メシヤニック・ジュー への みことば   ・・・・・・  「律法」から 「恵み」へ

                                                      2018年6月4日



  1. 新約時代の モーセの律法:


  次の みことばによって、今の時代も、文字通りに モーセの律法のすべてを踏み行う必要があるかどうかが問題です。

   マタイ5:17、18:

   「17 μη(No) νομισητε(you should think) οτι(that) ηλθον(I came) καταλυσαι(todown-loose、destroy) τον(the) νομον(Law) η(or) τους(the) προφητας(Prophets) ουκ(not) ηλθον(Icame) καταλυσαι(to destroy) αλλα(but) πληρωσαι(to fulfill).
   18 αμην(Amen、Verily) γαρ(for) λεγω(I say) υμιν(to you) εως(till) αν(ever) παρελθη(may-be-passing-by) ο(the) ουρανος(heaven) και(and) η(the) γη(earth) ιωτα(iota,ι=イオタ) εν(one) η(or) μια(one) κεραια(horn(角)、serif(セリフ、字体の曲がり角にある飾り) ου(not) μη(no) παρελθη(pass by) απο(from) του(the) νομου(Law) εως(till) αν(ever) παντα(all) γενηται(befulfilled).」

   「17  わたしが来たのは、律法と預言者を廃棄するためだと考えてはならない。 廃棄ではなく、成就するために 来たのです。
   18  確かに あなたがたに言います。 天と地が過ぎ去るまでは、決して 律法の ヨッドケライアも廃れることがなく、すべてが成就します。」

  * ヨッド: (一点 △)、(ヘブライ文字の) י = jot 、  ケライア: (一画 △)、(ヘブライ文字の)小突起、かぎ型の部分 תח などの差異で、全く違う言葉になる。 母音記号のニクダーではない。


  律法は、大まかに、 ”縛りの部分” と ”きよめ(品性)の部分” に分けられます。 イエス様は、この不要となった”縛りの部分”を廃棄されました。

  御子イエス様は、神であり、神のひとり子です。 神の権威をもって、律法のうちの 不要な縛りの部分を 廃棄され、きよめの部分を、より新しい契約(「新約」)に 変更されました。 そして、罪人である私たちは、この 神の高い基準を すべて守ることはできません。 マタイの福音書などにある山上の垂訓等は、すべて律法の焼き直しです。 律法を本来の主のみこころにかなうものとして、御子が神の権限をもって新たに、より正確に宣言されたもので、いずれにしても 誰も すべてを守ることができないものです。

  しかし、御子イエス様は、ご自身の十字架の死によって、信じる私たちについて、すべての律法を成就してくださいました。 それゆえ 信じる私たちは、神によって 価無しに「義」と認められ、(=神様の目から、今まで一度も罪を犯したことがない者とみなされ、) 律法の違反に対する 「さばき」を受けません。 再臨の時、私たちがさばきの座に立たされても、弁護人である御子イエス様が完璧に弁護してくださいます。
  そして、律法は、今や、私たちが日々の(弱さによる)罪を悔い改めるための「鏡」となっています。 (三種の神器の”鏡”?)

  御子イエス様は、「神の言葉」(ヨハネ1:1)、 そして、与えられた約束の聖霊様によって、「もしあなたが神を愛するなら、神の戒めを喜びとする」、「重荷にならない」(Ⅰヨハネ5:3、 ヨハネ14:15) きよめについては、聖霊に聞いて従うことによって、主の命令を守り、また「御霊の実(愛の実、品性の実)」を結ぶことができるようになりました。(ガラテヤ5:16)

  しかし、メシヤニック・ジューの人(=イスラエルの救いの「初穂」(黙示録14:4)の人々)は、小さい時から旧約聖書に親しみ、また みことばをゆだねられた民なので、律法の規定には(まじめな信者ほど)深く入って、多くの人たちがまだまだ縛られています。



  ● 律法が定められた背景:

