聖霊様の油が注がれ、全面的に聖霊様に頼ってのわざや言葉であった。(ヨハ5:19) それは信じる私たちもイエス様に倣うための模範が表わされる為であり、これこそが「人として来られた御子イエス・キリスト」のあかしである。神の子でありながら、あえて聖霊様に頼ってすべてを成したイエス様を否定する者(=イエス様のように私たちも御霊の賜物を行使して御父のみこころを行うことに反対する者)は反キリストの霊(反カリスマの霊はその一つ)である。(Tヨハ4:2)
ただし、十字架においては本質的に異なる。イエス様が、神の第2位格=子なる神
である理由で、十字架において完全な贖罪がなされ、これ以外に理由は無い。神の子イエス様が尊い血潮を流してくださったのである。そして、義は上からの、無条件のもの。
したがって、カリスマ信仰の無い教派も、これを信じていれば(聖霊を汚す罪を犯さない限り)救われていて、天国市民である。(⇔ cf.
人間の義は神の目からみてボロ雑巾のようである)
「完了した。(=完済した。)」(ヨハ19:30)
十字架の贖いは、時間を超えて、すでに完了している。そして、すでにイエス様が支払いを済ませてくださったので、今すでに、全ての祝福は私たちのものになっている。イエス様は、私たちに立ち向かうすべての偽りの定めや悪しき力が、私たちを再び支配する権利を完全に無効にして下さった。(「神様は、罪の債務証書を無効にして、十字架に釘付けにして下さった。」(コロ2:14))
後は、私たちが成すべき責任として、”信仰の行動”がある。そして、これらの「単純なみことばの知識」に基づいて行動するならば、その実質が現れてくる。(信仰=行動、単純でなければ神様からのものではない)
このようにして、神様がどんなに深く私たちを愛しておられるかを体験的に知ると、神様の満ち満ちたさまにまで満たされていく。 永遠のいのちは、新生し、真理を知った時から始まっている。
預言で語られているように、非常に近い将来、この日本において、しるしと不思議を伴う、世界の今までの歴史に見られなかったほどの大リバイバルが起こる。同時に、科学の分野においても、今まで覆いがかけられてきた創造論における神様のあかしが大々的に行われるのである!