3. 戦後の経済戦争バブル



  戦後日本は戦争を放棄して平和主義をとり、高度成長期からバブルにかけて”戦争”の形を変えて、今度は”経済進出”という形で再び世界へ出ていった。靖国の霊の力はかなり収まったものの、日本の世界進出の特性は強く現れた。しかし、福音が浸透しなかったので実を結ばない結果となった。これは次の、第3の世界進出、すなわち、全世界への福音宣教にかかっている。(創49:22−26、申33:13−17 ・・・ ヨセフ、エフライムの祝福の予告)


  1. 高度成長時代:

  日本は”世界で唯一成功した社会主義国”と言われる。ソ連や東欧においては、国家の計画経済はうまく機能せず、労働意欲は低く、共産党幹部と一般労働者の貧富の差は大きく、全体的に国民は豊かにならなかった。一方、日本は、資本主義の国であるにもかかわらず、”経済五カ年計画”、池田内閣による”所得倍増計画”などのように、政府が定期的に経済計画を作り、すべて政府が積極的に主導した。
  政府は、所得を10年間で倍にするという強気の経済成長を目標とし、@社会資本(道路、港湾、下水などの公共施設)による経済発展の基盤整備、A人材育成のための理工系大学と学部の増設、B企業が銀行から借りやすくするための資金を得るため貯蓄を国民に呼びかける、を行い、企業も強気の経営拡大策をとった。

  そこで、企業は競って生産を増やし、労働者は家庭を顧みずに熱心に働き、労働組合は賃金の大幅引き上げを要求し、国民の所得が増えることによって消費意欲が高まり、日本全体に消費ブーム(消費革命)が起こった。三種の神器(天皇家に伝わる3種の宝物ではなく、白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機)、さらに、三C(カー(乗用車)、クーラー、カラーテレビ)という言葉が流行った。また、自動車・重機械工業・銀行は合併し、スーパーマーケットが生まれ、アメリカ流ファッション、ライフスタイル(ジーンズ、ミニスカート、ファーストフード、歩行者天国など)が定着した。
  工業が成長した一方で農業は衰退し、専業農家が減少し、農家の主人は出稼ぎし、子供は農家の後を継ぐことを嫌い都会に出てサラリーマンになった。(残された家族で営む”三ちゃん農業”)
  一方、急激な経済成長はさまざまなひずみをもたらした。恒常的なインフレ、工業地帯の公害、都市部での通勤ラッシュ、保育所・学校・病院などの人口増加に間に合わないことによる不足、大学闘争などの問題が次々と起こった。田中内閣による日本列島改造論では、中核都市への大規模な工場移転、新幹線や道路網などのインフラ整備に伴い狂乱物価を招き、地価が異常に高騰して現在にいたる。(物価物価ドンドン?)



  2. バブル経済の崩壊:

  起因は、アメリカの聖書教育の廃止(1960−)世代によるアメリカ経済の弱体化と、(非聖書的な)日本の盲目的な経済進出(霊的)にあった。(「あらゆる貪欲に気をつけなさい」、「むさぼりはそのまま偶像礼拝」) バブル経済の流れは次のようである。

  アメリカの貿易赤字の解消のため国際協調で円高を進めた(プラザ合意)結果、円高不況が日本を直撃。この時生産拠点を海外(中国など)にシフトした結果、国内の製造業の空洞化技術流出が起こった。
  政府が不況対策のため金利を引き下げたので、モノはそれほど売れないのに、土地取引、それに続く財テクなどによって経済は過熱。
  このとき、アメリカの株価が暴落したので、金利引上げが遅れ、さらに経済は過熱して”バブル経済”となる。
  その後も問題処理の先送りが傷を大きくした。金利を急激に引き上げたので、不動産会社、銀行などの金融機関がつぶれ、それを救済するために国は赤字国債を大量に発行して財政難に陥った。
  1990年代は”失われた10年”と言われるが、現在も、国が財政破綻して何もできなくなり、デフレから未だ脱却できていない。(さらに、少子高齢化ニート、フリーターの増加教育現場の荒廃などの近い将来の課題が山積みとなっている)