  * 旧約聖書(現在はマソラ本文からの訳を使用) = トーラー(律法) + ネビイーム(預言者(複数)) + ケトゥビーム(諸書(複数))

  律法は、エノクや アブラハムの時代には 元々ありませんでした。 それができたのは、出エジプト当時のイスラエルの民が、主への「信仰」ということについて、あまりにもかたくなだったからです。(奴隷生活が長く、= 奴隷根性、すればいいんでしょう主義、行いによって義と認められると考える傾向が強い  ⇔ cf. モーセは王子として育てられた)
  そして、ヨシュアとカレブの他は、誰一人、のみこころにかなわず、皆 40年間の荒野で死に絶え、荒野で生まれた者たちだけが約束のカナンの地に入りました。


   「敵を憎め」、「目には目を。 歯には歯を」 ・・・・ 放っておくとエスカレートする復讐を、最小限に抑えるための 神様のあわれみの規定。 「敵を憎め」とは、あまりにも信仰が弱いイスラエルの民が 異邦人の悪しき慣習に染まらないための「聖絶」のことを言っています。 しかし、これを”律法的に”解釈して採用したイスラム教では いつまでも争いが収束しません。(「イシュマエルの子孫は、 ・・・ それぞれ自分のすべての兄弟たちと敵対して住んだ。」(創世記25:18))

   「御使いたちによって定められた律法」(使徒7:53) ・・・・ ステパノが殉教の時語った

   「しかし聖書(律法)は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。 それは約束が イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。」(ガラテヤ3:22)
    ・・・・ 律法は、キリストに導くための ”養育係(ローマの家庭教師)”の位置づけ。(ガラテヤ3:24)

   「では、律法とは何でしょうか。 それは 約束をお受けになった、この子孫(単数 =キリスト)が来られる時まで(= 旧約時代までという有効期限がある)、 違反を示すために付け加えられたもので、御使いたちを通して 仲介者(=モーセ)の手で定められたものです。」(ガラテヤ3:19)
    ・・・・ アブラハムが直接 神と結んだ契約に比べ、御使いたちと 神のしもべモーセを介して 定められたより低いもの としての位置づけ

   「その契約(= 御子イエス様の新しい契約)は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。」(エレミヤ31:32)
    ・・・・ 現在は、「心の律法」が人々の心に書かれています。

    「十字架によって、律法の のろいがすべて取り除かれた」 (ガラテヤ3:13)  ・・・ 律法は良いものですが、人間的に守ることができないので、それは のろいとなります。





  2. 新約時代に廃止された各種規定について:


  1) 食物規定:

   「イエスは、このように、すべての食物を きよい とされた。」(マルコ7:19)
     ・・・・ καθαριζον(カサリゾン、is clean) παντα(all) τα(the) βρωματα(foods)

   「それ自体で汚れているものは何一つない。 それが汚れていると認める人には 汚れているのである。」(ローマ14:14)
     ・・・・ οτι(that) ουδεν(オウデン、nothing) κοινον(コイノン < κοινός、common、unclean *) δι(through) εαυτου(ヘアウトウ、itself)
  * コイノンは、元々、 ”普通の”、”神のために聖別されていない”、 の意。(その人の宗教的な価値観が きよくないと決めることを強調。)

  豚肉などの食物規定に、当時の 取税人や罪人たちは無頓着でした。 しかし イエス様は、彼らといっしょに食事をされました。(マルコ2:16)
  この食物規定に関するモーセの律法は、今の新約時代では、主によって 廃止されています。 この他にも、


   「弱い人は野菜だけを食べる。」(ローマ14:2)
    ・・・・ メシヤニック・ジューのような信仰の弱い人がいる場合は、彼らを受け入れるべきであり、彼らに適応し、つまずきを与えてはならない。 あとは、新約聖書から(旧約聖書を上書きするほどに、)学んでいただくまでです。  → ローマ14章(↓)

   「食べても益にならず、食べなくても損にはならない。」(Ⅰコリント8:8)

