経済の祝福の みことば
                                             2018年10月25日



  1. 基本的な 経済の祝福の みことば:


  ● マタイ6:33

   「33 ζητειτε(ゼーテイテ、you be seeking探し求め続けなさい) δε(デ、yet) πρωτον(プロートン、first、before most) την(テーン、the) βασιλειαν(バシレイアン、kingdom) του(トウ、of the) θεου(セオウ、God) και(カイ、and) την(the) δικαιοσυνην(ディカイオスュネーン、righteousness、義・正義) αυτου(アウトウ、of Him)  και(so) ταυτα(タウタ、these) παντα(パンタ、all) προστεθησεται(プロステ セースタイ、shall be being added加えられ続ける) υμιν(フューミン、to you)」
   「33 But seek ye first the kingdom of God, and his righteousness;  and all these things shall be added unto you.」(KJV)


   「しかし、あなたは まず第一に、 神の王国と 主の義とを 探し求め続けなさい。 そうすれば、これらのすべてのものは 付け加えて与えられ続けます。」 (マタイ6:33)


  ● マタイ7:12 (黄金律)

   「12 παντα(パンタ、all) ουν(オウン、then) οσα(ホサ、whatsoever、何であれ) αν(アン、ever) θελητε(セレーテ、you may be willing、will=望む・欲する) ινα(ヒナ、that) ποιωσιν(ポイオーシン、may be doing) υμιν(ヒューミン、to you) οι(ホイ、the) ανθρωποι(アンスローポイ、humans) ουτως(ホウトース、thus) και(also) υμεις(ヒュメイス、you) ποιειτε(ポイエイテ、be doing) αυτοις(アウトイス、to them) ουτος(ホウトス、this)  γαρ(ガル、for) εστιν(エスティン、is) ο(ホ、the) νομος(ノモス、Law、律法) και(and) οι(ホイ、the) προφηται(プロフェータイ、prophets、預言者たち) 」
   「12 Therefore all things whatsoever ye would(will=欲する) that men should do to you,  do ye even so to them:  for this is the law and the prophets.(KJV)

   ・・・・・ 「積極的にしなさい」の意   cf. 大乗仏教の、 ”自分にしてほしくないことは、他人にもするな” よりも積極的です。 (浄土教はマタイの福音書の山上の垂訓から多くを引用している)
  また、「律法と預言者(複数)」とは、 旧約聖書 のことであり、旧約聖書全体は この黄金律に要約できる という意味。(マタイのみ記述)


   「それゆえ、何事もすべてのことについて、自分が人々にしてほしいと望むとおりに、 人々にもそのように(積極的に)しなさい。」 (マタイ7:12(黄金律) = ルカ6:31)



  (あかし)

   アメリカで自動車が普及し始めた頃の実話。 内陸部の砂漠地帯で 道路は整備されていましたが、ガソリンスタンド以外はこれといって水道や道の駅のようなものはありませんでした。 ある小売店の店主は、ふと思いつき、飲料水をタダで提供することにし、大きな道路沿いに いくつも看板を出しました。 ”水あります。 無料” ただそれだけの。 アメリカにありがちなけばけばしい宣伝などの、それ以上の宣伝文句は一切入れないで。
  人々は(当時、アメ車はエアコンが弱い、あるいは エアコンがないので、) 砂漠の暑さに参り、この看板を見て店に押しかけました。 人々は無料の水を十分飲んだ頃、ふと横を見ると、清涼飲料水や軽食類が置いてあるので、皆こぞって買いました。 店の売り上げは大きく伸び、その後、このタイプの店は全米に広がっていったそうです。


   キリスト教精神に基づいて聖隷福祉事業団を創設した長谷川保氏は、戦前の1930年浜松市で結核患者のための医療施設(ベテルホーム)を開始し、キリスト教の信念で事業をおこした人でした。 彼は、結核患者のための医療施設をつくり、看護婦の養成所をつくり、日本で最初のホスピス(末期がんなどの緩和ケア)をつくりました。
  「何事でも、人々からしてほしいと望むことを、人々にもその通りにせよ」(マタイ7:12、黄金律) が、彼の座右の銘で、いつも告白していました。

  それらの事業はいずれも、当時は経済的には全く成り立たないと言われ、また 結核の療養所ということで地域で嫌われ追い出されそうになりました。 しかし、昭和天皇から下賜金(S14年 1939年のクリスマスに5000円、さらに同年 皇后からの内帑金を基金に「財団法人結核予防会」が設立)をいただき、事業はやがて成り立つようになり、戦後は、当時未整備だった法律も整備されるようになりました。 後に衆議院議員(静岡3区、1946-1966年の7期に渡って)となり 生活保護法などの福祉に関する法律の制定に尽力しました。



   (筆者のあかし)  2005年から、本当に探し求めて、葛飾区と江戸川区のそれぞれのある図書館から、論理学と数学の本を見つけ、自然啓示からの「神の三位一体」のあかしとなることを発見し、それを この”神のホームページ”に順次載せていきました。 すると 2006年春のある朝 (何の予告もなしに)父親から電話があり、突然 遺産の分け前の一部ををくれる(数百万円)と言うのです。まだ生きているのに!! ”いらないのか?”と言われ、”いや、いる”と答え、そこで口座番号を伝えると すぐ振り込んでくれました。そのお金で 今もアトリエとして使っている場所を確保しました。

  次に、2009年7月に、「経済を祝福する。 置き忘れてきたものが回復する。」 という預言をいただき、その数か月後に、ずっと前の1996年に N県の知人に預かってもらっていた 実験道具と薬品類を確認すると それらがまだあるとのことでした。N県では、2度の大地震(2004年、2007年)を経たにもかかわらず(本屋などガチャガチャになったそうな)、それらは無傷のままで保存され、彼らは(こちらが送料を払うと言ったにもかかわらず、7箱・台所用品として)元払いで送ってくれました。それらは 今ではなかなか手に入れにくい貴重なものとなっています。 そして”実験道具の実験室”のページに、楽々 載せることができました。
  神の国と 主の義(= この場合 「自然啓示」による、御子イエス様の神性・主の三位一体のあかし)を探し求めると、確かに主は、それに付け加えて すべて与えてくださいました。 主に栄光をお返しいたします。





  2. 御声を聞くこと、敵を愛する事:


