5.  十字架の奥義     ・・・ 世の初めからの神の計画について



  神が天地を創られたのには目的がある。弱い、取るに足らない、罪深い、不完全な存在の人間を、全知・全能の神の子供にしようとする計画である。これはある意味では完全な被造物である”御使い”をも遥かにしのいでの、大抜擢である。
  このために神が現した方法は、最愛のひとり子イエス・キリストを、最も卑劣な処刑法である 十字架につけることによってである。十字架は、神の愛を最も人の心に表現するやり方である。



  (1)  人の心の特性:


  「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」(エレ17:9)


  原罪のある人間は、誰かが犠牲になることによって”救い”を得るという、陰険な存在である。
  実際、肉体にあっても、人が生きるためには、多くのものが犠牲にならなければならない。
  赤ん坊は母親の乳を飲まなければならない。乳が出るためには 同量の血を消耗する。肉体が食物を採るためには、動物を殺し、植物を犠牲にしなければならない。生体エネルギーはほとんどすべて太陽から来る。

  精神的にも、ストレスがたまると、そのはけ口を求めなければならない。しかし、求めるものが”的外れ”であることは””という言葉の語源になっている。 (酒、遊興、偶像、セックス、非キリスト的音楽や趣味、また、作り話・噂話、悪習慣 ・・・) 代償行為によってストレスをうまく処理できないと、羊型人間は、うつ病になったり、ドラッグをやったり、性的倒錯に陥ったりする。心に傷がある人は悪霊を受けやすい。これはクリスチャンでもそうである。
  夫婦のように、最も近い人間関係が最も影響を与える。夫婦関係でストレスがたまると、どこかで発散しなければならない。(仕事で厳しい部長が恐妻家であったりする) まさしく”力学”と同じである。

  一方を押さえれば、他方が出てくる。左脳(論理力)ばかり使い、右脳(発想力)を使わないと精神のバランスを崩す。人間の機械的部分は大体 左右対称にできている。(脳と体の連絡は途中で交差する。右脳⇔左半身、左脳⇔右半身。 鍵盤楽器、特に、バッハの左手も通奏低音で右手並に動く曲はバランスが良い。) 一般に、日常生活ではバランスがとれないのが普通である。

  たとえば、ゲーデルは、非常にまじめで内向的で神経質で勤勉な論理学・数学の天才であり、他人の論文を徹底的に理解し改良して新しい論文を作る能力に長けていた。一方で、元キャバレーのダンサーの妻(7歳上)の世俗的な冗談によって精神的におもりされていた。彼がどのくらい生真面目だったかといえば、亡命先のアメリカ合衆国の国民になる審査の面接で、係官に、前日に綿密に論理的に調べた合衆国憲法に欠陥があり、ナチスドイツのような独裁制になる可能性があることを語り始めた。(これは、同伴したアインシュタインらによって止められ 事無きを得た。) アメリカ国民になってからは、映画、特に、ディズニーの”白雪姫”のファンになった。しかし彼のよき理解者だったアインシュタインが死に、妻が彼女の母の急死のためオーストリアに帰っていたとき、精神状態が急速に悪化した。最終的には毒殺を恐れての被害妄想による閉じこもりの餓死であった。
  自分の想いのみに集中する人(= 自己中心)は、暗闇の中に滅びる。

  アインシュタインは社交的であり、菜食主義であったが、同時に非常な愛煙家であり、いつもパイプをくゆらして物理的想像にふけっていた。(ニコチンは神経伝達物質のアセチルコリンの代用になり、特に大脳の不快中枢に作用すると言われている。ちなみに、ボーアもシュレディンガーも喫煙者) そして、”想像力”こそ大切だと言って、実際の計算は部下にやらせていた。しかし、晩年の統一場理論は不毛な結果に終わった。また、かたくななまでに 自身の信念である”実在主義”に固まっていて最後まで量子力学に反対する立場を取っていた。この間違った信念は、ゲーデルの”合理的世界観”とよく合うものだったが、結局ゲーデルの命取りになった。アインシュタインもゲーデルも神の”存在”を信じていたが、キリスト信仰には達しなかった。

  * 「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」(箴17:22)
    「ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」(ヨハ8:36)

  大脳で分泌される神経伝達物質のひとつであるエンドルフィンは、人が笑い、陽気になり、神を賛美し、また、運動する時に分泌され、痛みをやわらげ、身体の組織のいやしを促進する。エンドルフィンから体内モルヒネが作られる。(いわゆる ジョギング・ハイの状態、これは神の恵みである。)



  (2) 救いの源泉:


  「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子(=イエス様)の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」 (ヨハ6:53)

