3. 神の激しい愛
1) 神の遠大な計画;
今まで、いかに人が悲惨な被造物であるかについて見てきた。
神様はどうしてこのような悲惨な形に人を創ったのだろう?。
その質問に答える前に、神の計画を見てみよう。
神はまさしく一瞬にして、この大宇宙を創造した方である。(創1−1〜2−25)
時代の終焉における神のあかしとして、この”力ある神”すなわちイエス・キリストによる天地創造が明確にされた。そして、これは詭弁でも擬似科学でもない。科学の範疇を越えるが純然たる論理的証明によるのである。
これは、大宇宙の物質という被造物だけを見ての話であって、実際には、神の能力は全宇宙をはるかに越えて、さらにさらに人の想像を絶するほどに計り知れないのである。
神は、このように想像を絶する計り知れない”力なる神”、また、”聖なる神”である。
ところが、神は、なんと、被造物しかもこの取るに足らない、弱い、卑しい、罪を犯しやすい、のみならず、実に悲惨な存在の人間をわざわざ選び、天の御国の世継ぎをさせようと、御こころのままにこの天地に関する遠大なる計画を立てたのである!(*)。
そして、人の罪をあがなうために、実に、永遠に神であり神のひとり子であるイエス・キリスト − 罪を知らない神の子羊 − を、完全な人としてこの世に遣わしたのである。
イエス・キリストは、まさしく、この人間の持つ悲惨な特性と共に生まれたのである。
そして、イエス・キリストの十字架こそ、神の真実の中心的な表れなのである!。
永遠に神であって、神と共にいます方であり、光の中に住み、決して死を味わうはずのない方が、人としての最低限の死に方を身をもって通られたからである。
前述のように、十字架の(肉体的)苦痛は、あらゆる死刑の中で最もひどいものである。これを知っていながら、イエス様は御父に従って、かつ、自らの意志で十字架を忍んだ、すなわち、神御自身が、悲惨な人間の最低限の死を味わったのである。
以下、聖書から、十字架の箇所を見つつ、それを通しての私たちに対する神の真実による恵みを知って行こう。