  (1) プラザ合意:
  日本は工業製品を輸出して外貨を稼いだ。しかし、アメリカの貿易赤字は1983年670億ドル、84年1120億ドルのように倍増し、その1/3が対日赤字だった。そこで、1985年(昭和60年)9月、アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、日本の先進5カ国の大蔵大臣、中央銀行総裁がニューヨークのプラザホテルに集まり会合を開いた。そこでは、アメリカの対日貿易赤字を解消するためにドル安円高にするよう協力が求められた。(当時1ドル240円) このプラザ合意の直後から、大蔵省と日銀による大規模な円買い・ドル売りが行なわれ、急激に円高が進行していった。(1ドル242円→86年1ドル220円→・・・→2004年110〜120円)

  (2) 円高不況・低金利による好況:
  日本の輸出産業は大打撃を受け、日本銀行は85年から87年にかけて5回も公定歩合を引き下げた。日銀の金利の引き下げは、国内の輸出産業を守るのが目的であったが、一般の金融機関の金利も下がり、企業は安く借りた資金で経営を拡大し、海外からの流入品購入や海外旅行などが安くできるなどにより空前の消費ブームが起こった。企業は大量の資金が安く借りれることから、本業以外の”財テク”でもうけることを考え土地取引を始めた。

  (3) 地価と株価の上昇:
  1985年国土庁発表の首都改造計画を見て、大手の不動産会社や建設会社が都心の土地確保に動き始め、地価は急激に上昇した。1980年代から優良企業は自社株を発行すれば容易に資金を得られるようになったので銀行から融資を受けることを敬遠し(銀行離れ)、優良な貸出先を失った銀行は土地を担保に中小企業へ積極的に貸し出し、また、空いている土地を探してマンション建設などを働きかけた。この時、”地上げ屋”が横行し、行過ぎた方法で狭い土地を買い上げ広い土地に整備して高く転売した。(暴力団(経済やくざ)による脅迫や出火事件) また”買い替え特例”(土地の買い替え時の税金免除)の制度があったので、都心部の土地を売って郊外に住宅を買い替える人が多かった。
  また、1987年政府の保有していたNTT株売却によって収益を得たことから、”株は儲かる”という意識が広く浸透し、企業のみならず一般の投資家が株取引を積極的に行なうようになった。企業はその資金で工場設備を拡大し、余った金で土地を購入、その土地を担保にさらに銀行から借り、株を買った。
  このようにして、地価も株価も著しく上昇した。(1990年(平成2年)には東京23区の土地代でアメリカ全土が買えるという計算になった) さらに、日本企業による海外資産購入も激しくなり、グアムやハワイなどのリゾート地は次々と日本企業のものになった。また、日本企業による海外企業の買収も行なわれ、ソニーはアメリカのコロンビア映画を、三菱地所はニューヨークのロックフェラーセンターを買収した。またゴルフ会員権や美術品落札価格なども高騰し、”シーマ”などの高級車が売れ、東京お台場のディスコ”ジュリアナ”が話題になり、夜の町もにぎやかになった。

  (4) アメリカ株価の暴落:
  日本政府は経済の異常な過熱を抑えようと金利引上げを検討したが、1987年10月ニューヨーク株式市場で平均株価が過去最大の値下がりをした(ブラックマンデー)ことから、アメリカを配慮して公定歩合の引き上げを延期し、バブルの加熱ぶりを止めることができなかった。(ドイツはかまわず引き上げた) 結局、日銀が金利を引き上げたのは89年5月からで、2年3ヶ月も超低金利(2.5%)が続いた。