  私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、・・・ 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」 (Tコリ11:23−25)


  イエス様の肉を食べ、血を飲むことを言われたとき、多くの人が”これはひどい言葉だ”と言ってつまずいた。しかし、すべてのことについて、イエス様の十字架を覚えることは御心なのである。人の理屈ではなく聖書がそう言っているからである。
  イエス様が十字架につけられる事を語られたとき、ペテロがいさめたが、このときイエス様はペテロに、「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 (マコ8:33)と言われた。神の御心は、十字架であり、イエス様が我々すべての身代わりに、”犠牲”になることであった。

  礼拝には、常に”犠牲”が伴っている。アベルの時から罪人の礼拝には毎回必ず動物のいけにえがささげられてきた。(罪とは神に対する負い目である。”いけにえ”という言葉は旧約聖書に595もある。) 現在は、御子イエス様の十字架で、罪の贖いは「完了」(ヨハ19:30)されているので、イエス様の十字架の犠牲を覚えることによって、誰でもアダムとエバの時代のように神を礼拝することができる。それは、”霊的礼拝”である。

  賛美・感謝は、ダビデの時代から「感謝のいけにえ」(詩50:14)とあるように、たましいの領域を神にささげる最良の手段である。
   ただし、自己中心的な賛美はルシファー(= サタン)が賛美の天使長だったように偽りであり、また、カインの子孫のユバルは神の憐れみによって音楽の才能を授けられたことに注意。(過剰な権威・秩序を要求する人間中心的・制度的教会は霊的に非常に悪い。サタンもカインもパリサイ人もかたくなな意志があった。)
   しかし、”自己中心”から、”神中心”へ移行するならば、すべてはきよめられ、神に受け入れられる聖なるささげものになり得る。たとえば今、同性愛の人も、芸術的礼拝に用いられる可能性がある。すなわち、十字架の血潮聖なる油注ぎ(聖霊)によって聖なるものとされたならば すべて(元々アフリカの降霊術のロックンロールさえも神の領域に奪回され) 神に受け入れられる賛美・芸術となる。全能の神に受け入れられるということは、それらが大いに祝福され、主の栄光を表すことに他ならない。

  「あなたがこれらを聖別するなら、それは、最も聖なるものとなる。これらに触れるものもすべて聖なるものとなる。」(出30:29)

  また、神は霊であり、”言葉の神”であるので、賛美と”預言”は深い関係にあり、これは礼拝レベルでの神との交わり(全能者とのコミュニケーション)である。(T歴25:3) ダビデの時代に 聖所と至聖所の間の垂れ幕が無かったのは、すでに(幻で示された)十字架信仰があったからと考えられる。
  礼拝は 本来の人間のあるべき姿であり、神との交わりがあるならば、問題は解決しストレスは解消され、人間精神のバランスは回復する。地獄は、神との関係が絶たれた状態である。(イエス様が身代わりに体験された(マコ15:34))

  ”救い”という言葉(ソテニア(ギ))は、)「永遠のいのち」の他に、「解放」、「健康」、「救出」、そして「安全」という意味がある。 永遠の命しか知らない人は、ちょうど、新大陸に渡る客船の切符を買ったため 一文無しになって船に乗った人が、切符に船での食事代が含まれていることを知らなかったようなものである。(実話)
  いやしについては、イエス様がカルバリで私たちの病を全部、背負ってくださった事39の打ち傷はそれぞれ異なる病である事を信じるべきである。

  ”犠牲の力”は異邦の偶像礼拝者にもはっきりと現れている。モアブの王は自分の後継ぎの長男を悪魔礼拝のいけにえとしてささげたとき、イスラエル人を追い払うことができた。(U列3:26、27)
  ましてや、神の愛するひとり息子いけにえとなったならば、どれだけ圧倒的な勝利をもたらすだろうか?全能の神の世継ぎ神の第2位格、つまり、神ご自身をである!(三位一体は、形式的論理では計れない)

  十字架は、みこころ中のみこころであり、初めからの計画である。悪いものは全部 十字架に吐き出す事である。十字架は、人生の最終処理場であり、”霊的なダイオード”であり 決して逆流しない。不思議なことに、汚れたものはみな消滅するのである。 知性で考えて、十字架のことを避け 言わなかったり、用いない人がいるが、こちらの方が むしろ裁かれる。

  御子イエス様は復活・昇天して、今我々のために 神に とりなしていてくださる。「一人も滅びることを望まず」 + 「その日(主の再臨とさばきの日)は盗人のように来ます」 は神の葛藤を表し、これも論理で計れない。

  聖霊様は再び、世の終わりの混乱した世界に、十字架を通しての創造の力を顕わそうとしているのである!


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