1. 十字架信仰(再)
(1) 十字架信仰の再確認の重要性;
十字架信仰は、最も基本的なキリスト者の真実であるにもかかわらず、実は、最もとらえにくい信仰概念の一つである。
パウロは、エペソ人の教会が、愛と信仰という特徴で対外的によく知られていたゆえに、知恵と啓示の御霊が与えられ、また、聖徒の受け継ぐものの栄光と神の力の偉大さを知ることができるように祈った。(エペ1-15〜19)
しかし、このエペソの教会に対し、パウロはこの書簡の初めに、再度、イエス様の十字架によってのみ、これらの絶大な恵みがもたらされたことを強調して述べている。
すなわち、ただ、神のひとり子イエス・キリストの十字架によって、キリストと共に天国のすべての相続財産を獲得した事である。(エペ1-11)
なぜパウロは愛と信仰に評判の良かったエペソ教会の人々に、最も基本的な事を再度しつこく語ったのだろうか?。それはアベルとカインの対立を初めとする、人類にとっての最も根深い対立がそこにあるからである。
(後に、ヨハネの黙示録ではもっと厳しく、この初めの愛に立ち帰り、それに基づく行ないをしないと、聖霊の臨在が去ってしまうと警告されている。(黙2-4〜5) さらにイエス様の十字架の唯一の生き証人である使徒ヨハネ自身、晩年この教会の牧師になった。エペソはローマ領アジア州の主要都市で、エペソ教会は大きな教会であった。)
私たちクリスチャンは、キリストの十字架ゆえに、再び、聖霊に導かれ、主の御声に聞き従って、創世記のエデンの園にあるいのちの木から実を取って食べることができるようになった。
しかし、唯一イエス様の十字架を通して私たちが神に受け入れられたことをしっかりと捉えないで、人間的な努力に頼るならば、かわりに有毒な善悪の知識の木の実を食べ続けることになる。
アダムとエバが善悪の知識の実を食べてまず初めにしたことは自分を見ることだった。(創3-7)
そして、神様から独立して、自分の力で人生を切り開くようになり、神様が愛と恵みを持って備えていた楽園を失った。(律法主義に陥ったガラテヤ教会など。また、信仰という名の暴力。 20世紀初頭のアズサ・リバイバルも礼拝をプログラム化したためわずか3年で終わった。バベルの塔:人類が月へ行くほどの科学万能の時代、しかし、世界はますます堕落している。)
善悪の知識の実による歩み方は、他人への評価や他人への演技といったような休み無く続く戦いであり、サタンや神無き人々と同じ歩み方である。
自己中心や利己主義は、すべての神からの良い賜物や性質を、実に、恐れやまとはずれな働きやアブノーマルなもの、すなわち、罪に変えてしまう。(イザ14-12〜15、マタ7-22〜23)
恐れは、最も大きなクリスチャンに対するサタンの欺きであり、最もクリスチャンを縛るものであり、ただ不信仰なだけでなく、他のクリスチャンを迫害する性質のものである。(サウル、にせ預言の霊)
あらゆる主の計画が私たち一人一人に導かれているが、私たちは究極の目的をはずされてはならない。それは、私たちが、信仰にあっても、品性にあっても、キリストに似る事である。この目的をはずされると、いのちの川の本流からはずされてしまう。(成功しているように見えても、形だけのミニストリーで終わってしまう。)
御子イエス様の十字架によって、どれほど大きな御父の愛が私たちに明らかにされたことか!。(ヨハ3-16) この事を知れば知るほど、安全・確実・快適に主からの恵みをいただく事ができるのである。
ただ神のひとり子イエス様の十字架によって、後の世々に至るキリストの恵み(grace :楽しませること、優美さ、恵み、特別のごひいき)の財産を受け継ぐ者とされたことをしっかりと握り、そして、初めから神によって計画されているあなたの人生を宝物のように大切にしていただきたいと思う。(エペ1-5)
神は創造主なので、当然、その子どもたちも創造的な働きを成し遂げ、主の栄光を現すからである。