   「恵みによって心を強めることは良いことです。 食物(= 食物規定)に気をとられた者は益を得ませんでした。」(ヘブル13:9)

   「食物は、神に感謝して受け取るように造られたもの。」(Ⅰテモテ4:3)

   「ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と 絞め殺した物と 血とを避けるように書き送るべきだと思います。」(使徒15:20)

   血抜きは、命あるままで食うな、の意味。(血 = いのち) 子ヤギを母ヤギの乳で煮るな、犬を縊(くび)り殺すな、と同じで、情操教育上 必要とされた。(これを段階的に続けると、次は人を殺すことを何とも思わなくなる) また、血があると、食物は腐りやすい、という衛生的配慮もあります。 「絞め殺したもの」からは血抜きできない。 豚は、反芻しない動物で、「犬や豚に真珠を投げて与えるな。」と同じで、新約時代では、悔い改めない貪欲な人と付き合うな、という意味があります。 もちろん 栄養学的には全く問題ありません。(むしろ炭水化物の摂り過ぎ、モンサント社の小麦のほうが問題?)

   * 特に食物規定問題は、福音宣教の初めから問題になっていたことで、使徒ペテロ(ケパ)や、異邦生まれのレビ人である使徒バルナバも惑わされかけた難物です。(ガラテヤ2:11-14)



  2) 安息日の規定:

   「安息日は人のために設けられ、人が安息日のために造られたのではない。」(マルコ2:27)

   「見よ。 人はわれわれの一人のようになり、良し悪しを知るようになった。」(創世記3:22)

    ・・・・ 神から離れ、人が神のように 良し(TWB、トーヴ)・悪し(RAh、ラー) を規定する性質が「原罪」。 カトリックも、みことば以外の権威(伝承、 座に就いた教皇の言葉)を設けている。

   移動距離の制限:  当時の「言い伝え」(パリサイ人による”口伝律法”)は、聖書(モーセの律法)よりも権威があり 、イエス様はこれを”人間の教え”に過ぎないものとして批判された。 この 言い伝えは、ユダヤ人が散らされた後に、”ミシュナー”となり 成文化されました。 ミシュナーは、著名なラビたちの解釈、その解釈、その解釈の解釈と、歴史と共にいたずらに複雑な書物となっていきました。
  これには、安息日に歩いても良い距離は 約1km(700~1100m)という規定がありました。 安息日は、 שַׁבָּת シャッバース、σαββατονサッバトン、Sabbath、で、大体 土曜日(*イスラエルとは6時間の時差、イスラエルの金曜日の夕方 =日本の土曜日の0時頃 から1日間。)
  そのため、ユダヤの人々には、終末の 「ぞっとする憎むべき像(= 反キリストの像)」が立った時に荒野に逃げるのが、「冬」(雨が多い)や「安息日」にならないように語られています。

   「人の子は、安息日にあっても主です。」(マタイ12:8、マルコ2:28)

     ・・・・ 弟子たちは安息日に穂を摘んで食べ、ダビデも祭司ではないのに (取り下ろされた)供えのパンを食べた。 また イエス様は 安息日に癒しをなされた。安息日だからと言って、穴に落ちた家畜を引き上げない者がいるだろうか、とも言われました。

  シロアムの池の所で、「目に泥を塗る」時に、”安息日に泥をこねる”ことは当時の「言い伝え」で禁止されていました。(by.フルクテンバウム(メシヤニック)*) そのため人々はイエス様の挙動を見ていました。 しかも安息日に、イエス様はあえてこのことをなされました。 そしてもちろん、神のわざが起こりました。

  * メシヤニックの アーノルド・フルクテンバウム師が旧約の規定箇所だけを数えた所、613個あったそうです。



  3) 主の御名の呼び方:

