2. 賜物の訓練の動機付けについて
今、預言の通り、日本に聖霊様の雨が、随所に降り始めています。そして、主の臨在のある環境での賜物の訓練は有効です。(ある教団のように主の臨在の無い所で無理やり賜物の訓練をする事は律法主義ですが。)
聖霊様のバプテスマだけでは、力の尺度で赤ん坊です。賜物を求め、主の軍隊としてその武器を磨き、訓練していかなければならないのです。
「私はヤコブを愛し、エサウを憎んだ」 (ロマ9:13)
・・・ ヤコブは手段を選ばず兄が所有する長子の権利を奪い取りました。しかし、神様はヤコブの卑怯な方法や欲張りの動機ではなく、アブラハムやイサクにあった、主の臨在、力、賜物、権威を渇望し、そのためにはどんな事でもする、そのような”心”を愛された事を言っているのです。
人の創造の時から、神様はご自身の性質と力を分かち合うことをいつも願っておられました。
ヤコブは、異教の地のラバンの所で、十字架の幻を示され、それに従った結果、ヤコブの羊が多いに増える祝福を得ました。
また、王権はユダを離れませんでしたが、ヨセフは夢の示しを握りつづけていたので、エジプトで総理大臣になりました。(日本人はエフライム?)
一方、聖書の中で神が誰かを”憎む”と名指しで書かれているのはここだけです。エサウとは、聖霊の賜物に熱心な人たちを変人扱いし、危険視し、そのようなものに高い価値観を置かない無関心な人々のことを言っています。
エサウの孫のアマレクは、カナンの地ではなく荒野にいる時点で一番先にイスラエルの前に現れた敵であり、世々に渡って主と主の民の敵である聖絶の民です。このとき、モーセは”礼拝”によって戦いました。(出17:8−16)
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。 ・・・ 子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。 ・・・ なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないでしょうか。」 (ルカ11:9−13)
この有名なみことばは、文脈より、”聖霊様の現れ”について、特に、求めなさい、捜しなさい、たたきなさいと言っているのです。 御霊の賜物をかなり無秩序に用いていたコリント人の教会に対し、パウロはさらに熱心に(熱烈に)求めなさいと言っていました。
マタイの福音書の並行個所にあっても、旧約聖書にある神の要求(律法と預言者)を満たして余りあるのは、唯一聖霊様によります。(マタ6:7−12、ロマ8:4)
癒し、あるいは、人生や事業などの回復を受ける時、聖霊様が働いて良くなった所を積極的に「捜す」と、早く良くなります。逆に悪い所を捜すと悪くなります。
また、御霊の賜物を熱心に求める事によって悪霊を受けるような事は無いと言っています。求めるならば、求めたものと多少違っていても、必ず神からの良いものを受けます。(もし賜物の訓練でおかしくなったのであれば、救われる以前の癒されていない傷に働いたか、きわめて律法的な環境で新たに傷を受けたかのどちらかです。)
「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし、牛の力によって収穫は多くなる。」 (箴14:4)
人はきれいに整頓された状態を好みますが、神様は必ずしも型にはまらない命を愛されます。牛舎のような汚さという犠牲を払って、神の国における成長と増加が行なわれます。命が生まれる出産の時もまさにそのようです。
神の働きにおけるどの分野においても、信仰によって歩むことが必要です。未成熟なレベルでの働きを喜んですることができないなら、私たちはいつまで経っても、成熟した預言や癒しを体験することは無いでしょう。またそのためには、成長する機会が十二分に与えられなければなりません。
私たちは、まず貧弱な方法であっても始める必要があります。大切な事は、とにかく始めるということです。早く始めるほど、早く成熟へと向かって行きます。
「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。」(イザ42:3)
ミニストリーをする立場、あるいは、人々を管理する立場にあって、過去において傷ついた人たちに厳しい態度をとらず、最低の段階からでも希望をもって、彼らが再び回復するように励ましを語っていかなければなりません。神様は、私たちの罪の状態や行ないや賜物如何によらず、値無しに、私たちの存在そのものを愛しています。(もしすぐれた賜物の現れによってのみ人々に尊重されるならば、その人の拒絶の傷は残ります。) そして、神の愛のメッセージの一部として、預言があります。このように、イエス様がされたように、謙遜をもって奉仕をしていかなければなりません。
エリヤは預言者の鏡のように言われていますが、憐れみ、忍耐、贖いの心に欠けた所があり、恵みの時代、すなわち新約教会の時代にあって、決して模範としてはいけない部分があります。(ルカ9:54、55) また、モーセのように、いかにも神様が怒っているかのように語ってはいけません。(民20:10) これらの事は、主の主権により、時代が変わってから成就する事です。(黙11:3)
(参考) にせ預言者の起源について:
にせ預言者とは、もっぱら本当の預言を用いながら、預言や賜物にふさわしい人格がないために、破壊的な結果をもたらす人たちのことです。
ただし、注意しなければならないのは、訓練中の未成熟な預言者の多くはにせ預言者に見えると言う事です。賜物の訓練をする時、管理者は、未熟な預言者たちの芽を摘み取ってはなりません。(保守的な日本では尚の事です)
たとえば、人々の罪が示される預言については、罪を暴いて裁くためのものではなく、敵がその人に計画した計画が成就しないようにとの目的で主が示されるものです。預言する動機は常に愛でなければなりません。
管理者は、愛と忍耐と知恵をもって対応していかなければなりません。
しかし、どうしても有害な、にせ預言者になる資質というものがあります。
「彼らはカインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、コラのようにそむいて滅びました。」(ユダ:11)
ユダ書は迫害と迫害の中間期に書かれ、この時多くの異端、にせ預言者が現れました。
カインには、自分自身の”かたくなな意志”があり、それは多くの罪の根です。これは、ルシファーにも共通して見られるもので(イザ14:12−15)、賜物を、神の方法ではなく、自分自身の方法で行使し、神から拒絶を受けた時、周りの人々を責め、破壊するものです。強烈な自己意志、怒り、憂鬱が、自己憐憫に変わって他人を責めるようになる時、それは霊的な成長を最も妨げるものとなります。追放の結果、カインのように荒野の放浪者、星のようにさまよう人々になります。
バラムについて、かつて主の預言者だったバラムは、富と世の栄光の誘惑によって、結局占い師として悲惨な死に方をしました。(ヨシュ13:22) 特に注意すべき点は、過去に拒絶を受けた経験があると、1.人から認められる事を過度に求めるようになる、2.性的な誘惑に陥りやすい、があります。人々からの評価と栄誉を求めるため、メッセージを変えてしまうのです。
コラが、モーセよりも大きな能力や賜物を持っていたとしても、その時神が選ばれた指導者ではありませんでした。真の召しと違う働きをしている場合は特に注意しなければなりません。(リック・ジョイナーはこれをにせ預言者としている) 大切な事は、コラがモーセに反逆した事により、主に反逆したという事です。
これら3つの特性のどれかを有していても、旧約よりも優れた契約の新約時代にいる私たちは、大手術と悔い改めとの後に正しく用いられるようになります。もし悔い改めなければ、イエス様が警戒するように言われた、”終末のにせ預言者”になってしまうことでしょう。
しかし、にせ預言者の出現を恐れて、霊的な訓練をしないならば、もう一方の極端、土台の半分が無い家となって、リバイバルに参加できず、終末の困難の時倒れてしまいます。(エペ2:20、マタ7:24)
参考文献: スティーブ・トンプソン著 「健全なる預言の働きを導入する方法」 マルコーシュ