3. 収穫のための魚網と御体の一致 ・・・ 教会論



 主は、大いなる刈り取りを前に、収穫のための、大きな、霊的な”魚網”を備えておられます。魚網は、主の民の協力の度合い、教派を越えての主の民の交わりの強さに応じて、大きく強く用いられます。現在、御霊によってクリスチャンどうしが強力に結び合わされつつあり、あらゆる面で結びつきが強められていきます。エペ4:15−16の「体全体」とは、「超教派的な一つのキリストの御体全体」のことをも言っています。(*1)


 御霊は、牧師たちどおし、預言者たちどおし、使徒たちどおしを、お互い固い絆で結ばれるようにし、一人一人のクリスチャンたちも、教理上の強調点を異にする教会を訪ね、お互いの交わりを持つようにされます。
 主は、平信徒のクリスチャンたちによって、教会間の壁を取り壊しつづけます。これは聖霊様による働きで、誰によっても押しとどめられる事はできません。
 むしろ、この、聖霊様による教会一致の流れに逆らい続ける牧師や指導者は働きの場を失っていきます。 もちろんこの一致は”人間的な一致”ではなく、リバイバルが始まると、”教理上の一致”や”人間性に引かれた”などという理由で手を取り合っている人たちの輪は、あっけなく崩れ去ってしまいます。 イエス様に選ばれた11使徒のように、考えを異にする人たちで、主によって争いを避けるようになった人たちが、人を捕る網を作ったり、破れを繕い直したりします。

 「聖書のどこにも、御体なる教会の方針に従わない人に気をつけるようにという戒めの言葉は書かれていません。 聖書に記されているのは、かしらなるキリストと結びついていない人たちに気をつけるようにという警告です。
 ”権威に従う”という流行の教えに従うと、人はかしらなるキリストとの交わりが途絶えたままでも、”正当に”、御体なる教会の一員になれることになってしまいます。(*2) 

 しかし、もしかしらなるキリストと正しい関係が結ばれているなら、私たちは、御体なる教会にも正しく連なっているのです。 たとえ、多少教会の教えに反することをしてしまったとしても、あるいは、必ずしも教会の教えがすべて正しいとは思っていないとしてもです。」 (リックジョイナー著:「収穫」p164より) (*3)

 ”支配の霊”を持つ人たち(支配の霊だけでなく”屈服の霊”を持つ人々も(これを”従順”と誤解している人も多い))は、真実の神の働きに対して、最後まで最大の障害となり続けます。(*4)
 (しかし、教会内の霊的な動きを”支配”しなくなると、その代償として、神の平安に基づく、本当の霊的権威が与えられます。)

 リバイバルが始まると、非常に多くの人々の罪が贖われ、教会はこの事を喜びます。しかし、これらの新しく加わった人達は、さまざまな問題を抱えたまま教会に導かれて来るので、牧師や信徒は非常に頭を悩ませる事になります。このとき、自分で重荷を負うのではなく、主のくびきを負うこと(主の御声に聞き従う。主の直接牧会)を学ばず、主の安息の中で心を休ませることを知らない人達は、あまりの重荷のゆえ押し潰されてしまいます。(*5)


 歴史上の刷新運動は、プロテスタントの福音から、福音主義へ、そしてペンテコステ運動、カリスマ運動へと導かれ、それぞれの霊的刷新運動の当事者たちは、自分たちこそ”全き福音”を手にしたと考えました。しかし、使徒的な働きが全教会内に十分によみがえるまでは、「福音」に対する私たちの理解十全なものとはなり得ません。教会内で再び”預言の働き”が回復するのに従って、教会に真に使徒的な信仰の幻が与えられるようになります。
 導きとご命令とは、ますます、ただ聖霊様のみの主権に委ねられていくようになります。


 *1) 部分ではあるが、FGB、VIPなどの全国ネット(全世界ネット)の伝道団体は、信徒が運営をし、海外からの器を招いて集会を開くなど、超教派的な働きを活発に行なっている。また、IHOPなども超教派団体である。

