(2) 福音書中の主のわざの重要性


 ”器や奇跡をあちらこちら追い回すよりも(これも悪いことではないが)、聖書から主イエスの行動をしっかり見るほうがずっと早く成熟する。” これは、預言者リック・ジョイナーのウィークリーメッセージ(01,8/27)のことばである。
 多くの人々が、賜物(特に、御霊の賜物)よりもそれを与える方のみをまず求めなさい、と言っているが、実はこれは聖書的ではない。なぜなら、主のわざが私たちを通して明らかにされることにより、実に、私たちは主と親密な関係になるからである。

 聖書におけるイエス様のわざについて、その前後の変化に注目してみよう。

 たとえば、サマリヤの女が心を開いたのは、イエス様が知恵・知識の賜物を行使した直後であった。(ヨハ4−16〜20) そして彼女は、次に語られたイエス様のあかしを受け入れ信じることができた。それだけではなく、他の人々に、この知恵・知識のわざの事をあかしする言葉で言いふらしたのである。
 5人も夫を換えたことをうしろめたく思い、わざわざ暑い昼の12時頃の誰もいない時に水汲みにきていたほど、人々と会いたくなかったのに、人々を恐れることなく大胆に、最後にはもういいと言われるほどに、いつのまにか村中に伝道し、村中の人々が皆信じてしまったのである!。
 彼女は、自分をじっと見つめる状態から、主のわざに視点を移し、そして、わざをなさった方に注目したのである。
 (縛りと恐れからの解放。平安と救いの実。 : 主の働きは、最も不可能と思われる方法を通して、無から有を生むようにして行われる!。)

 いやしの記述が聖書の中に多くあり、また、いやしが今のところ実際に多く起こる奇跡である。(もちろん、今後は、預言・夢・幻が多く用いられるようになるが。) それは他の賜物よりも人々が神の愛を感じることができ、人々が内側から変えられる動機となるからである。私たちが、”神の同情”が現れるまで祈り続けるならば、その時いやしが起こる。そして、次に語られる福音や教えのことばが人々の心に入るのである。

 したがって、主のを表すためには、具体的な聖霊のを求めなければならないことになる。


 ・ 「「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。 ・・・ 私のうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。 ・・・ 」」(ヨハ14−7〜11)
     ・・・ わざを体験することは、信仰による御父の体験である
        わざを見て信じても良い
       ( ⇔ トマス・・・イエス様の体のしるしを見なければ信じないと言った・不信仰な態度)
        使徒のピリポは、計算高く、知的な人の代表

 ・ 「「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」 ・・・ そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。 ・・・ 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。」(ルカ5−1〜11)
     ・・・ 第一の使徒ペテロの召命の時、初めからわざがなされ、弟子たちはそれを見たことによって主に従って行った。イエス様のわざの多さ(ヨハ21−25)。
        (旧約)聖書の土台のあるイスラエルで。

 ・ 「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたのではなく、御霊と御力の現れでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」(Tコリ2−4、5)
     ・・・ 聖書の土台の無い異邦でも。
        主のわざを体験することが、試練に遭った時に、唯一の信仰の支えとなる。


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