  ● マルコ4:24

   「24 και(カイ、and) ελεγεν(エレゲン、He said) αυτοις(アウトイス、to them) βλεπετε(ブレペテ、be looking) τι(ティ、what) ακουετε(アコウエテ、you are hearing) εν(エン、in) ω(ホ、which) μετρω(メトゥロー、measure) μετρειτε(メトゥレイテ、you are measuring) μετρηθησεται(メトゥレー セーセタイ、shall be measured) υμιν(ヒューミン、to you) και προστεθησεται(プロステ セーセタイ、shall be added) υμιν(to you) τοις(トイス、the ones) ακουουσιν(アコウオウシン、hearing) 」
   「24 And he said unto them, Take heed(心に留める) what ye hear: with what measure ye mete(与える、割り当てる), it shall be measured to you: and unto you that hear(*) shall more be given. 」(KJV)
    *  アレキサンドリア型写本では抜け

   ・・・・・ ”量るとおりに量られる”、というように憶えていますが、 むしろ、まず主が語りかける言葉を 「聞く」 ということにポイントがあります。
  「たとえ全財産をささげても、愛がないなら役に立たない。」(Ⅰコリント13:3) この「愛」とは、 主への聞き従いです。 マリアは、「主に聞く」という良いほうを選びました。


   「そして彼らに言われた。 あなたがたが聞くことに心に留めなさい。 あなたがたが 与える量りによって、あなたがたも量られる。 そして (*)聞いているあなたがたに、さらに与えられる。」(マルコ4:24)

   ∴ 「聞いて」与えると、圧倒的な見返りがある というのが、このみことばの約束です。



  ● ルカ6:27-38  (38節が結論)

   「27 αλλ υμιν λεγω τοις ακουουσιν αγαπατε(アガパーテ、be ye loving、(アガペーの愛で)愛していなさい) τους(トウス、the) εχθρους(エクスロウス、enemies、敵を) υμων(ヒュモーン、of you、あなたの)  καλως(カロース、ideally、理想的に・最高に) ποιειτε(ポイエイテ、you do、あなたはしなさい) τοις(to the) μισουσιν(ミソウシン、hating) υμας(ヒュマス、you) 」
   「27 But I say unto you which hear, Love your enemies, do good to them which hate you, (KJV)
   「しかし、今 聞いているあなたがたに言います。 あなたの敵を愛しなさい。 あなたを嫌う者たちに良くしてやりなさい。」 (ルカ6:27)

   「31 και καθως θελετε(セレテ、you are willing) ινα ποιωσιν(ポイオーシン、may be doing) υμιν οι ανθρωποι και υμεις ποιειτε αυτοις ομοιως 」
   「31 And as ye would that men should do to you,  do ye also to them likewise.」(KJV)
   「人々に自分がしてほしいと思うとおりに、 人々にもそのようにしなさい。」 (ルカ6:31)

   「32 και ει αγαπατε τους αγαπωντας υμας ποια υμιν χαρις(カリス、grace、大いなる恵み) εστιν και γαρ οι αμαρτωλοι τους αγαπωντας αυτους αγαπωσιν
   33 και εαν αγαθοποιητε τους αγαθοποιουντας υμας ποια υμιν χαρις(カリス、grace、大いなる恵み) εστιν και γαρ οι αμαρτωλοι το αυτο ποιουσιν
   34 και εαν δανειζητε παρ ων ελπιζητε απολαβειν ποια υμιν χαρις(カリス、grace、大いなる恵み) εστιν και γαρ οι αμαρτωλοι αμαρτωλοις δανειζουσιν ινα απολαβωσιν τα ισα 」
   「32 For if ye love them which love you, what thank have ye?(△) for sinners also love those that love them.
   33 And if ye do good to them which do good to you, what thank have ye?(△) for sinners also do even the same.
   34 And if ye lend to them of whom ye hope to receive, what thank have ye?(△) for sinners also lend to sinners, to receive as much again. 」(KJV、△)

   「自分を愛するものを愛したからといって、 あなたがたに何の 大いなる恵み(grace)があるでしょう? 罪人たちも愛しています。
   自分に良いことをしてくれる人に 良いことをしたからといって、 あなたがたに 何の 大いなる恵み(grace)があるでしょう? 罪人たちでさえ 同じことをしています。
   返してもらうつもりで 人に貸したからといって、あなたがたは 大いなる恵み(grace)を受けることを期待できるでしょうか? 貸した分を取り返すことは 罪人も行っています。」(ルカ6:32-34)

   ・・・・・ 「(何の)良い所(が)」× → 「(何の)恵み・大いなる恵み(カリス、grace)(が)」 ○ と訳すべき。 つまり、こうしなければ大いなる恵みが与えられるのに、という意味。

  (結論)
   「38  διδοτε(ディドーテ、give) και(カイ、and) δοθησεται(ドセーセタイ、shall be given) υμιν(ヒューミン、to you)  μετρον(メトゥロン、measure、量り(重さを計る計量器)・(長さを測る)物差し) καλον(カロン、ideal、理想的な・最高の) πεπιεσμενον(ペピエスメノン、have been squeezed、圧迫する・詰め込む) και σεσαλευμενον(セサレウメノン、have been shaken、揺すり入れる) και υπερεκχυνομενον(ヒュペレクキュノメノン、being over out poured、over flowing、あふれる) δωσουσιν(ドーソウシン、they shall give、彼らは与えるだろう) εις(エイス、into) τον(the) κολπον(コルポン、bosom、懐(ふところ)、胸) υμων(ヒュモーン、of you)、 τω(to the) γαρ(ガル、for) αυτω(アウトー、same) μετρω(メトゥロー、measure) ω(ホー、to which) μετρειτε(メトゥレイテ、you are measuing、あなたが量る) αντιμετρηθησεται(アンティメトゥレー セーセンタイ、 shall being instead measured) υμιν(ヒューミン、to you)」

   「38 Give, and it shall be given unto you; good measure, pressed down, and shaken together, and running over, shall men give into your bosom. For with the same measure that ye mete withal it shall be measured to you again.


   「与えなさい。 そうすれば あなたに与えられます。 彼らは最高の量りをもって、あなたの ふところに 押し込み、揺すり入れ、あふれるばかりに 与えてくれるでしょう。 あなたが量る同じ量りで、あなたは量り返してもらうからです。」 (ルカ6:38)



   ・・・・・  このルカの地上説教の箇所は、マタイの山上の垂訓の大説教に相当する箇所です。 しかし、ルカ書では、「敵を愛する」というこの主題は一貫して述べられ、なんと 最終的には 「経済の祝福」に結論されているのです。 しかも、圧倒的に頂く方法として!

