おぞましさの扉 ・・・・・ 主を恐れる事の祝福と信仰の歩み
06 6/10
神様が存在するならば、何ゆえ”愛”の神様がこの世界を不法と暴虐で満ちた残酷なものとされたかと、疑問に思った人は多いと思われる。現在の日本も世界も、(災害や事故、犯罪などもあるが)概して、今までの歴史に類を見ないほどの平和と繁栄を享受する時期にある。(イスラエル国が復興したことと関連がある。) しかし、歴史の教科書などにあまり書かれていない残酷な出来事をも知るならば、全世界の歴史は残酷物語の大パノラマであったことがわかる。
神様は、人間を、ロボットとしてではなく、本当に自由意志が与えられた者として創られたが、人類は神様から離れ罪を犯すことを選び、その結果
このような悲惨な状態になった。したがって、罪の責任は、悪魔が惑わしたとはいえ、ひとえに人間の側にある。
しかしながら、御子イエス様が十字架にかかって死なれたことは、神様が全宇宙を創造された中心的な目的であり、我々にとっての唯一の”救い”である。この十字架こそ、神様の「真実な愛」をあかししている。なぜなら、十字架でこの上なく苦しまれた方は、御子として現れた神様ご自身だったからである!このような神は他にはいない。 そして、神様は「信仰」を尊ばれるので、この身代わりの処罰を信じるならば、すべての罪は帳消しにされ、神の子としての身分と聖霊を永遠に受けるのである。
1. 主のさばきの御座
2. 犯罪の心理学
3. 犯罪者の矯正とクリスチャンのきよめ
4. 十字架を負うという教理
(参考) 世界史における犯罪性
1. 犯罪と暴力によるローマの形成
2. 皇帝ネロからコンスタンティヌスまで
3. モンゴル帝国の卑劣な戦法
4. 中世末期から近代のヨーロッパの不法
5. ロシア帝国の中央集権制
(参考文献) ・ ファイナルクエスト リック・ジョイナー、生ける水の川、2000
6
・ 世界残酷物語・上・下 コリン・ウィルソン、青土社、1990
1. 主のさばきの御座
人は、一度死ぬことと、死後、さばきを受けることが定められている。しかし、信じて聖霊様を受け新生しているクリスチャンの霊は、主のさばきの御座にあって、キリストの十字架のゆえに価なしに義とされ天国に入れられる。そこでは、主の光に照らされて、生涯に行なったあらゆる罪について走馬灯のように明らかにされ、ただ十字架の血によって赦しを得る。この世に生のあるうちに天国や地獄を見ることを許された人たちの証言によると、地上で人間が想像するよりもはるかに、天国はすばらしい麗しい所、地獄は恐ろしい悲惨な所であった。
歴史の細部を紐解いていくならば、全世界の歴史は人の罪と愚かさに起因する残酷物語で満ちている。たとえば、中世ヨーロッパの一般庶民は、発掘調査から、餓死寸前の慢性的な栄養失調状態だった。日本でも、人の平均寿命は縄文・弥生時代で20代、平安時代で30代、江戸時代でも40代だった。神様の設定はなんとマイナス志向であるか、と感じられるほどである。
アダムとエバの時代から人類に罪が入り込み、人は苦労して食を得るようになり、全世界はサタンの支配下に陥って、互いに争い悲惨な展開となっていった。これは、人間の方から神様を選ぶことを拒絶し、神様から離れていったからである。神様は「慎み(ジェントルマン)」であり、人間の「自由意志」を尊重され、決して強制的に従わせようとはなさらないからである。
神様は、罪人の言うことにいちいち答えられない。罪人がどんなに苦しんでいようとも指一本動かされようとはしないのである。それは、神を神とせず、自発的に神様から離れていった者たちに対し、何ら助ける動機がないからである。それゆえ、不法のまま放置され、サタンにその支配を任せられた。ただ、主の御名のため、すなわち、御国の名誉のために、時々みわざを行なわれるのみである。
神様は、(たとえて言うならば)”雷親父”のようである。神様はただ熱烈な方である。「寛容」とは、さばきを遅らせることを意味する。だから、国家レベルでのさばきは、その国の罪・暴虐が満ちてから行なわれ、一度さばきが行なわれるとそれは徹底的に跡形も無く行なわれる。
しかし、時が満ちて、神様はご一方的なあわれみにより、「救い」の道を備えられた。この救いは、唯一、神様が定めた方法による。
預言者リック・ジョイナーは1995年、神様に導かれて、一連の幻の中で
天国の宝玉を見せられた。
