2) 神を愛するという事(十字架の心);
”愛”という言葉は、よく用いられる割に、正確に定義するのが困難な言葉である。
一説によると、愛ということばには6種類もの分類があるといわれている。
牧会の為の中心的なみことば、すなわち、イエス様がペテロに群れをゆだねる時質問されたことばには、アガペーとフィレオーの2種類が述べられている。(ヨハ21-15〜19)
(主が用意した朝食を食べて、リラックスした状態で、イエス様はペテロに語られた。)
ペテロは3度もイエス様を知らないと言ったので、身のほどを知り、へりくだって、フィレオー、すなわち、主に見返りを期待して愛すると、慎重に答えている。牧会の基本はイエス様を愛する事である。特に、生まれたばかりの愛を受けるばかりの幼な子を育てることは、その中の誰よりもイエス様を愛する事が要求される。(ヨハ21-15)
そして、イエス様がペテロに殉教を予告され、「私に従いなさい」ということばで締めくくられた。
”神を愛する”という事は、”神に従う”という事である。
預言の賜物を持っていて、あらゆる奥義と知識に通じ、山を動かす完全な信仰を持ち、財産全部を分け与え、また、殉教したとしても、愛が無ければ、主の前に何の価値も無い。(Tコリ13-2、3)
人間的動機で犠牲的奉仕をしても、本当の愛とは言えないことに注意。カインでさえも主にささげものを持ってきた。
預言あるいは賜物の霊は、あまり品性によらずに注がれ、コリント教会のようにその働きが現れるには現れる。イエスの名は未信者でも用いる事が可能である。しかし、主のみこころの導きの中で行なわないと、次第に逆の霊が働くようになる。(使徒・預言者のカバリングの元、教会や神学校の権威・秩序、主に強く語られて、など) そして、極端な場合、不法をなす者とみなされ主から切り離される事になる。その見分けのポイントは、品性の実を結んでいるかである。(マタ7-15〜23) (悪霊でさえもある程度見通しがきく。)
イエス様を裏切ったイスカリオテ・ユダにも御名の権威が与えられ、他の弟子たちと共に主のわざを行ない主を宣べ伝えていた。しかし彼は、初めから一貫して世のことを考え、イエス様の言う”神の国”について全く悟らなかった。そして頻繁に金入れから盗むようになったのである。
イエス様はユダが裏切り者である事を御父に示され預言的に知っていたが、愛の御性質のゆえに、彼が悔い改める事を最後の最後まで期待していたのである。(パンをぶどう酒に浸して与える行為は、その座の主賓に対する行いであった。)
パウロはコリント人への手紙・第一・12章では、教会における御霊の賜物について、14章では預言について、そしてその間にある13章では愛について述べている。すなわち、賜物の行使には、品性が中心になければならない。(特に、預言の勧めの前に愛が語られている事に注意。) ”愛”とは、”キリストの品性”の事である。(Tコリ13-4〜7)
そしてそれは、主の御声に従う歩みの中で練り清められていく。(ガラ5-25)
* パウロのへりくだり;
AD46 先輩の使徒たち (ガラ1-17)
使徒と呼ばれる価値の無い者
AD55 自分の弱さ以外には誇りません (Uコリ12-5)
((注) ⇔ あの大使徒たち(=にせ使徒たち)、
パウロが使徒である事のしるしは、奇跡と不思議と力あるわざ(Uコリ11-13))
AD62 聖徒の中で最も小さい者 (エペ3-8)
AD64 罪人のかしら (Tテモ1-15) (・・・ パウロの殉教間近の時)
(パウロは生涯を振り返り、自分は失敗者だと考えていた。(コリント教会など、彼の作った教会はことごとく衰退した。) しかし、それでもなお、主イエス様がすべてを良きにしてくださると信じていたのである。)
神を愛するとは、神の命令を守る事であり、それは重荷とはならない。(Tヨハ5-3) 重荷になっているとすれば、主に聞き従う歩みをしていないのである。ここでは特に、兄弟愛について語られている。教会内反キリストの霊(にせ預言の霊)の特徴は、兄弟を愛さない事である。
「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23-34) これは、十字架上の1番目の言葉であり、最も痛みのひどい時に発せられた祈りである。この時実に、ローマ兵(いわば反キリストの手下)および当時の宗教指導者(いわばにせ預言者の手下)という、ご自分に敵対し十字架に着けて殺す者たちに対して、とりなしの祈りをされた。これこそ、神の子イエス様によって明らかにされた、神である主の、敵をも愛する、品性の現れの頂点である。(十字架の心) それゆえ、御父は、御子の十字架の死に至るまでの従順とへりくだりのゆえに、彼を全ての分捕り物と共に天の全ての王座の上に引き上げ、世々限りなく続く全てに勝る栄光をお与えになった。
”十字架の力”は、神の力の中で最も優れ、最も強いものである。そして、終末の時代に生かされている私たちに、特別のチャレンジを与えている。一粒の麦となって殉教したクリスチャンの後のリバイバルは歴史の中で特別な主の栄光を現している。(キリスト者の血は種(ローマ) ・・・ 迫害し殉教者が出れば出るほど信者が増える。(キリシタンの時代にも))
罪人を愛する伝道者、自らを全てささげ尽くす預言者・殉教者などは、十字架を負う使命の典型である。
いまだに主は、「私は渇く」と言われ、産みの苦しみをしているのである。
イザヤ書53章の幻こそ、まさしく、われらの主、神の姿、また、父なる神のこころである!。