   「同じ量り」と言っても、1対1の”物々交換”ではありません。 (主がシモン(葦)をペテロ(岩)と呼んだように、現実とは全く違っていても、)神様の目、主の予知の目で見て、その量り・物差しで 敵を愛してこそ、主から「大いなる恵み(grace)」を受けることができます。(たとえばマタイ(レビ)はイエス様をほぼ教師として見ていたので、使徒、教師に任命された。) このgraceとは、恵みの分が無い”物々交換”でも、少しばかりの見返りを期待する”フィレオーの愛”でもなく、 アガペーの愛によって、主から大いなる恵みをいただくことを表しています。

  残念ながら「原罪」を持つ生まれながらの人間には、この「敵を愛する」ということはできません。 良し悪しを規定する性質が どうしても人をさばいてしまうからです。 敵を愛することは人間的な思索では到底理解できないことです。 しかし、主の思いは、人間の思いをはるかに超えています。 どのくらいか? 「天が地よりも高いほどに」!(イザヤ55:9)
  そして、マルコ4:24 の箇所と合わせて、主に聞き従う歩みをするならば、多くの場合このように 敵を愛する旨のことが語られます。 十字架信仰から常にスタートすること(=常に「狭き門から入る」(マタイ7:13))を 聖霊様に教えられるならば、主が助けてくださり、聖霊様の力によって行うことができるようになります。

  大いなる働きの最初の道は、細々としたものです。 (しかしこの時 主が共にいて、見ておられます。どん底の時に 横を見ると そこにイエス様がおられます。)
  ヨセフは主から語られた直後、奴隷に売られ、さらに牢獄に入れられました。このようにエジプトの宰相(さいしょう、総理大臣)になるまでに、主のことばと逆の事が起こり2度も落とされました。 「主のことばは彼の信仰を試した」のです。 しかし最終的には、「彼に無いのは王位だけだ。」とパロに言わしめるほどの権力(=特に 経済的な権力)を手にしました。 そして自分を売った兄たちを赦し、最高の待遇で受け入れました。 この集団がイスラエルの民となりました。

  ダビデも、サウル王に迫害されて洞窟にいた時、サウルを殺す絶好の機会に上着の裾を切り取るだけで許しました。 ダビデは、サウルが「に油注がれた者」ということで、最後まで尊敬の量りでみなしていました。(Ⅰサムエル24:6) それゆえは、ダビデに尊厳の量り返しを与え、イスラエルの王として確立させ、国の守りと大いなる繁栄をもたらされました。


    主に聞いて(マルコ4:24)、 あなたの敵に対し(ルカ6:27)、 返してもらうことを考えず(:35)、 あわれみ深い心で(:36)、 さばかないで(:37) 与えるならば、 必ずあふれるほどに人々は与えてくれる、というのが、この みことばの約束です。



  (あかし)

   アズサ・リバイバルのあかし(アズサ・リバイバル): 1906年、黒人の教役者ウィリアム・J・セイムーアWilliam J Seymour、 父は黒人奴隷、南北戦争)がカリフォルニア州ロスアンゼルスの集会(小さな黒人のナザレン教会)のための招待状を受け取った。 彼が聖書学校のあるヒューストンからロサンゼルスへ遥々来て、聖霊のバプテスマと異言について一度だけ語っただけで、”異端”扱いされ、それ以降予定されていた集会から教会の門戸がすべて閉ざされてしまった。

  聖霊の満たし、異言、癒し(ガンの癒しが普通に行われるレベル)、救い(建物に入っただけで罪を悔い改める)の大いなるリバイバルが起こってからは、これらの集会に出席した多くの人たちは、米国内外の非常に多くの色々な教会から来ていた
  献金は行われなかったが、目撃者の話によるとセイムーアは人々が押し込んだ五ドルや十ドルの紙弊をポケットからはみ出させながら歩いていたということである。 働き人たちの為に食糧が日々に持ちこまれていたが、どこから運ばれてくるのか誰もたずねる者はなかった。 神がすべてを備えられたからである。そしてすべての栄光と賛美が神に帰された。

  結局セイムーアは、自分を異端視して拒絶した 反カリスマの『アメリカ福音派』という「敵」に対し、この「敵を愛する」方法により、聖書の言葉の通り「懐にねじ込まれて」十分に満たされました。(セイムーアの霊の見分け ○、天国固定)

  


     (補助的な みことば)   「貧しい者に施す者は 不足することがない。」 (箴言28:27)

  ・ 山谷伝道(日曜の夜には路上で、ホームレス伝道会と炊出・250人くらいが出席)で、あまりの献金額の多さから 7階建てのビルが建ってしまったのは、この みことばが成就した典型的な例です。 (ただし、M伝道者の見分けは ×)


  ● (追記) 貧困ののろいからの解放:  申命記28:15-(主に聞き従わないのろい)、 出エジプト20:3-6(本人 あるいは 親族・先祖の偶像崇拝の罪)、その他 主が語っておられるのに 悔い改めていない罪 などにより、本人・家系・環境ののろいがかかって、貧困から抜け出せないケース。 働いても働いても不思議と 貧乏になる、貧乏から抜け出せない、など。 (・・・ 押し入れに”貧乏神”でもいるんじゃないか?)

    「キリストは、私たちのために のろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。 なぜなら、「木(=十字架)にかけられる者は すべて のろわれたものである。」 と書いてあるからです。」 (ガラテヤ3:13)
によって、すでに御子イエス様が十字架で律法を成就され、信じる私たちの のろいを取り除いてくださったので、私たちは貧困ののろいからも解放されている身分にあります。 そして、原因となっている罪を悔い改め、貧困の霊の縛り・追い出し、家系ののろいの断ち切り、等の 霊の戦いの祈りをすれば、必ず 状況は好転します。 特に、その原因が 霊的なものであれば、大きく変わることでしょう。

