5. ロシア帝国の中央集権制


  ロシア、モスクワの中央集権制の伝統は、長年にわたるタタールの支配、また、ロシア正教の影響が大きい。短期間に強引にソビエトの社会主義を実現するためのスターリンの大粛清は、史上最大の殺戮となった。これは、世の終りの「ゴグ・マゴグ」、「大きな赤い竜」、「反キリストの台頭」にロシアが深く関わっていると予想される所以の一つである。


  (1) キエフ・ルーシの成立

  AD200−370頃、ゲルマン系のゴート族が黒海の北部沿岸に住みついた。その後、フン族が中央ヨーロッパと西ヨーロッパに侵入したが450年にはフン帝国は滅亡した。その後も、タタール人とアヴァール人というアジア系遊牧民が南ロシアを支配した。7−8世紀には、スラヴ諸部族が、現在のベラルーシとウクライナに住みついた。
  7世紀ハザール人はカスピ海と黒海の間の地域を支配し、ヴォルガ川とドン川による交易路を確保した。ハザールの支配階級は8−9世紀にユダヤ教に改宗した。この時、離散ユダヤ人の血がハザール人に混じったと考えられる。(DNAではユダヤ系が入っている)
  7―8世紀から、バルト海沿岸に住んでいたヴァイキング(ロシア語でヴァリャーグ人)は、ヴォルガ川を目指して北からノヴゴロド地方に襲来してくるようになった。9世紀には、コンスタンチノープルとの交易のため、キエフ・ルーシを建国し、まわりの国々から恐れられた。ただし、”ロシ(Rhos)”という名は、スラヴ人を指し、ヴァイキング侵入以前の南ロシアですでに知られていた。

  ・ ヴァイキングはきわめて獰猛で無慈悲な蛮族であり、とても英雄視するような対象ではない。ヨーロッパにおけるカール大帝の頃の記録によると、彼らはまず狂ったように戦った(熱狂・バーサーク(狂暴)と言う)。戦闘の前に一種の薬剤を飲んだとも言われている。
  また、彼らは敵を北方の神々に生贄としてささげた。”血の鷹”と呼ばれる不気味な儀式では、生きた人間のあばら骨をのこぎりで切り 肺臓を取り出し これを鷲の翼の形に広げた。イングランドのノーサンブリア王国の王アエルや東アングリア王国の王エドムントはこの”血の鷹”の儀式の生贄にされた。
  彼らは、覆いも甲板も無い30人程度が乗る長い船に乗り、沿岸部で良さそうな土地を見つけると、そこで虐殺し、凌辱し、放火し、強奪し、すべてが灰燼に帰し全員が皆殺しであった。

  880−90年には、”ルーシ”という名はゆるく結びついた新しい政治的連合体を指すようになった。キエフ・ルーシは、それぞれが君主をもち貴族が政治を行なう都市国家の連合体であり、後のモスクワ大公国のような中央集権制とは異なる。960―70年に統治したキエフ・ルーシのスヴャトスラフはヴォルガ川全域を征服し、バルト海からアドリア海まで掌握し、次いで、ブルガル国とハザール国を破った。


  (2) タタールの支配とロシア正教

  990年、ルーシは東方教会(ビザンチン帝国の教会)のキリスト教に改宗した。スヴャトスラフの息子ウラジーミルは989年頃キリスト教になった。政略結婚により同盟を結ぶ慣習があったため、教会は国家をまとめるのに不可欠となった。ウラジーミルはキエフの後継都市となり、初期ロシアの教会堂建築や聖像画(イコン)に独自の流派をもった。

  1223年タタールは初めてロシアを攻撃したが深追いせず引き上げた。1226年チンギス・ハンの孫のバトゥ・ハンは、大軍を率いて、リャザン、モスクワ、ウラジーミルを次々と破壊し多くの人々を惨殺した。ヴォルガ下流域を支配したキプチャク汗国はサライに首都をおいて分割統治したが、最高権威筋はあくまでも大ハーンであり、”大法令(帝国の基本法)”のもとで帝国を一つにまとめた。
  大法令には”宗教に対する寛容”をうたっていたので、1240―1480年の支配の間、タタールはロシア正教に対し驚くほど寛容であり、課税もされなかった。1313年タタールはイスラム教を国家宗教としたが、ロシア正教への寛容は変わらなかった。教会は蓄財し、土地所有を広げていったので、政治的に大きな力を持つようになった。また、タタールの税制は自由農民の発生を阻み、農奴制が確立していった。このように、タタール支配がロシアの中央集権的な体質を形作ったと言われている。
  モスクワは1237年にタタールによって破壊された。14世紀初頭には、モスクワとトヴェーリの長年にわたる抗争が続いた。1380年ドミトリー・ドンスコイは増税を要求するタタールに対し、同盟諸国と共にクリコヴォの戦いで初めて勝利した。長年モスクワから広大な土地の提供を受けていたロシア正教会の府主教は、支援をするためモスクワに府主教座を移したので、モスクワのロシア統一に決定的な影響を与えた。