 *2) 筆者が以前住んでいたN県の福音系のD教団のS教会で、長い間教会の役員をつとめていた、教会に忠実だと見られていた人が、実は救われていず、脱会後、全く別の新興宗教に入ってしまった。 つまり、制度的な教会では、神と関係無く人間の政治的な能力(救われていないのに、これが賜物と言えるだろうか)によって、少なくとも形の上では教会運営ができるということである。

 *3) カインがあって、アベルがあり、エサウがあって、ヤコブがあり、サウルがあって、ダビデがあった。そしてパリサイ人があって、イエス様が来られた。また、イスラエルがあって、異邦人クリスチャンがあった。また、もしルターが当時のローマ・カトリックの権威・秩序に従っていたならば、宗教改革は成し遂げられず、5役者の牧師という職は回復しなかったはずである。また18〜19世紀の大伝道者たちも、必ずしも教会の権威・秩序に従っていたわけではない。もし教会内にわざが起こらないならば、イエス様が公生涯のうちに、このねたみによって迫害を体験されたように、いつの時代でも、主は、古びて人間的、制度的になったものを、聖霊様による常に新しいものに取って代わらされた。
 「兄は弟に仕える」、「先の者が後になり、後の者が先になる」、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れる」、「二十四人の長老は、自分の冠(王権、制度)を御座の前に投げ出した」

 *4) リック・ジョイナー著”ファイナルクエスト”の天国の記事によると、歴史上著名な、時代を超えて語り継がれるほどの宗教改革者だった人が、教会を”強制収容所”のようにしてしまったため(語り継がれているのと事実とは異なる)、天国で最下位の、座る事さえ許されない、”雲のような証人”の一人にされていた。(一方、ホームレスのアンジェロは、与えられたごくわずかな賜物に忠実であったため、天国の玉座に座っていた。)
 預言者ミッシェルコーラル師によると、日本にあって最大の敵は”イゼベルの霊”である。

 *5) イエス様でさえ、”側近の牧会”はせいぜい12人まで。イエス様は、旧約聖書を良く知っている弟子たちに教え、非常に多くの奇跡としるしを現わし、また、弟子たちにしるしを行なう権威を授けられたが、弟子たちの品性の整えに3年半もかかって尚不十分であった。
 一方、”聖霊様による直接牧会”の中心ポイントは、何よりもイエス様を愛する事(ヨハ21:15−)であり、主を礼拝するだけではなく、イエス様との親しい関係を持って、主が語られる事一つ一つに聞き従う牧会である。
 時間のかかるカウンセリングは聖霊様がする。(マーク・フィサー)
 また、次から次へと子を産む、強い羊を育てるポイントは、みことば(水)を与える時に、常に十字架を見せる(皮をむいた白い枝)ことである(創30:37,38)。ぶちやまだらの羊は、イエス様の十字架の血潮が注がれた事を暗示する。ヤコブ、すなわち、聖霊の賜物を切に求めた人は、異教の地で、非常に多くの羊を所有する事になった。
 メッセージの与え方は、TVなどのメディアが牧会にあってもフル活用される。
 韓国の80万人教会のチョー・ヨンギ牧師の牧会のやりかたは、異言で祈って(内なる聖霊様が一度に神の前に願い事を持っていく、完全な祈り)、毎日山のような手紙や祈りの課題が来ても、(その中には非常に切迫したものもあるだろうが、)示されるごく一部の事をするだけである。
 使徒行伝におけるローマの百人隊長に回心者や協力者が多いのは、100人もいる荒くれの兵士達にかかわっていた現場的な経験上、その限界を感じ、超自然的なものに頼らざるを得ない環境(人数)にあったものと思われる。これは、会社の社長や政治家などにも適用できる。
 リバイバルの時には多くの人が押し迫ってくるので、イエス様が土方、ペテロやヨハネが漁師だったように、ある程度の体力が必要(「体を鍛える事も少しは有益」)。また、イエス様の平安の内に休んでたましいが回復し、嵐が起こってもどこででも良く眠れることが必須である。


    参考文献: リックジョイナー著 「収穫」(角笛出版)、「ファイナルクエスト」(生ける水の川)
       ・・・・・  教会論と終末の大リバイバルまでの預言。ただし、著書の語る中心的対象国は欧米。日本については若干異なる。(非キリスト教国が一挙に大リバイバル、東京大地震、アジア宣教


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