  ● (追記 デレク・プリンス師)   ゼカリヤ514節で、ゼカリヤは飛ぶ巻物の幻を見ました。 巻物の両側に呪いが書いてあり、一つが盗みで もう一つが偽り誓うことです。 幻では その巻物が盗み人の家に入りその家全部が滅びるのです。 呪いとはそういうもので、特定の部分だけでなく その周りも侵されるのです。
  それからマラキ3章を見て下さい。
  マラキ3810節、「人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた、『どうして我々は、あなたの物を盗んでいるのか』と言う。 十分の一と 捧げ物をもってである。 あなたがたは 呪いをもって 呪われる。あなたがた全ての国民は わたしの物を盗んでいるからである。 わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みをあなたがたに注ぐか否かを見なさい。」とあります。
  キリスト教徒なら 皆10分の1献金をしなさい、と言っているのではありません。 新約聖書にもあるように 律法ではなく恵みによって 救われているからです。 でも恵みがあるからこそ、私達も寛大になるべきだと思うのです。 より良い約束の上に立ったより良い契約があるのですから。 イスラエルの民より少なく払って良いのでしょうか?
  でもこれは言っておきます。 神に対してケチると 呪いを招きます。 神に対してケチると、経済的にも不利になります。 献金箱が回ってくるときよく言うことですが、神は 私達のほどこしを必要とはしていません






  3. 「信仰」に伴う 経済的祝福:


  お金を超自然的に稼ぐのに、”王道”はありません。 すべてケース・バイ・ケースで、一つ一つ主に聞いて主のことばを受け取ったならば勝利です。 主は 言葉の神であり、主のことばがすべてのことを成し遂げます。(イザヤ55:11)


  ● マルコ11:22 -24

  これは、典型的な「信仰」のみことばです。

   「22 神を信じなさい」(新改訳 ×、マルコ11:22)は、直訳すると、 神の信仰を持ちなさい(εχετε(命令・2・複、 have、 own、carry <εχω(エコー))  πιστιν(faith)  θεου(of God))、 すなわち、 人の信仰ではなく、神が先導される大胆な信仰(山が動いて海に入るほどの)を持つことができる と言っています。

    ・・・・・ そのためには、ほんの少しの 神様からの言葉「からし種」)が必要です。  山のような信仰ではなく、からし種程度で十分です。 ((注) 信仰の土台は「神の言葉」です。初めの神の言葉無しで、無理やり信仰の歩みをしても 成就しないので注意。 いわゆる”成功哲学・繁栄の神学”は、神の言葉なしに(イエス・キリスト無しに)幸福を追求するという、ニューエイジの典型的な惑わしです。)

   「23 まことに、あなたがたに告げます。 だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ。』と言って(ειπη、アオ過去(瞬時過去)・3・単)、心の中で 疑ったことが無く(διακριθη、分離、区別する、 未完了過去(過去進行形)、3・単)、ただ、自身の(今)言っている(λεγει、現・3・単)通りになる(γινεται、become、現・3・単)と (今)信じている(πιστευση、現・3・単)なら、その通りに在るでしょう(εσται、it will be、未来・3・単 < ειμι)。(マルコ11:23)
    ・・・・・ 宣言したことは、現在そのようになっているとして振舞い続ける (語ること + 信仰の歩み)

   「24  δια  τουτο  λεγω  υμιν,  παντα  οσα  αν  προσευχομενοι(prayer)  αιτεισθεdesire、ask),  πιστευετε(現・命令・2・複、you believe)  οτι  λαμβανετε(未完了過去(過去進行形)・2・複、 were receiving(○)),  και  εσται(it will be、未来・3・単 < ειμι(I am)) υμιν(unto you)」


  ∴ 24 祈って熱烈に求めるものは何でも全て、(祈ったり見たり語ったりしているうちに)受け取り続けていた と信じなさい。そうすれば、それは在るようになる(マルコ11:24)


  ● ヘブル11:1

   「信仰とは、 望んでいることの 実体であり、今見ていない事柄保証書である。」 (ヘブル11:1)


  ● 詩篇1:1-3、 ヨシュア1:8、 マルコ5:28  ・・・・ 主のことばを(声に出して、根気良く)「語る」ということ

   「幸いなことよ。 悪者(不信仰の者)のはかりごとに歩まず、 罪人の道に立たず、 あざける者の座に着かなかった、その人。
    まことに、その人は のおしえを喜びとし、昼も夜も そのおしえを口ずさむ
    その人は、 水路のそばに植わった木のようだ。 時が来ると実がなり、その葉は枯れない。 その人は、何をしても栄える。」 (詩篇1:1-3)

   「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。 そのうちにしるされている すべてのことを守り行うためである。 そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。」 (ヨシュア記1:8)

   「「お着物にさわることでもできれば、きっと治る。」と (いつも)言っていたからである。( ελεγεν(エレゲン、 she said) γαρ(ガル、for))」 (マルコ5:28)

      ・・・ 神の言葉を口に出して語るとき、神が語られるのと同じ力を持ちます。 告白(confess)が、支配する。  アベルの血は 罪に定めるために叫んでいるが、 イエス様の血は、自由、赦し、贖い、いやし のために 今日も叫んでいます

     日々の生活や 事業の祝福のために、 特に、申命記28章の前半(申命記28:1-14) 、 また献金の所のみことば 「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(Ⅱコリント8:9)、を 毎日 朗読するのも良い。
    ● 基本的に、 「主は 私の羊飼い。 私は 何一つ不足することがない。」 (詩篇23:1)


  ● ルカ16:10、 ヨハネ6:5-13  ・・・・・ 小事に忠実であること: わずかなものでも、 犠牲を払った、心を尽くした捧げものを イエス様の所に持ってくると、主はそれを大いに祝福してくださる(5つのパンと2匹の魚、 2レプタ捧げたやもめ): 「増殖の祝福」 ・・・ 「祝福」の語源は 増やすこと・増殖

   「最少のものに忠実な者は 多くのものにも忠実であり、最少のものに不忠実な者は 多くのものにも不忠実です。」 (ルカ16:10)

   「そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、座っている人々に(*)分けてやられた。 また、小さい魚も同じようにして、彼らに欲しいだけ分けられた。」(ヨハネ6:11)
    ヨハネ6:7-9:   ピリポ: 計算高い人、 アンデレ: 案内者
    * 「座る」は(直訳で)「ανακειμενοις 、アナケイメノイス、横たわる」の意味。一般的な食事や 最後の晩餐の時も 給仕する者以外は皆、横になっていた。 ・・・ 「そこには草が多かった。」 より、人々は互いに比較して見るということを遮断され主との一対一の関係が構築されました。
   「彼らは集めてみた。 すると、大麦のパン5つから出てきたパン切れを、人々(男子のみで5000人)が食べたうえ、なお余ったもので 12のかごに一杯になった。」(ヨハネ6:13)   ・・・ 奉仕者にもかなりの祝福が与えられる。 かご = 背中に背負う大きなかご

  この奇跡を体験した彼らは 単に「主のいやしを見たから」(6:2)ついて来たのであり、ましてや 私たちが真剣に主の栄光を追い求めるならば、どんなにかすばらしい増殖の奇跡を 主は実現して下さるでしょうか?