   を、本来のように、ヤハウェと読まず、”アドナイ”と読む慣習は、ユダヤ教のできた後 BC3世紀ごろから始まったもので、 「御名をみだりに唱えてはならない」(出エジ20:7、第3戒)の曲解による縛りです。 主の御名の呼び方、「みだりに」とは、回数の事ではありません。(さらに後の時代には、この箇所に来たら”読まない”(”うっ”、と言う)という読み方になった)

  むしろ、聖書のみことばから、主の御名を、 「ヤハウェ ○○○」と朗読すれば、主の臨在があります。(→ 主の御名

  イエス様の御名の権威は、癒しや 悪霊追い出し、霊の戦いなどで、 祈りやみことばと共に、常用されます。 信仰と共に用いるイエスの名と 聖霊の力によって、汚れた霊はまるで漫画のように出て行きます。 「神の国は 力にあります。」 もちろん用いる回数に制限などはありません。 (マルコ16:16-、 Ⅰコリント2:4)

  * メシヤニックの旧約聖書には、(ヤハウェ)のことを まだ”アドナイ”と書いています。





  3. メシヤニック・ジューとの付き合い方、留意点:


  日本ではユダヤ人自体が少ないですが、新約聖書の書かれた当時の異邦人教会に、幼い時から律法に親しんできた 多くのユダヤ人のクリスチャンたちがいました。そのため、信仰の一致に達するまで、ユダヤ人たちの信仰の成長の期間が必要で、異邦人クリスチャンの方から気を配らなければなりませんでした。
  もちろん、異邦人であっても「聖餐式」、「洗礼式」等、新約時代の現在でも、 主が、 私たちの信仰を強めるために行いなさい、と命じられた 共通の式典もあります。(Ⅰコリント11:23-26、 使徒8:37*(アレ型では「キリストが神の子であることを信じます」が抜け)
   ((注意) 逆に、救いの条件に、十字架以外の、たとえば律法などの”行い”が入ったならば、それは霊の異なる異端です。)


  ● ローマ14章: 

   「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。 その意見をさばいてはいけません。」(14:1) ・・・・ 信仰の弱い人とは、ユダヤ人クリスチャンの事(=現在のメシヤニック・ジューと同じ)で、食物規定や 安息日の規定に縛られていながら、キリストを受け入れている人たちのことです。

   「それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。 また、自分の兄弟を侮るのですか。 私たちは みな、神のさばきの座に立つようになるのです。」(14:10)

    ・・・・ 神のさばきの座とは、主の再臨の時 一人一人に報いる(マタイ16:27)、 「私たちは皆、キリストのさばきの座に現れて、善であれ 悪であれ、肉体による事柄に応じて報いを受けることになるからです。」(Ⅱコリント5:10)、(cf. 黙示録20:12 の、 数々の書物による 白い御座のさばきは、救われていない人たちについての千年王国の後の事で、異なる)
  このように、軽々しく ユダヤ人クリスチャンの信仰の弱さをさばくなら、それは (救いを失うことにはならないが、) 再臨の主の御前でとがめられる罪となります。これは、次のようにすらも言われています。

   「ですから、もし食物が 私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後一切 肉を食べません。 それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。」(Ⅰコリント8:13)

    ・・・・ この場合の 肉 とは、当時 偶像に捧げられた肉が混ぜて売られていたことによります。 このくらいの愛の決断が必要です。 つまずかせる とは、救いを失わせる事になります。

   「εκαστος(each) εν(in) τω(the) ιδιω(own) νοι(mind) πληροφορεισθω(let him be fully assured)」 =

   「(各種の日や食物について、大切だと思う人も そうでない人も、) それぞれ自分の 心の中で 確信していなさい。」(ローマ14:5)、 「信仰から出ていないことは皆罪です。」(14:23)

    ・・・・ 結論として、教義の差をあまり問題とせず、キリストが愛してくださった愛による、信仰の一致への歩み寄りが、すなわち、何よりも愛による一致が大切ということです。



  ● メシヤニック・ジューとの出会い:

  実際、ある姉妹は、日本で救われた メシヤニック・ジューの姉妹と最近出会い、土曜日に共に集会をしています。 さすがに、が昔、御自分の民と語られたほどの人なので、その祝福の約束が 強く成就しています。 主は、語られたことを必ず成し遂げられる 聖なる神です。 そして ユダヤ人が救われることは、主にとって 大きな喜びです。

   長い年月が経って、再び 「今日、(もし御声を聞くなら 心をかたくなにしてはならない)」 (ヘブル3:7、8) という日に。

   「主はシオンを選び、ご自分の住みかとして望まれた。」 (詩篇132:13)

   「これらの栽培種のオリーブは、もっとたやすく自分の台木につがれる。」 (ローマ11:24)


  このように「ユダヤ人」と 「異邦人」が、心を一つにして主を礼拝することは、主が非常に喜んでくださることであり、主の恵みが豊かに流れてきます。(ユダとエフライムの霊解、 新約聖書にはホセア書からの引用が多い)
  集会はとりあえず 彼女のやり方で始めました。 そのメシヤニックの姉妹は、自分で焼いてきたパンを持参して、毎週 土曜日に聖餐式をして、踊って賛美しています。 その時の 主の臨在は”滝”のようであると、 いっしょに礼拝する姉妹はあかししています。 そして、示しなどの御霊の一致が頻繁にあり、摂理的奇跡がよく起こり、2人とも、はっきりした預言 みことばから語ります。

  この集会は今年始まったばかりですが、筆者は これが 「預言者の群れ」に発展するとみています。 預言者の群れ(+見分け手+とりなし手)は、啓示の賜物をもって、他の 使徒や教師に 神の言葉を伝え、使徒はその一部を取って日々押していき、教師はその一部を取って教えていきます。 預言者の群れは、主の働きのうちで 最も源泉性の高い部分を担っています。 「耳元でささやくことを、屋上で言い広めよ。」 このようにして、主は、五役者の働きを強く導いておられます。

  また、主の臨在が強いので、そのメシヤニックの姉妹が新約聖書を学ぶスピードが速く(旧約聖書はもちろんプロですが、)、信仰の一致に比較的たやすく達すると思われます。 豚肉を食べないなどの食物規定や、土曜日だけ礼拝する、などは徐々に止める方向にあります。 (救われる前は豚肉を食べていましたが、救われた後、律法を真面目に読み過ぎて、「信仰」が退行していました。)
  (* 救われてから強くなった メシヤニックのフルクテンバウム師は、とんかつでもとんこつラーメンでも平気で食べます。)


   「キリストは私たちの平和であり、二つのもの(ユダヤ人と異邦人)を一つにし、私たち(ユダヤ人と異邦人)の間の 隔ての壁(**)を打ち壊し、 ご自分の肉において敵意を廃棄され、儀式を含む律法さえも無効(カタルゲーサス、力を奪う)にされました。そしてそれは、キリストにあって その二つが一人の新しい人になるためであり、こうして平和を作るためです。」(エペソ2:14、15)

  ** ここでは、神と人との間の障壁のことではありません。 エルサレム神殿にあった ユダヤ人と異邦人を隔てる 『隔ての壁』は、1871年に発見された石柱の解読から、”他国民のいかなる者も、この障壁から内側の神殿に立ち入るべからず。これを犯す者は死刑に処すべし”とギリシャ文字で書かれています。(手を洗うこと にさえも当時 26か条 の規則があった。) この壁は、AD70年のエルサレム陥落時にローマによって破壊されましたが、霊的には イエス様がこれよりも高い壁を打ち砕いてくださいました。





  4. メシヤニックの預言的意義:


  (1) 二本のオリーブの木:

  オリーブは、異なる種の複数のオリーブの木を一緒に植えて、互いに他の受粉によって初めて実を実らせます。 一本の木や 同種の木々では 実が成りません。 (別の意味では、野生種のオリーブが異邦人であることから、異邦とユダヤの合体で実を結ぶともとれます。 ただし、単純な”置換神学”(×)ではなく、残りの部族の帰還にも 主の計画があります。)


