2. キリシタン・リバイバルから明治維新まで:
キリシタンの時代は、まさに戦乱の暗黒が極まった戦国時代の後期にあって、著しい光を放つものであった。キリストの再臨も、世界の暗闇の力がクライマックスに達した時になされる。
ただし、キリシタン・リバイバルの期間は非常に短く(ザビエルから秀吉による禁止まで38年の布教、島原の乱・鎖国まで約52年の大迫害)、結果的に、終わりの時の日本の大リバイバルに対する神の備えとしての役割を果たすものであった。すなわち、神の御前にささげられた、彼らの殉教の血ととりなしこそが、現在の私たちにとって非常に大きな相続財産になっているのである。
1543年 種子島にポルトガル人漂着、鉄砲伝来。
1549年から、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来て、平戸・島原(長崎)、山口などを経て、京都まで伝道した。多くの大名たちは、南蛮船と貿易がしやすくなるので、鉄砲欲しさに、布教を許した。しかし、信者になった大名は、キリシタン大名と呼ばれ、その領民には信者が著しく増えた。キリシタン大名には、豊後(大分)の大友義鎮、肥前(長崎)の大村純忠、有馬晴信、播磨(兵庫)の黒田孝高、摂津(大阪)の高山右近、小西行長がいた。(高山右近は後の迫害でマニラへ追放)
1569年 信長は、ルイス・フロイスに会い、京都での布教を許し、代わりに海外の情報を手に入れた。また、オルガンチノは信長の許しで、京都と安土に南蛮寺という教会を建てた。また学校を建て、文学や音楽などを教えた。当時非常に多くの人達が戦乱ですさんだ状態から逃れ、神の救いを得るために、キリスト教は急速に庶民の間に浸透していった。また、大阪・堺では貿易商人でにぎわい、南蛮船貿易が行なわれ、鉄砲の技術を取り入れ国内で鉄砲を製造し、また、茶道(千利休)などが行なわれた。
信長は1560年に桶狭間で強豪の今川義元を破った。彼は日本統一のための新しい考えを持ち、古い勢力や流通の制度を改めようとしていた。1571年に鎌倉時代からの古い勢力の延暦寺(僧兵を持つ)を焼き討ち、皆殺しし、1573年には足利幕府を滅亡させた。キリスト教を導入する事は、手こずらせていた浄土仏教勢力を弱体化させる目的でもあった。
元々、阿弥陀如来による他力本願の救済を説く浄土教と、神との契約による救済を説くキリスト教は構図的に近いものがあり、信者としては乗り換えやすい面があった。 しかし、1582年、本能寺の変で明智光秀(3日天下)に奇襲され信長は自害した。
伊東マンショら4人は、1582年長崎を出発して、苦労して3年後にローマに着き、法王と会見した。8年後に帰国した時は、すでに秀吉が1587年にキリスト教を禁止した後だった。
信長の後を継いだ足軽出身の秀吉は、1583年絢爛豪華(けんらんごうか)趣味で有名な大阪城や京都に聚楽第という城のような屋敷を建てた。他の大名たちもまねをした。(桃山文化)
秀吉は1587年に九州を平定したが、その同じ年に統治を揺るがすほどの勢力になっていたキリシタンを除く目的で、キリシタンの禁教令を出した。
26聖人の殉教(1596、 京都・大坂で捕縛 11月15日、長崎で磔の処刑 12月19日、内6人が外国人宣教師)を初めとし、キリシタンへの迫害は次第にエスカレートしていった。(磔、火刑、穴吊りの刑、海に沈める、火山に投げ込む(島原)、など) しかし、処刑の様子を見ていた人達の中から、さらに新しい信者たちが生まれたり、キリストをあかししなかった事を悔い改める者たちが多く現れ、次々と殉教していった。この時、信仰的に弱いとみなされていた人達が、他の人達の信仰を奮い立たせた事が記録に残されている。(ちなみに、”信仰の悲しみ”という言葉はうそで、ほとんどのキリシタンたちは喜びに満たされて殉教していった。”処刑の時、自分の十字架に走り寄った。”)