  (あかし)

   ケニアで実際に「山が動いて平地になった」あかし(by.ナイジェリアのTV伝道者(アフリカ・ハーベスト・ミニストリーズ)セグン・オシナガ牧師。 クリスチャントゥデイ 2013 11/5): 注) 初めに 明々白々な「神様の言葉」があっての話です。 ニューエイジ・成功哲学の惑わしには要注意。
  ケニアのある夫人・Aさんが、主人の昇天を機会に広い土地、ただし 放牧や耕作に適さない山の土地、を相続しました。
  そのとき彼女は、マルコ11:22-23示され(① ・・・ みことばからの語りかけ)、宣教師に、「それでは、私の土地にある山に向かって「平になれ」と言えば、そうなるのですね。」と聞きました。 すると宣教師は、「とんでもない。そんなばかなことがあるはずがない。イエス・キリストはここで、本物の山ではなく、比喩として ”問題の山”について語ったのです。」と説明しましたが、Aさんはもう一度聞きました。 「でもこの聖句は、本当にイエス・キリストが語られたのですね。」 宣教師は「そうです。本当にイエス様が語られたことばです。」と答えました。
  Aさんは、家に帰るとすぐに、その日から、毎日 山に向かって 「主イエスの御名によって命じる。 目の前にある山よ、 平らになれ!」 と叫んで命令しました。
  1週間、10日と、Aさんは聖書のみことばに立って、毎日 命令を続けました。しかし、1ヶ月、2ヶ月たっても、山はびくともしませんでした。 それでもあきらめずに、毎日命じ続けました。(② ・・・ 信仰ですでに受け取った宣言を継続する)
  4ヶ月目が過ぎたある日、突然、Aさんの家に、ケニア政府の建設省の役人が尋ねてきました。 彼は言いました。「ケニアの道路建設のために大量のアスファルトが必要です。ナイロビ大学に調査させたところ、お宅の山は コールタールのかたまりのようなもので、原料としてぜひとも山を全部買い上げたいのです。」 Aさんが値段を聞くと、100万米ドルだったので、交渉して値段を上げさせ、ついに400万ドルで売却が決まりました。 それからあっという間に Aさんの土地の山は崩されて 平地になりました。


   東京の町田市に、幼稚園から大学院までを擁する総合学園「玉川学園」(昭和4年・創立)があります。創立者は、知育・徳育・体育の調和を説く「全人教育論」で知られる、クリスチャンの小原国芳師です。 玉川学園建設の数十年前に、まだ学園の土地が誰も住んでいない丘陵地帯で一面の緑だった時、彼が無一文の学生だった時に描いた絵があります。 簡単なスケッチですが、絵の下には「理想の学校」と記されています。
  繁栄を生み出すためには、主からビジョンを見せられて、それが実現したときの姿を、具体的に”心のスクリーン”に描いていなければなりません。そして成功にふさわしい言動、考え方をしなければなりません。 思いの中に将来を創造し、心の中に「まだ見ていない事実」を、見るのです。 聖書は言っています。 まだ見ていないことを、「事実」として「確認すること」が信仰です。


  ・ 韓国の純福音ヨイド教会のチョーヨンギ師も、初期~中期のパウロ・チョーヨンギの時は良かった。 米軍払い下げのオンボロ テントから始まって、ソウルのヨイド島にある国会議事堂前の一等地に 大きな教会堂を建設する時の 彼の信仰の歩みのあかしは、全世界に 「生きている信仰」を呼び起こし、大きな影響をもたらしました。 (ピョンヤンリバイバル

  * ただし、ダビデ・チョーヨンギとなった今は、(霊の見分けで、)霊的に良くなったり悪くなったりしています(現在×)。 牧師が霊的に悪いある米国のメガ・チャーチ(ジョエル・オースティン(×)の教会)のように、”成功哲学”のような偏った説教で人を集め過ぎた傾向があります。
   (現在、韓国からの ”4位一体”という異端が日本にも入ってきています。 4番目は”牧師”で、牧師を「神」とするものです。 一部の純福音教会に入っている。 韓国では行き過ぎた牧師偏重主義 ・・・ 月給80万円、高級車に乗る、良い家に住む など)であり、聖書に「人の上に立ちたい人は、すべての人に仕える僕となれ」 とあるにもかかわらず、これは韓国の伝統的な、キリスト教以外の霊の影響、すなわち儒教やシャーマニズムの影響と思われます。)

 





  4. 日本の実業家のあかし:


   ● 「あなたの神、 心に覚えなさい。 主があなたに 富を得る力(財産を作る能力)כֹּחַ 、コーハ、力・能力、 לַעֲשׂוֹתעָשָׂה アーサー、do、make、 חָיִל 、ハーイル、力・財産・軍隊、 power to get wealth)を与えられたのは、あなたの先祖たちに誓った契約を、今日のとおりに果たされたゆえである。」 (申命記8:18)

     「謙遜と、主を恐れることの報いは、 と 誉れと いのち。」(箴言22:4)

     「信仰の創始者であり 完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)

     「わたしの くびきは 心地良く、 わたしの荷は軽いからです。」 (マタイ11:28-30)

     「富を得ようと苦労してはならない。」 (箴言23:4)

   ・・・・・  主は特定の人たちに、「実業家としての召し」を与えておられます。 その目的は、主の御用のため、慈善であり、また伝道・あかしのためです。
  現在の時代では、御子イエス様の 十字架によって結ばれた 新しい契約によります。 主は約2000年前、天秤棒の重いほうを担ってくださったので、私たちは もう一方の軽いほうを 快適に担っていけば良いのです。 逆に、不当な苦労を強いられるものや、罪を犯すものは、本当に主からのものであるかを疑ってみる必要があります。
  財産を築き上げる能力が発現される条件というものがあって、それは、大いなるみわざを成し遂げてくださった 主をいつも覚えている(=remember)ということです。



   (株)ライオンの創立者  小林富次郎

  小林富次郎がキリスト教に出会ったのは36歳の時でした。彼が神戸に住んでいた時のことです。ある劇場でキリスト教の演説会があり、彼は友人を誘って出席しました。すると この演説会を妨害しようとする若者たちが騒ぎ出し、場内は一時騒然となったのです。そこに柔道の教師をしているクリスチャンの大男が控え室から出てきました。きっと腕ずくで暴徒をつまみ出すのではと思って見ていました。ところが、その大男がひたすら頭を下げて「お願いです。静かにして下さい」と懇願し出したのです。これを見て富次郎は深く感動し、熱心に教会に通うようになりました。そしてついに洗礼を受けることになったのです。