   「「燭台の右左にある、この二本のオリーブの木は何ですか。」 ・・・ 「二本の金の管によって 油((直訳)金)を注ぎ出す このオリーブの二本の枝は何ですか?」・・・ 「これらは、全地の 主に仕える、二人の 油の子たちだ。」」(ゼカリヤ4:11-14)
    ・・・・ 直接的には、当時、バビロン捕囚からの帰還民のための神殿再建(第2神殿)の、指導者ゼルバベル(バビロンの種 の意)と 大祭司ヨシュア を示す。 二重預言として、終末の「二人の証人」のことをも指しています。

   「 ・・・ それから、わたしが わたしの 二人の証人に力を与えると、彼らは 粗布(あらぬの)の喪服を着て、千二百六十日(=3年半弱)の間 預言をする。」
   彼らは全地の主の御前にある 二本のオリーブの木、また 二つの燭台である。」 (黙示録11:3、4)


    ・・・・ 終末直前の時、異邦人教会は7つの霊的な教会に分類されます。(黙示録2章、3章) 一方、イスラエルでは 前3年半の小艱難期に、迫害と同時にリバイバル(イザヤ66:7、8、 黙示12:5)し、2つの教会となります。(燭台 = 教会) それは、それぞれ モーセ律法の象徴)と エリヤ預言者の代表)の霊性(黙示11:5、6、 ルカ9:30、31)を表し、聖霊様の臨在を全世界に流し出す、2つの生きた教会です。 異邦にいるユダヤ人は別にして、このときイスラエルにいるユダヤ人クリスチャンは、この 二人の預言者(殉教する)をトップとする2つの教会のどちらかに所属しているはずです。 そして、このように先に生まれ、殉教して 天に引き上げられたメシヤニックの群れは、「初穂」、「十四万四千人」(黙示録14:4、5)、また 「口に偽りのない者」(常に みことば・預言を語る、 ≒ ヨハネ1:47)と呼ばれます。

  また、殉教しなかった「女(=イスラエル)の子孫の残りの者」は、荒野へ逃げます。 そこで 敵の攻撃から守られ、後3年半+α の間(=異邦の大患難の期間)神によって養われます。(黙示録12:6)



  (2) レビ記にある 預言的メッセージ:

  異邦人である我々には非常にとっつきにくい レビ記ですが、そこに描かれている古代イスラエルの例祭と行事は、そのまま、 終末のリバイバル再臨預言になっています。
    ・・・・ (過越し祭は キリストの初臨・十字架の贖い、 7週の祭(シャブオット、ペンテコステ)は 聖霊降臨、) ラッパの日(ユダヤ暦7/1):第7のラッパが吹き鳴らされる時(黙示10:7)、 贖いの日(7/10): 主の再臨の時、 仮庵の祭(7/15-21): 千年王国
        ( → ゲゼルカレンダー


   


  (3) 第3神殿:  ・・・ 終末の警告( → 神殿 の7.参照)

  教会、個人、そして このメシヤニックとの集会で、過越し聖餐式 などを、御子イエス様の十字架を覚える目的で行うのは良いことです。 この時、聖霊様の臨在と共に、(御使いやイエス様が見える人によると、)イエス様が、ニコニコした笑顔で間に立っておられます。 「(霊的に良いクリスチャンたちが、祈り・礼拝等で、)二人三人わが名によって集まるところに わたしも共にいる。」(マタイ18:20)の通り、文字通り イエス様が立っておられますが、 メシヤニックが一緒にいる場合 これよりも強い臨在です。
  御子の十字架は、旧約時代からのすべての目的であり、新約時代のすべての信仰のスタート地点だからです。 が古い契約(旧約)を結んだアブラハムも、御子の十字架を見ていたのです。 「子孫(すべて単数)」 (創世記13:15、 13:16、 15:5、6、 22:17、18) ・・・ アブラハムは遠い昔から見ていた キリストの十字架を信じたので、義と認められました。(ローマ4:3)