本家本元のローマでは法王の権威は弱くなり、信仰的にも純粋なものではなく、制度であり、かつ、相変わらずマリヤや聖人崇拝などの偶像を含んでいるものだったが、そこから遠く離れた宣教地の日本では聖霊様が働き、主から最高の栄誉が与えられる、キリストの名のゆえの殉教が成し遂げられていった。
驚くべき事は、ネロ帝やドミティアヌス帝などのローマの時代の全殉教者数に次いで、この短期間の日本のキリシタンの時代の殉教者数が史上第2位だったという事である。 もし、秀吉、家康、家光らが、懐柔策を取っていたならば、日本は有力なカトリック国になっていただろう。しかし、神は、終わりの時代に日本を用いるために、このようにされたのである。
日本が他に行き場の無い島国だった事もあるが、当時日本がいかにリバイバルし、そして徹底的に撲滅されていったかわかる。この事は、終わりの時代の日本についても言えるのではなかろうか。(反キリストによる、キリスト者を絶滅せよという干渉と、日本のツロ化(エゼ26−28章))
すなわち、殉教か、海外宣教かである。 「自分の命を守ろうと努める者はそれを失い、主のために命を捨てる者はそれを得る」 これは、どちらにも言える事である。
1600年関が原の戦いは天下統一の為の最終的な内戦になった。東西の戦力が拮抗した天下分け目の大戦争になると目されていたが、小早川の寝返りで一日で勝負がついた。
1603年家康・江戸幕府、1615年大阪夏の陣(豊臣家二代で滅亡)、1635年外国船長崎のみ、1637年島原の乱、1639年ポルトガル人の来航禁止・長崎の出島にオランダ人のみ(鎖国の完成)
徳川時代には、踏絵が行なわれたが、踏絵を堂々と行ない隠れキリシタンになる者も多くいた。東北地方は迫害がそれほど強くはなかったので多くの隠れキリシタンがいた。(伊達正宗もキリシタンらしい) マリヤ観音、墓石に十字架など。
(明治5年(1872)2月24日、キリスト教禁止の高札の撤去まで、約300年もの間キリスト教禁止の時代が続き、隠れキリシタンたちは代々に渡って潜伏して、ひそかに不完全な信仰を続けていた。開国の時、キリシタンである事を明らかにした約3000人の人が逮捕されたが、欧米からの猛烈な抗議によってキリスト教は解禁された。)
江戸時代は、徳川幕府の支配による、天下泰平の比較的穏やかな時代とされているが、同時に、非常につまらない時代であった。(全体的に平穏であったのは、キリシタンたちのとりなしで、日本が平和である事、同じ日本人どおしが争わない事などが祈られていたのではないかと思われる。)
一年おきの参勤交代(1615武家諸法度)や建物や街道などのインフラの整備・修理をさせることは、地方大名の経済力を無くすのに有効で、藩の財政を圧迫し、武力蜂起ができないようにした。江戸時代は頻繁に百姓一揆が起こり、260年の間3000件以上にもなった。これは幕府を倒す要因の一つになった。改革のたびに、武家たちはきびしい質素・倹約を命じられた。比較的元気だったのは町人達であった。
さて、ペリーなどの来航によって、日本は泰平の眠りから覚める時が来た。鎖国によって江戸時代は軍事力も、技術も文化的なものも、何もかも停滞していたのである。
ペリー浦賀に来航(1853)。翌年、アメリカに強制されて1854年日米和親条約
この頃、再び天皇に国家の主権を持たせるという尊王思想が起こり、外国からの勢力に対抗するという、尊皇攘夷になっていた。1858年伊井直弼がかってに修好通商条約を結んだ為、尊皇攘夷派を怒らせ、桜田門外の変(1860) しかし長州(山口)や薩摩(鹿児島)は、外国の軍事力の強さを知り、尊王倒幕論を主張した。そのため幕府は1867年に長州征伐を行なおうとしたが、これはかえって薩長を同盟させ倒幕力を強めた。