  その後、富次郎は実業家の道を歩き出しました。全財産をはたいてフランス製の機械を導入し、宮城県石巻に大規模なマッチ製造工場の事業をするために準備を始めました。ところが洪水が起こって、準備した全ての原料と工場の機械を失ってしまいました。彼が途方に暮れ、絶望して北上川に身を投げようとした時、稲妻のように彼の中に御言葉が光ったと言うのです。それは神戸の長田牧師が葉書で彼に贈ってくれた聖書の言葉でした。そこには「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(ヘブル12:11) と記されていました。その御言葉によって富次郎は自殺を思い止まり、勇気を奮い起こし、東京の神田に石鹸やマッチの原料の取次店を作ったのです。
  そして牧師から聞いた歯磨き粉の製造方法をヒントに、これを研究して1893年3月に発売しました。彼は慈善活動にも力を入れ「慈善券付き歯磨」を販売し、岡山孤児院(石井十次)などの施設開設に資金的援助をし続けました。

   聖書に触れた人々シリーズ より)


   森永製菓の創立者 森永太一郎

  森永太一郎(1865-1937)は、佐賀県伊万里で一番の豪商の家に生まれました。しかし、6歳の時に父が死に、母は再婚し、彼は親戚の間を転々とする生活となりました。そのような幼少時代のため、12歳になっても字が読めず、その後、母方の伯母にあたる山崎家の養子となり、学問を修めることができました。19歳で上京し陶器商に勤め、20歳で結婚しました。彼は家族のためにアメリカでも日本の陶器を売ろうと単身で渡米しますが、全く売れず計画は失敗してしまいました。
  失敗したまま日本に帰ることも出来ず、ある公園のベンチに暗い思いで座っていたとき、とても上品な感じの婦人からキャンディを頂きました。とたんに太一郎は、洋菓子職人になろうと決心ました。しかし当時は人種差別が強い時代であり、苦労の多いアメリカ生活でした。下男をしながら数軒の家を転々としつつ生活していたある時、オークランドの老夫妻の家に雇われました。そのことが太一郎を変えることになったのです。その老夫婦はクリスチャンで、太一郎を差別することなく家族のように受け入れてくれたのです。その老夫婦の人格に触れ、彼は教会に導かれ、洗礼を受けることになったのです。

  すると太一郎は菓子職人になる夢を捨て、キリスト教の伝道者になる夢を抱いて帰国しました。彼は日本に帰ると、即座に親族や兄弟に伝道しました。しかしそのような太一郎を見て、人々は「太一郎はアメリカで頭がおかしくなった」と反対しました。育ててくれた岩崎家からも離縁されてしまいました。彼は伝道者になることにも失望し、再度アメリカに渡り、洋菓子作りの学びを続けました。そして帰国後、マシュマロを作って販売すると、それが大当たりとなりました。それらのお菓子をガラス張りのリヤカーに積んで販売して回りました。そのリヤカーの上には「キリスト・イエス、罪人を救わんために世に来たりたまえり。」(Ⅰテモテ1:15)。「義は国を高くし、罪は民をはずかしむ」(箴言14章34節)との聖書の言葉が書かれた看板が掲げられていました。そのような彼を町の人たちは「ヤソのお菓子屋さん」と呼ぶようになりました。

  やがてあの有名なミルクキャラメルが販売されると、日本中で大ヒットとなりました。昭和の人ならば一度は食べたことのあるキャラメルでしょう。しかし商売の成功と同時に、信仰の面は一時停滞した時があったようです。その信仰も、奥さんの死を契機に復活しました。彼は川のほとりで泣きながら再献身を誓いました。その復活した信仰を証明するようなエピソードがあります。それは1923年の関東大震災の時でした。かれは被災者にお菓子を無料配布したのです。すると森永の幹部達はそれに反対しました。その反対に対して、太一郎は「これは神様とお客様へのお返しだ」と配り続けたのでした。
  やがて社長を退いて会長となってからは、全国の教会を伝道講演して回りました。その時の講演題は、判で押したように「我は罪人の頭なり」(Ⅰテモテ1:15)であったと言います。ちなみに森永のエンジェルマークのTMは、彼の頭文字と言われています。


   
ノリタケの創業者森村市左衛門 (ノリタケ、TOTO、日本碍子・INAXなどの創業者)

  クリスチャンになる以前の森村市左衛門は、出家を考えたほどの仏教徒だったといわれています。彼は様々な企業を設立し、それで得た多額な利益を用いて、日本の社会に貢献すべく活躍していました。慶応大学校舎建築の為にも、日本女子大学校舎建築の為にも、多額の寄付を行ないました。特に彼は、当時遅れていた女子教育に協力し、多額の寄付をしたようです。ただ企業家として利益を追求するだけでなく、社会貢献を大きな目的としていたようです。
  彼がクリスチャンとしてあまり知られていない理由の一つは、彼がクリスチャンになったのが、召される僅か2年前のことであったからかもしれません。彼は好地由太郎という巡回伝道者の話を好んで聴き、洗礼を受けました。77歳頃のことです。この時に洗礼を受け、クリスチャンとなりました。

  森村市左衛門は、クリスチャンになってからひたすら伝道活動をしました。日本基督教団西千葉教会の記録には「1918年(大正7年)1月。前年の東京湾台風によって倒壊した建築中の新会堂の献堂式。新渡戸稲造、森村市左衛門、内村鑑三各師、講演」と記されています。またホーリネス教団の創立者である中田重治らと伝道して各地を回りました。そして短いクリスチャン生涯でしたが、世の成功を収めた者がクリスチャンとなり伝道者となったと言うことは、日本のキリスト教史にとって、とても価値のあることであったと思います。人生の目的を追求した森村市左衛門の人生の完成に、キリスト教があったのです。 ・・・ 「しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(ヨハネ3:21)


   ユダヤ人を救った杉原千畝(ちうね、リトアニアの領事館の代理領事)は、若いころにロシア正教の洗礼を受けたクリスチャンだった。その時千畝は「ビザを出さなかったら神に背くことだ。私は自分の責任においてビザを発行する」と言ったといわれています。 その結果、1940年10月6日から翌1941年6月までの10ヶ月間で、1万5千人のユダヤ人がハルピン丸で日本に渡ったといわれています。