  (5) 地価対策開始〜銀行倒産:
  著しい地価上昇のため、一般のサラリーマンはマイホームやマンションをあきらめなければならなくなった。1990年大蔵省は不動産融資の総量規制に踏み切り、事実上、銀行にこれ以上不動産会社に資金の貸し出しをさせないようにした。また、92年に新たに”地価税(0.2%)”を導入し、従来の固定資産税も引き上げられ、広い土地を所有できないようにした。さらに、日本銀行は、89年5月から公定歩合を1年3ヶ月間という短期間に5回に分けて引き上げた。(2.5%から、3.25%、3.75%、4.25%、5.25%、6%)
  この結果、急に、新たに土地を買う人がいなくなり、バブルがはじけて土地の価格は暴落し、町のあちこちに地上げ途中の空き地が取り残された。土地を担保に融資を受けていた不動産会社は、経営に行き詰まり次々に倒産していった。銀行は、貸していたお金を返してもらえなくなる不良債権が増大していった。1995年12月、住専(住宅金融専門会社)が不良債権のため8社あったうちの7社が破綻し、初めて債務処理に公的資金があてがわれた。
  さらに、1997年11月3日三洋証券の経営が破綻(負債総額3736億円)、17日北海道拓殖銀行が破綻した。そしてその一週間後の11月24日、”四大証券”の一つ山一證券が自主廃業を宣言、また宮城県のコ陽シティ銀行も破綻した。これらの倒産は、バブル期の無理な不動産融資が巨額の不良債権を生み、それが次第に明らかになり”信用”を失ったのが原因だった。たった1ヶ月の間に4つもの金融機関がつぶれたので、不安に駆られた預金者が全国で金融機関の窓口に殺到した(取り付け騒ぎ・・ふだん銀行には多額の資金が用意されていないので、預金引出しが殺到すれば資金不足に陥り倒産に直結する)。しかし、過去のバブル崩壊による昭和金融恐慌の教訓(*)から、報道機関があえて抑えた報道姿勢をとったので全国的な大パニックにはならなかった。また三塚大蔵大臣は国民に冷静な行動をとるよう呼びかけ、かろうじて”平成の金融恐慌”は食い止められた。
  また、1997年4月から橋本内閣によって消費税が3%から5%に上げられると、一時上向いていた景気が一気に失速し、これがこれらの11月の銀行破綻、金融不安につながっていった。日本銀行は金融機関には担保なしでいくらでも貸すと宣言したが、金融不安は一般の消費者心理を冷え込ませ、生活必需品以外は買い物をする気がなくなり消費が低迷した。
  デフレ・スパイラルとは、商品の値段が下がるときの消費者心理として、もっと下がるまで待とう(cf.上がるときはすぐ買う)により、商品が売れなくなり値段を下げる、の悪循環である。

  * 昭和金融恐慌(失言恐慌): 1927年(昭和2年)片岡大蔵大臣は、銀行の救済を進める答弁の中で、まだ破綻していない中堅の東京渡辺銀行が破綻したと言ったので、銀行は休業に追い込まれ、全国で金融機関への取り付け騒ぎが起こった。そのため32の銀行が休業に追い込まれ、最終的には500もの銀行がつぶれた。

  (6) 公的資金の大投入:
  1998年7月小渕内閣は、赤字国債を大々的に発行し、経営の行き詰まっている銀行(長銀、日本債権銀行などに対して60兆円)の不良債権を処理して新しい銀行に生まれ変わらせた。この膨大な国の借金は次の日本の世代にそのまま残された
  現在、赤字国債は1000兆円(国民1人あたり800万円の借金)にもなり利息すら返せない状況なので、伝統的な景気刺激策の公共投資が著しく制限されている。老人・医療・福祉関係の切り詰め、公務員の整理(10数年前の一般企業のリストラに比べほとんど進んでいない)、地方分権(=地方への”丸投げ”)、等を行なっているが、抜本対策となる全国民に負担させる”消費税の大幅アップ”は景気低迷による破綻を恐れて誰も踏み切れない状況である。(成長か、増税か? 小泉首相は逃げた。谷垣元財務相は2010年までに少なくとも10%と言った。)

  (7) 政治家・官僚の責任:
  バブルに踊った人々の責任は無視することはできないが、それ以上に、日本経済の舵取りを誤った政治家、経済官僚の責任は重大である。”おかしいと思ってもモノをいえない営業現場の銀行員、当局の意向に従うだけで責任をとらない経営陣、視野の広い戦略を欠き肝心の決断は先送りした当局。それは、太平洋戦争における前線の兵士と将校、将校と参謀本部の関係と全く変っていない。”(日経・”検証バブル 犯意なき過ち”)



    (参考文献) ・ 「そうだったのか 日本現代史」、池上彰、集英社


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