1. 主のわざの重要性


 (1) 単純な信仰;

 step1の”信仰”の所で述べた通り、主のわざ(奇跡、しるし)は、神の子イエス・キリストの”復活”の証拠である。

 リバイバルの起こっている所では、子供もわざを行う。例えば、北米のスミストンで起こっているリバイバルでは、子供による按手で大の大人が吹っ飛んで倒される。

 私たちは、信仰の歩みの初期に、主による恵みや訓練を受けるための土台として、まず、みことばを学ぶ。
 そして、次の段階で、訓練としての、主の恵みのわざを体験させられる。私たちは熱心にカリスマを求め、一時期そればかりに熱中し、主のわざが起こるのを目の当たりにして、”わー、私にもできるんだー”と、大喜びするのである。
 そして、最初の数年間は、子供の成長のように急激に成長し、主にあるその人の霊的な個性的特徴が現されてくる。一休みの後、さらに器が広げられ、苦痛を伴う部分的な成長が行なわれる。(もし、成長することを止めれば、霊的な死へと向かってしまう。)

 いつしかわざがぽつぽつとしか起こらなってきて、きびしい試練が続くようになる。もうだめだと思うこともあるであろう。
 しかし、どうぞご安心下さい。主は、試練を通して、私たちが真のリバイバルの器となるように、次の段階の訓練を与えておられるからである。主は、リバイバルの時に、私たちが決して高慢になり得ないように、私たちをみこころのままに整えておられるからである。(品性の実)

 リバイバルの時は、今までのキリスト教の歴史がほとんど意味を持たなくなるほどの、とんでもない大いなる主のわざが全世界でなされる。それゆえ、リバイバルに用いられる器は、御霊に満たされているが完全にへりくだらされた”顔の無い”人々である(預言者ポール・ケインの幻による)。

 もし、リバイバルの時に高慢になって主の栄光を取ったならば、何も主の為に働かなかった人々と全く同じく、天国で最下位の地位に置かれる。もし、惑わされて、聖霊を汚す罪を犯したならば救いを失う危険がある。終末時には、聖霊の激しいわざがなされる一方で、特にきびしい霊的惑わしが許されるからである。(主の御声に聞き従う歩みをしない人々もリバイバルの働きに用いられるが、途中でズレたり高慢になったりして器から落とされると考えられる。)

 したがって、私たちのたましいが取り扱われて肉に完全に死ぬ(ガラ2-20)という事は、主に用いられる程度の差こそあれ、どうしても通らなければならないステップである。

 そして、その後、再び主のわざが起こり始めてくるようになる。
 そのとき、外部の影響や、特に、その人の弱点だった所への霊的攻撃に動じることなく、再び単純な信仰によって、本格的な働きを成すことができるようになる。(複雑を経て後の単純)
 知的過ぎたり、人間的に複雑にしているような段階ではわざは起こらない。


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