   油屋熊八の「お・も・て・な・し」 かつて別府温泉で酒が出なかったたった一つの理由

  油屋熊八は、現在にも通じる観光ビジネスの基礎を作り上げた人物のひとりといわれます。
  
彼は宇和島藩(現・愛媛県宇和島市)の裕福な米問屋に生まれました。 明治に入った27歳の頃には宇和島町議になり、30歳の時には米相場で成功まっしぐらの前半生を送ります。 しかし日清戦争の影響でその儲けが全てふっ飛んでしまい、アメリカに渡りました。 渡航費用が残ってるくらいならそれを元手に商売すればいい気がしますが、当時のアメリカはゴールドラッシュの興奮冷めやらぬ頃だったので、海を越えてアメリカン・ドリームを見ていたのかもしれません。 ちなみにこのとき既に結婚していたのですが、妻を置いていっています。 ですが、時代が時代とはいえ東洋人がアメリカですんなり成功するはずもなく、あちこちを放浪することになりました。
  そして異国の地でキリスト教の洗礼を受けました。その後さらに三年ほどアメリカで過ごしてから日本へ帰ってきます。

  帰国してからは再び相場の世界に入りましたが、鳴かず飛ばず。そこで彼は、とっくに見限られていてもおかしくないほどの間別居していた妻を頼ります。 彼女がいた地こそ、熊八が最初に作った旅館・亀の井旅館創業の地、別府でした。 ここでようやく神のご加護が発現したのか、熊八は大きな成功を収めます。

   「旅人を懇ろにもてなせ」(ローマ12:13)
  このみことばをモットーとし、それまでなかったサービスを提供し始めたのです。
  例えば、万が一お客さんが急病になったときすぐ対処できるよう、旅館に看護婦を待機させていました。 創業から13年目には、亀の井旅館を洋式のホテルに改装しました。 さらに5年後の昭和三年(1928年)にはバス業界にも進出し、日本初の女性バスガイド(少女車掌)つき観光バスツアーを始めました。有名な”別府地獄めぐり”も彼の発案です。 また、近辺にゴルフ場を作って温泉とレジャーをくっつけたのも熊八のアイディアでした。

  一方ですっかり敬虔なクリスチャンになっていた熊八は、自分の旅館やホテルでお酒を出すことを固く禁じていました。 熊八がアメリカにいたのは、禁酒運動が盛んになっていた時期です。
  これに関するエピソードとして、森永製菓の創業者(そしてキャラメルの発案者)森永太一郎が来たときの話があります。 太一郎が「お酒出してくださいよ!旅館でしょう!」的なことを言ってゴネたのですが、熊八は「子供のための菓子を作っている会社の社長さんが、酒が飲めないのかと悔しがるのはおかしい」と真っ向からバッサリ切り捨てたのです。話がそこで終わっているので、多分頑として出さなかったんでしょうね。 ちなみにその後「楽しい旅行に来てるのに、お酒が飲めないのはちょっとかわいそうじゃないですか?」という意見が多数派になったため、「一日につき清酒は二合、ビールは一本だけ」まで緩められました。

  こうしたスタンスでも順調に行ったのは、おそらく熊八の経営方針の影響も大きいと思われます。 別府温泉の宣伝等の費用は、全て彼の私財と借金でまかなわれていたからです。熊八が亡くなるまでに完済することができず、ホテルと会社が売られてしまったのですが、それでも現在に至るまで地元では尊敬されているそうです。 (別府駅に彼の親しみやすい銅像が立っている)
  武将ジャパン より)

 





  5. 経済の祝福の制限事項・警告:


  経済の分野は 最も惑わしの強い分野の一つです。 裏切ったイスカリオテ・ユダは 主の群れの財布(経済)を預かっていた。 サタンは、賛美の天使長だった。(教会の会計と賛美リーダーの品性注意 ・・・ 教会の2大惑わし)

  ●   「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の いのちを損じたら何の得があるでしょう。 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えるでしょうか。」 (マルコ8:36、37)

  ●   「世の富を用いる者は、用い過ぎないようにしなさい。 この世のありさまは過ぎ去るからです。」 (Ⅰコリント7:31)

  ・・・・ 大きな自然・政治・経済の変化の時があります。 そのことを前もって知り、注意深く対応していく必要があります。 ( ex) 東京・関東大地震など、 銀行株の暴落レベル?)


   1923年のある日、シカゴにある高級ホテルに、当時世界で最も成功を収めていた7人の人々が滞在していました。鉄鋼業界最大の収益を上げていた会社社長、最大の公益事業を営んでいたグループの代表、小麦相場を総括していた資産家、ニューヨーク証券取引所の所長、大統領顧問、国際社会福祉銀行の頭取、そして世界最大の専売公社代表の7人です。まさに当時の世界を動かしていた人々と言っても過言ではありません。
  さて時間を少し早送りして、25年後( ・・・ すなわち 戦後どうなったか?)を見てみましょう。これらの人々はどのような幸せな生涯を辿ったのでしょうか?何と驚いたことに、この7人のうち3人は自殺をし、2人は刑務所に入り、残りの2人のうち1人は多くの借金を抱えて死んだそうです。どうやら富や財産は必ずしも私たちに幸福や平安を約束しないようです。

  では「経済的に豊かになること」は『悪』なのでしょうか?決してそんなことはありません。私たちの神は私たちを経済的に祝福することがおできになります。但し、神はあくまで私たちが「経済的祝福そのもの」に心を奪われることなく、『祝福してくださるお方』に注目すること、そしてそれらの富を「自分自身の利益のために使う」のではなく、神の愛に基づいて「それらを真に必要としている人々やプロジェクトのために使うこと」を求めておられるのです。 お金に振り回される人ではなく、お金を正しく使うことのできる人になりましょう!
        聖書のいい話 より、by.ニュージーランドの教会)

   戦後の世界経済(特に、金融、石油)を牛耳っていたデービッド・ロックフェラー(にせユダヤ)は、結局 2008年のリーマン・ショックで事実上の資産を失った。 2017年3月21日死去。  ベトナム戦争の枯葉剤や 遺伝子組み換え作物種の押し売りで有名なモンサント社も、ドイツの製薬会社(バイエル社)に買収され、米国では多額の訴訟が起こされ始めています。



