(2) 預言的な十字架観

 1) イザヤとヨハネの記述の違い;

 使徒ヨハネは、受肉されたイエス様に最も近い所にいることを許されたので、その召しを全うするために、イエス様の十字架について具体的に近くで目撃した事を、ありのまま記述している。(ヨハ19章)

 ヨハネの福音書は、”イエスが神の子である”事をあかしする目的で書かれている。だから、共に十字架につけられた悔い改めたほうの罪人のように、イエス様を”神の子”と信じるならば、この十字架の記述を知り、自分の罪を認めるだけで、救いの条件を満たすのである。それは、実際的な十字架をすでに見て知っているからであり、ここでは復活の信仰が神の関心事だからである。(ルカ23-40〜43)


 一方、預言者イザヤは、同じイエス様について、非常に恐るべきことを幻で見て預言している。
 全世界の病と痛みを負って、人として認める事ができないほどに砕かれ、私たちの罪の身代わりの犠牲となって、ご自分のいのちが激しく苦しんでいる、おぞましい姿として記述している。(イザ52-13〜53章)
 このヨハネとイザヤの記述の違いはいったい何なのだろう?。


 先ほど述べたアベルは、彼の羊の初子をほふって主にささげた。おそらく天から火が降って、彼のささげものを焼き尽くしたと思われる。この十字架の予告的な行為は、アベルが神と共に歩み、聖霊に示され、導かれて行なったので、それを神は喜ばれたのである。(一方、人間的にささげられたカインのささげものについては、特に何も起こらなかった。)

 アブラハムがイサクをささげようとした時の事も、典型的な十字架の予告的示しであって、その聞き従いの結果、子孫が大いに増え、敵に勝利するという祝福を受けた。(創22-1〜18)

 また、ヤコブがまだ肉に生きている時でさえ、この預言的な十字架のとらえがなされ、神に祝福された。
 これは非常に難解な個所であるが、ヤコブはポプラやアーモンドやすずかけの木の枝の皮をむいて、その白い枝を水ぶねの中に差し向かいに置くと、彼の選んだ黒い羊とぶちとまだらのやぎの群れにさかりがついて、彼の群れだけが非常に多くなった。(創30-37〜43)
 神はイエス様の十字架の力を預言的に示すために、ヤコブにそのようにさせたと思われる。(白い枝=十字架)
 (その後も、青銅の蛇はわざわいの回避をもたらし(民21-9)、モーセの律法にある、祭司による生々しいいけにえの儀式は、イスラエル民族レベルの祝福と守りをもたらした。)


 現代の時代にあっても、このイザヤが見たようなイエス様の十字架の幻が、要所要所で現れる。
 主は私たちの信仰を喜ばれる。信仰とは、実物としては目に見えないものをあたかもすでに手に入れたものとして見るものである。(ヘブ11-1)
 その根拠として、主によって示された少しの超自然的な幻が必要である。
 ((注) 示されていないで、人間的に思い込む段階のものは真の信仰とは言えない。みことばも、そのままでは何の力も発揮しない事に注意。みことばは、この場合、信仰のガードレールであり、悔い改めの基準であり、また、聖霊の油注ぎの時の備えである。)

 ハンター夫妻は世界的に用いられたいやしの器であるが、イエス様の十字架について次のように言っている。
   教会で救いのすべてを語り始めると、救われていない人や、病人や悪霊につかれている人が救われ、いやされ、解放され、聖霊のバプテスマを同時に受けて帰っていくのを見るようになります。・・・ギリシャ語のソテニアは救いと訳されていますが、実は(「永遠のいのち」の他に)「解放」、「健康」、「救出」、そして「安全」と言う意味があります。・・・イエス様がカルバリで私たちの病を全部、背負ってくださった事を何人の方が信じていますか。その背中の39の打ち傷は、それぞれ異なった病なのです。・・・イエス様が十字架にかけられていた姿は、全く人間としては見えなかったのではないかと、私は信じています。・・・なぜなら、すべての人類の脳性麻痺を身に負ったからです。また全人類の癌を身に負ったからです。糖尿病も全て負いました。あらゆる病をそのイエス様の身体に負われました。全人類のあらゆる病です。十字架のイエス様は、芸術家が描くようなものではなかったと信じています。ゴルゴタへの道を歩まれたイエス様と、似ても似つかなかったと思います。・・・・彼が病気になる事は、神様のみこころだったのです。なぜでしょうか。それは、神様が、私たちを心から愛しているため、私たちに病を負わせるのではなく、イエス様に負わせたからなのです。・・・・イエス様の中に、私たちの病を見る時、いやしは私たちの生活に現れるのです。・・・イエス様の上に自分の病を見続けて下さい。(”病人をいやす秘訣” p100〜103)

 聖霊に示され、十字架のイエス様の上に私たちの病を見ることができ、一方私たちが元気になっているのを見ることができたならば、その超自然的な幻がいやしの信仰を引き起こし、その時、いやしがなされるのである。


 あなたに問題となっている事に十字架を見て下さい。預言的にイエス様の十字架を見る事ができれば、その問題が解決し、奇跡が起こり、いやしが起こり、祝福を受ける。
 私たちは、預言的なとらえによる十字架の力をもっと知るべきである。


          §  十字架信仰と復活信仰との相補性;

  1) 十字架信仰; 唯一絶対の力ある神を前提

              → しかし、その神が自分のひとり子なる主イエス様を
                十字架につけて殺すほどに私たちを愛された。
                (イエス様は神の子であるから、当然復活された)

                      ・・・ 預言者的な信仰

  2) 復活信仰;  イエス様は十字架につけられ殺された。
              しかし、実は、彼は神の子であった。

              → イエス様が復活し、今も生きて働いている事のあかし

                      ・・・ 使徒・伝道者的な信仰


     1)と2)は実は同じ事を言っている。


           §  血について;

 1) エルシャダイ; アブラハムに(信仰の)子孫が著しく増える祝福をし、アブラハムにあって主との契約が結ばれた時(旧約)、主が自己紹介して言った言葉。(創17-1) ”エルシャダイ”は”全能の神”の意味。その語源は”乳房の神”である。乳腺から母乳を出す時、ほぼ同じ量のを消耗する。信仰の赤ちゃんはイエス様の血を飲んで成長する!。(ヨハ6-53〜)

 2) 子宮; 子宮は血管の塊であり、キリストの磔刑のような形をしていて、血の中で子を産む。


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