「救い」の宝玉はそれぞれ「真理」を表わす扉の入り口に置かれ、彼は多くの宝玉のうちの3つに触れた。太陽や雲を含む大きな青玉は「主の栄光」、緑玉は「いのちの回復」、そして、美しい紅玉は「おぞましさの扉」の前に置かれていた。この紅玉はすべての真理の宝玉のうち最も価値あるものだった。この「おぞましさの扉」が、「主のさばきの御座」につながっていたのである。それは御国を表わす”主の山”の頂上への最短ルートだった。山の頂上は、「御父の無条件の愛」と呼ばれ、そこには「いのちの木」があった。「おそましさの扉」のあたりが暗いのは、この真理を表わす教理が、制度的教会の時代から現在に至るまで、ほとんど省みられなかった教理である為だった。
リック・ジョイナーがこの紅玉に触れた時、ゲッセマネで苦悶される主の姿を見た。彼は、そのおぞましさのショックのあまり、披露困憊してその場に倒れてしまった。それでも、あのおぞましい夜に主がお感じになったものを少しばかり共有できたに過ぎなかった。青玉や緑玉のところへ戻って活力を回復し、紅玉の所へ戻ることを繰り返した。ついに、十字架上で父なる神のご臨在が主イエス様から離れる時は、それ以上耐えられなくなりその場から離れざるを得なかった。
彼がこの暗い「おぞましい扉」から入り、「主キリストのさばきの御座」へ向かうと、まず、地獄の恐怖が彼を襲った。彼が、”私を赦し、助けてください”と叫ぶと、彼は再び、十字架上の主を仰ぎ見て、全世界の罪をその身に負い、孤独で”罪そのもの”になられた主のたましいのドス黒い闇を見た。
彼が、そこからさらに進んで行くと、一条の光が差し、平安が心を満たし、次第に輝きを増し、ついに、天国にいるような驚くべき光に包まれた。これほどのすばらしいものが、あのような暗く不気味な扉から始まったことに彼は驚いた。わずか数分前までは暗黒と恐怖に押しつぶされそうだったのに、今の彼の心は歓喜と美に圧倒されていた。
この所は、「主キリストのさばきの御座」と呼ばれ、すべてのものが光り輝いていた。この光は、はるか遠くにおられる主ご自身から放たれ、それは、何物にも優る安らぎの源であると同時に、偉大で純粋な恐れの源でもあった。この恐れは、彼の歓喜と平安をさらに豊かにするための恐れでもあった。
* ”主の山”には、それぞれの真理を表わす岩棚があって、下から、「救い」についての真理、「兄弟たちの一致」の地点、「ガラテヤ人への手紙2章20節(キリストと共に十字架につけられ律法に死ぬこと)」の地点、頂上が「父の無条件の愛」であった。
1. 「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」(箴9:10) ・・・ 神様と共に歩む体験をするための知恵と知識を持ち、主の方法を持つ。
2. 「また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。」(詩145:19) ・・・ 自分の決断するすべてのことについて神さまを敬い、それゆえ、その心の願いが成就する。
3. 「主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。」(詩147:11) ・・・ 神を畏れる人を主は喜ばれる。その人がするあらゆることにおいて、主は恵みを与えられ、守り、答えてくださる。
4. 「幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。
あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。」(詩128:1−4) ・・・ 神様を畏れる人の家は祝福され、家族全体に繁栄があふれていく。
5. 「謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。」(箴22:4) ・・・ 謙遜は、自分を高めることをせず、プライドを持つことをしない。そのかわり、神様がその人を高め、信頼してくださり、あらゆる種類の富と誉れをもって、その人を尊んでくださる。
6. 「主を恐れることは日をふやし、悪者の年は縮められる。」(箴10:27) ・・・ 誠実な心をもって歩む人は、罪意識や恥意識を持たないがゆえに、神様の平安のうちに過ごし、ストレスが少なく、長寿を楽み、人生を喜んで過ごすことができる。
7. 「力強い信頼は主を恐れることにあり、子たちの避け所となる。主を恐れることはいのちの泉、死のわなからのがれさせる。」(箴14:26、27) ・・・ 神様は誠実な人たちの避け所となり、その子たちは安全な場所にいて、いのちの長い人生を受け取る。