  ● Ⅰテモテ6:6-11

  みことばの背景として、Ⅰテモテ6章最初の「にせ教師」とは”利得主義”の人たちで、 現在で言う ”繁栄の神学”のこと。 彼らが教会に混乱と争いを巻き起こしていた。

   「満ち足りる心を伴う敬虔(ευσεβεια(エウセーベイア)、(**) godliness)こそ、大きな利益を受ける道です。 私たちは何一つこの世に持ってこなかったし、また何一つ持って出ることもできません。 衣、食、(*)があれば それで満足すべきです。」 (Ⅰテモテ6:6-8)

   「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。
   金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。 ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。
   しかし、神の人よ。 あなたは、これらのことを避け、 正しさ、 敬虔** godliness)、信仰、 愛、 忍耐、 柔和を 熱心に求めなさい。」 (Ⅰテモテ6:9-11)


   ・  「衣」 とは 「住」も含んでいる言葉です。(ストア派や 托鉢僧になるわけではない) ・・・・ σκεπασματα(スケパスマ タ(複数)、protective coverings、覆うもの、「住む家」を含む言葉、 パウロはテント職人)

   ・ ** 敬虔: (やみくもに信仰熱心・宗教熱心・カルトという意味ではなく) 良い礼拝。 神の人として神の語りかけに 聞いて歩む日々奇跡を体験する歩み

    多くの仕組まれた事件や 国家的・政治的な策略が、結局のところ、一部の人たちの金銭目的で行われているのです。(→ 世の策略的事件簿 ) 経済は、もともと 物々交換だったのが 利便性からお金という代用物になり、それがいつのまにか本末転倒になり、神のように支配する「マモン」という妄想・錯覚・魔術となって、人々は大きく惑わされているのです。
  神様は、私たちのをご覧になります。(Ⅰサムエル16:7)  特定の、経済の召しがあるクリスチャンには、金銭に対し、本当に無欲であるかの チェックが与えられます。
  「神」を選ぶか、「マモン(富、マモン神(アラム語))」を選ぶか?(マタイ6:24) 人々を富の奴隷にしようとするマモンの霊から脱出するには「空の鳥の信頼」(マタイ6:26)がなければなりません。
  富を選ぶか、その富を造られた神様を選ぶか、 ・・・ 子供でも(子供のほうが?)分かる問いです。 神の国は、幼子が入る。

    教会の牧師の権威は聖霊様が働くと強いものがあります。 アメリカの実話で、ある信者が牧師に、宝くじ が当たるように祈ってもらいました。 彼は もし当たったら、教会に全部献金する と言っていました。 そして 見事 一等が当選しました。 しかし、彼はそのお金を持って 姿をくらましてしまいました。



  ●(追記) マタイ17:24-27

   「子どもたちにはその義務がないのです。 しかし、彼らにつまずきをあたえないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしと あなたの分として納めなさい。」 (マタイ17:26、27)

  納税について: 信じて「神の子」とされたクリスチャンは、本来 税を納める義務からも解放されていることを言っています。 「神の国」の住人であり、その王イエス様が税金を要求しないからです。 しかし 人々につまずきを与えないため(=信じていない人々も払う義務がないと誤解させること)、税を納めることを勧められています。 当時は、ヘロデからも、ローマからも、過酷な税金の二重取りでした。 (「キリストの貧しさにより、信じる私たちは富む者となった。」(Ⅱコリント8:9)
  今の日本の、消費税増税は、個人消費(GDPの55%)や企業投資の意欲をそぐため、本当に愚策です。 そして使わない軍備に5兆円、オリンピックに4兆円。 最近では、財務省による”日本は国の借金で破たんする”という嘘が、国民にバレつつあります。
  ヨーロッパの高い消費税率は、(ギリシャなどの破たん国家を除いて、)学費・医療費・老人ホーム が無料など、日本の実態と大きく異なっています。 また マレーシアでは消費税が廃止となりました。
  一方、不信者でありながら、外国の超大企業や 多国籍企業は脱税する組織的な抜け穴を持っているため、もし 本当に全部申告するならば、ビル・ゲイツさえも長者番付100位以内に入らなかった といわれています。



  ● 箴言、詩篇の一部、伝道者の書など ・・・ ソロモンの警告

   「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」(マタイ6:29)

  聖書の中の栄華を極めた人物と言えば、ソロモンですが、箴言や詩篇の一部、伝道者の書(コヘレトの書)などを著し、旧約聖書の一部になっているにもかかわらず、彼は晩年罪を犯し、天国には入っていません(by. 多くの天国見聞録)
  主がソロモンに与えられた、「知恵」単独の賜物は、実は 癖の悪い賜物です。 賜物は一度与えられると その人の霊的状態の良し悪しに関係なく現れます。 賜物は、主に聞き従って用いるべきものですが、人間的に勝手に用いることも可能です。(ただしこれを続けると無くなります。 現在の新約時代の「知恵の言葉」の賜物は 常に「知識の言葉」とペアで現れます。知識の言葉を補助する形で、言い逆らえなくする。)  ソロモンの場合、に三度 直接語られたとはいえ やはり主との関係が弱く、あまりにも偉くなり過ぎ、知恵によって言い返され、預言者もおいそれと語ることができなかったのが、晩年の堕落につながったと思われます。
  だから安全のために、このような大きな働きをする人ほど、へりくだって、いざという時何でも言ってくれる人や カバリングの人を複数用意しておくべきです。 筆者の知っている預言者の人も、カバリングの人を別々に3人置いています。 歴代のアメリカ大統領も、牧師(故 ビリー・グラハム師・2018 2/21 昇天(見分け○)、など)をカウンセラーとして置いた人が多かった。

  したがって、ソロモンの箴言などは、知恵の言葉集なので 経済に関する言葉も多いですが、単独で用いることをせず、他のみことば(特に、イエス様が直接語られたみことば)を用いるのに際し補助的に適用させるにとどめておくべきだと思われます。



  ● 黙示録15:2、 13:16、17

   「私は、火の混じった ガラスの海のようなものを見た。 野獣と その像と (*)刻印(χαραγματος、カラグマトス、emblem、mark)と その名の数字(number、=666)とに打ち勝った人々が、神の竪琴を手にして、このガラスの海のほとりに立っていた。」 (黙示録15:2)     * アレ型では抜け

  世の終わりの時、666の印(額や右の手に埋め込まれたマイクロチップ(?)) がないと だれとも売り買いができなくなります。これを受けると救いを失います。(黙示録14:9-11)
  そのため、地域の物々交換しかなくなります。地域全体がリバイバルしていれば それは可能となります。 後は 脱出後、(出エジプトの民のように、)主から直接養われます。そのため今から主から直接養われる訓練も必要でしょう。






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