  (3) イヴァン雷帝の狂気

  イヴァン3世(イヴァン大帝、1462−1505)は、15世紀初頭、モスクワ大公国の内乱を抑え、北東ロシアにおける覇権を確立した。1480年タタールを倒し、タタールの”分割統治”を取り入れた。大帝は忠信な部下にまわりを固めさせ、リトアニアに対抗し富裕な階級は国外へ追放した。ノヴゴロドの没落後モスクワによる領土の取りこみは続いた。
  1439年ロシア正教は、没落しつつあったビザンチン帝国(1454年オスマン・トルコによりコンスタンティノープル陥落)からの独立を主張し、1470年”第三のローマ”であるモスクワに東方教会の本拠地があると宣言した。

  イヴァン4世(イヴァン雷帝、在位1533−84)は、中央集権と専制政治を強化し、自らを”ツァーリ(カエサルやハンとしての皇帝)”と呼んだ。地方の大貴族階級は多くの特権を失った。1552−56年タタール系王国であるカザン汗国とアストラハン汗国を攻略して、シベリアへの道を開いた。次に、タタールやトルコを攻撃すべきなのに、リトアニアへ兵を進めたが大敗し、うまくいかなかった。
  1533年イヴァンは重病になったが回復した。このとき君主制を覆す動きから非常に疑り深くなり、さらに1560年 妻アナスタシアの死により猜疑心が増した。イヴァンはオプリーチニキという特別な親衛隊を組織し、廷臣や町々を監視し貴族らが国外に脱出できないようにし、そして気まぐれで大量虐殺をするという恐怖政治を行なった。この反乱・反逆の監視制度(オプリーチニナ)は1572年まで続いた。

  ・ これは、スポイルされやすい人間が、たまたましたい放題できる環境に身を置く実例を示している。イヴァン雷帝は1530年に生まれた。イヴァンの母親は彼が8歳の時死んだが毒殺だと推定されていた。気に入った女があると手当たり次第手込めにする癖があった。27歳の時王妃が亡くなった(これも毒殺だと信じこんだ)が、これを境に彼はがらりと人格が変わった。大貴族はほとんど抹殺された。1570年(デマであった可能性が高いが)西方との交流があったノブゴロドの町が反乱に立ちあがると信じこむと、イヴァンは町の周りに木の柵をめぐらし誰も逃げ出せないようにした。それから6万5千人の住民すべてを責め抜いて虐殺した。妻は夫が拷問されるのを見るよう強制され、母親の前で赤ん坊が虐待され、母親は生きたままロースト焼きにされた。イヴァンは狂人の満足でこれを5週間見物した。


  (4) ロシア帝国の成立

  ピョートル一世(ピョートル大帝、1682−1725)は、各方面に対する戦争が続き、領土を著しく拡大した。スエーデンとの北方戦争(1700−21)で勝利し、1713年首都をサンクトペテルブルクに移した。ピョートルは、国内の西欧化をも積極的に推進し、ロシアの近代化に貢献した。また、アジア、ベーリング海峡、アラスカへも進出し、広大なシベリアの地がロシアの領土となった。しかし、戦争と軍事活動の出費をまかなうため人頭税が導入され、これは農民にとって重い負担となった。農奴制が強化され、農奴は工業の労働力として駆り出された。(ピョートル大帝の前にステンカラージンの乱(四つ裂きの刑)、後のエカチェリーナ大帝の時プガチョフの乱(1773)) 19世紀に入ると皇帝の後継者争いで、デカブリストの乱(1825 12月)というクーデターが起こった。
  ナポレオンはロシアへ進攻し、1812年クレムリンに立ったが、ロシア進攻は時機を逸していて、期待された農民蜂起は起こらなかった。住民はモスクワを置いて退避しナポレオン軍は物資不足に悩まされた。ナポレオン軍は10月初めに退却を始めたが飢えと寒さで多くが死亡し、これに乗じてロシア軍は追撃し、1814年ついにパリを占領した。
  オスマン・トルコの衰退はヨーロッパによる覇権争いとなり、フランスとのクリミア戦争(1853−56)では、ロシア経済の後進性が露呈した。そこで、さまざまな改革がロシア国内で成され、1861年農奴制が廃止されたがその特徴は残った。
  ロシアは飛躍的に発展したが、社会、政治、経済のいずれの分野においても問題を抱えていた。さらに、第1次世界大戦に参戦した事から、経済は滞り、物資不足、インフレが起こり、労働者の抑圧(粗末な小屋や貧民窟)による不満が高まり、これが共産革命の原動力となっていった。