1869年(明治一年)慶喜 大政奉還、しかしそれでは収まらず、薩長土肥(土佐(高知)、肥前(佐賀))の軍勢(官軍)は京都で徳川家を破った。 官軍は天皇を連れて江戸に向かい、江戸城が無血で引き渡され新しい皇居となり、江戸は東京と改められた。
明治政府は、四民平等(1869)、国民皆兵(1872)を定め、それに対する不平氏族が政府から脱退し、元薩摩藩西郷隆盛らの抵抗があった。(西南戦争)
板垣退助らの自由民権運動により1890年第一回総選挙が行なわれた。1889年当時のプロシア(ドイツ)を手本に、憲法が発布された。
明治時代は、富国強兵をスローガンに、製鉄(八幡製鉄所)、造船、炭坑、製糸などの官営工場が作られ産業が急速に発展していった。かつて秦氏の末裔の羊氏のいた群馬県に作られた富岡製糸工場は、士族の娘などが実習し、全国の工場に技術を伝えた。国力を強める為に、農村の娘などが安い賃金で長時間働かされた。(女工哀史)
明治政府は、政府内部の話し合いで、日本も欧米に倣ってキリスト教を国教にしようという話まで出たが、結局、新たに設立する新形式の神道を国教にする事にし、国家神道の構築が進められ、天皇も仏教から神道に改宗させられることになった。(和魂洋才) 欧米の列強がもっと強ければ、キリスト教国になっていたかもしれない。
しかし、明治天皇個人はキリスト教を重要視し、日本の古代神道を調べさせ、多少の行き過ぎもあったが、多くの状況証拠によって日本人のルーツがユダヤ人である可能性が高い(日ユ同祖論)とみなしていた。そして、明治天皇の内親王・仁(しのぶ)妃殿下の長男である(すなわち孫の)小林
隆利(たかとし)氏を、キリスト教の牧師にした。ある雑誌への小林氏へのインタビューによると、明治天皇は彼の母親に、”私は天皇の権限で日本という国を調べた結果、日本は神道である。しかし神道は本来ユダヤ教である。”と言ったそうである。(*)
日本に入ってきた、ドイツやアメリカからの伝統的キリスト教は、多くは知識人の間のみで伝えられ、そのキリスト教精神は文化に多少の影響をもたらしたが、その多くは知識だけにとどまり、カリスマなどの教理は無く、そのため一般庶民にインパクトをもって広く浸透するようなことは無かった。
(ヨーロッパではキリスト教は合理主義によって形骸化状態。アメリカにおけるペンテコステ・リバイバルは1900年にやっと始まり、20世紀の初期にはカリスマ信仰は異端視され迫害されていた。 第二次大戦後の日本への福音宣教も、この時点ではまだ伝統的な福音派によるもので、明治維新の時と同様にキリスト教化は不振であった。カリスマ信仰が入ってきたのは最近の事であるが、主の御声に聞き従っての宣教か、と言うとまだまだである。)
* 大阪の堺市鳳において牧会されている牧師
小林牧師は、今年73才(96年時点で) メシヤニックの働きをもされている。
師によると、八咫(やた)の鏡のレプリカは現在、皇居にはなく、明治神宮に移されたそうである。また、皇太子が割礼を受けている。昭和天皇は戦争開始の内閣決定に署名を拒否されたが、軍人に取り押さえられて無理矢理はんを押させられた。マッカーサーにはじめて会見したときに、「わたしが『罪』(この言葉を使った)だから、わたしを処刑して、国民を許してくれ。」と述べた。
昭和天皇がクリスチャンであったことは、彼が、小林隆利牧師の母(仁)と一緒にクリスチャンの家庭で育ったこと、定期的に牧師を宮中に招いておられたこと、侍従長を始め
周囲をクリスチャンで固めていたこと、平成天皇のためにクリスチャンの家庭教師(女性)を招いたこと、音楽の教育にカリスマ派のクリスチャンを招いていたこと、戦後マッカーサーに宣教師と聖書を要請したことから見ても明らかである。クリスチャンの病院活動(聖隷ホスピス)に対し下賜金を数度にわたって与えた。
平成天皇は、現在、牧師を招いて宮中で聖書講義を受けておられる。(どうぞ、お祈り下さい)
また、三笠宮(オリエント学を専攻する学者)も天皇家の起源について興味を持って取り組んでおられる。