  しかし、逆に、もし律法の行い 「救いの条件」に入ってしまうなら、もはや 霊の異なる異端です。 (セブンスデー異端、 洗礼しないと救われない、教会に所属しないと救われない、など。) たとえ羊をささげても、行いが救いの教理に入ってしまうならば、新約時代の現在では、十字架を冒涜する行為となります。(ガラテヤ3:24、ローマ3:20等) 御子イエス様が十字架で 完全な贖いを成し遂げてくださったのに、行いの条件を入れれば、神への冒涜、=「不信仰」 となります。 旧約時代でさえも、時が過ぎれば「偶像」になりうるもの 「青銅の蛇」: ヒゼキヤ王の改革のとき処分。(Ⅱ列王記18:4)

  第3神殿終末の重要なしるしです。 イスラエルでは現在すでに、第3神殿の材料も 人材も(祭司職の教育)用意されています。 「ゴグ・マゴグ」(エゼキエル38、39)の後、正当的にイスラムを追い出し、イスラム第3の聖地”岩のドーム”の土地を奪回すれば、そこに速やかに建設されることになっています。(ユダヤ教の回復)  (参考) 第3神殿予告編日本版 (イスラエルのキリスト教ドキュメンタリー、2013)、  イスラエル第3神殿建設計画
  ただし この時は、あくまで”ユダヤ教”の回復であり、イスラエルが本格的に救われるのは 前3年半の小艱難期のことです。 このときリバイバルと共に迫害が起き、殉教して天に上るグループ(「初穂」)と、荒野に逃げる民(「女の子孫の残り」)の、2つのグループがあります。この時、救われる者と 堕落する者が両極端になります。(ダニエル12:2)

   * セブンスデー(異端)のロン・ワイアット氏が、ゴルドンの十字架の地下の石切り場で見たという”契約の箱”は、ケルビムが極端に両端にあって(「蓋と一体」(出エジプト25:18、19)と言えないほど)、蓋の上部が平らに空いていて、いかにも”何か”( ・・・ ネロや金正恩?のような人物の、反キリストの像)を乗せるのに都合の良い形となっている。(これは、セブンスデーの創始者のエレン・ホワイト(にせ預言者・(見分け ××))の見たという幻と同じ)


  第3神殿が作られた後は、終末の「にせ預言者」(おそらく バチカン)によって、第3神殿は彼ら「異邦人によって踏み荒らされ」(黙示録11:2)、その至聖所(「翼」=ケルビムのある所)は、「荒らす忌むべきもの」 =反キリストの像が置かれ、反キリスト崇拝の中心地となるまでに堕落する。 実に、「愛された都」エルサレムが、「ソドム、エジプト」(黙示録11:8)に成り下がり、最後には「大バビロン」(17:5)にまで堕落します。
  ダニエル書9:27で預言されている(かつてのアンティオコス・エピファネスがしたこと) この一連のTVなどによる報道を見たならば、われわれクリスチャンたちは、エルサレムの滅亡が近いことを悟り、(あらかじめ、それぞれが具体的に示されていた所の、)「山(荒野)へ逃げ」なければならない、また、「都市部に入ってはならない」、というタイミングです。 このとき霊的中心である、エルサレムの神の至聖所が掌握されるので、全世界も、霊的に、反キリストの支配下に置かれるからです。
  そして、にせ預言者による大々的な偽りのしるしが伴う惑わしが行われる。 もし「666(六百六十六、獣の数字)」のしるしを受ければ、救いを失うことになります。


  私たちは、物質的な備えよりも むしろ、霊的な祈り備えをしていかなければなりません。

   →  かつてエルサレム陥落前に起こった脱出の様子: 十字架信仰の力2015、 マタイ24章15-20節


 





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