  (5) スターリンの恐怖政治

  スターリン(1879−1953)は、ソ連を レーニン、トロツキーらの理想と似ても似つかない裏切りと密告の収容所国家としてしまった。
  ソ連を超大国に押し上げた独裁者はグルジアのゴリの町の靴屋に生まれ、神学校在学中に革命運動に加わり、1912年ボリシェヴィキ(ロシア社会民主労働党の急進派)の中央委員になった。レーニンはマルクス主義(社会資源の国有化)を一度に強行することは無理と考え、大企業だけの国有化を宣言した。トロツキーがフランス革命を基準にしたのに対し、スターリンは、イヴァン雷帝、ピョートル大帝などのロシア史上の統治者の業績を学び、強引にこれを推し進めた。1924年レーニン死去の後、ジノヴィエフ、カーメネフ、スターリンがその地位を継ぎ、スターリンが党書記長に就任した。1927年トロツキーは論争で敗北し党から除名され、その後国外に追放となった。ジノヴィエフもカーメネフも厳しい批判を受け、彼らは皆後になって暗殺・処刑された。

  @ 彼の言葉によると、”旧ロシアの歴史はなによりもまず遅れていたため打ち負かされた記録であり、この50年から100年の遅れを10年で取り戻さなければならない。” したがって、”社会主義は強制なくしては建設できない”と主張した。
  A そして、彼は、敵と戦う最善の方法は、内通者(裏切り者)を摘発する事であるとした。一度裏切った人間は必ずまた裏切るという確信を持っていた。それゆえ、党内外の人間を執念深く処刑・暗殺し、危険分子と見られた人々やスパイの嫌疑がかかったすべての人間を処刑し、あるいは流刑にして強制労働(ほとんどが暴力や衰弱で死亡)させた。

  スターリンの大粛清はロベスピエールがフランスで権力の座に居続けたと想定されることと同じである。スターリンほどの狡猾さと冷徹さは他に類を見ない。さらに、これに狂気(猜疑心)が加わっていった。彼が原因で直接的に、あるいは間接的に殺された人の数は世界史上最大である。スターリンは、チンギス・ハンやイヴァン雷帝が慈悲深く見えるほどの規模で、冷静な計算に基づいて殺人を実行した。

  ・ クラーク(小地主階級・富裕な農民層と見られた人たち)撲滅により、600万人が銃殺か追放された。1931−33年、強引なコルホーズ(国営の集団農場)化の再編成のために、食料の産出高は極端に落ち、全国に飢饉が起こり約1000万人が餓死し 人肉食いが一般化した。

  ・ そこで、党の内部や国外のトロツキーなどから批判が続出したが、スターリンは1933年から反撃し、数千人を党から除名し、ジノヴィエフ、カーメネフらはシベリアへ流刑(後に処刑)になった。(古代ローマであれば即暗殺であるが、スターリンの周りには秘密警察が取り巻き彼の命を守っていた。スターリンの妻は1932年に恐怖のため自殺した。)
  ・ さらにスターリンは、1943年党中央委員書記キーロフをはじめ、16人の党の古参幹部を政府転覆の陰謀を理由に裁判(公開裁判)で全員を有罪にし、ただちに処刑した。(これらの公開裁判で、批判された幹部ら自身が共産主義に洗脳されて”罪”を認める供述をしたことは全世界を驚かせた。)
  ・ ロシア全土で、多くの党員をはじめ、労働者、聖職者、官吏、インテリ・作家などの逮捕者が続出し、1934−38年の5年間に約800万人が処刑された。(たとえば1934年中央委員会に選出された140名の委員のうち、1937年まで生き長らえたのはわずか15名だった。)

  ・ また、1937年には、極東地方の国境にいた朝鮮人を 日本のスパイの浸透を阻止する目的で、全員が中央アジアに強制移住させられた。
  ・ 一連の大粛清によって軍隊の司令官はいなくなり、軍隊は著しく弱体化し統制が取れず、1941年6月ナチス・ドイツ軍がソ連攻撃を開始し、42年9月スターリングラードに迫った時には壮絶な戦いとなり、多くの一般の人々が戦死、餓死、あるいは凍死した。第2次大戦時のソ連の戦死者は国別で最高の2500万人にものぼった。
  ・ 1945年日本人捕虜のうち、極東およびシベリアでの労働に肉体的に適している者約50万人を生産現場に送り強制労働させた。
  ・ 戦後も、スターリンの戦時の指導力が誇張して報告され、個人崇拝を作り出した。スターリンや政府を批判する者やドイツの収容所からの帰還兵らは強制収容所へ送られた。


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