3. 信仰 〜 聞き従いの歩み
(1) 信仰の土台(神のことば);
主イエス・キリストを信じて、心に聖霊が宿ったならば、その時から聖霊の語りかけが始まる。
御父は天におられる不動の方であり、御子イエス様は復活の後天に昇り、今は父なる神にとりなしをし、また新天新地を備えている。私たちが”主よ”と呼ぶ方は聖霊なのである。聖霊は私たちと共に地上にいる”共におられる主”なのである。それは、イエス様と共にいる事と同じなのである。
(もし、内なる聖霊の語りかけが一度もないという人がいたら、救いを確認していただきたい。救われた時くらいは、誰でもわかる形で語られるからである。)
「信仰とは聞くことから始まり、聞くことは、キリストのことば(*)によるのです。」 ・・・ ロマ10−17
((*) ここで言う、ことばとは、”レーマ”(ギ)であり、”神が今語っていることば”と言う意味であり、神の個人的な語りかけを表わす。 ⇔ ロゴス(ギ) ・・ 神が語ったことば = 聖書のみことば、あるいは、イエス・キリスト)
〜 信仰(すなわち、救いの信仰の上に建て上げられた、神のみこころを行う信仰)とは、聖霊なる主の御声に聞き従う歩みである。
そして、信仰の土台とは、神のことば(*)である。
「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」 ・・・ ルカ9−24
〜 人生の節目節目で、理性・知性に従うか、主のことばに立つかの選択が迫られる時がある。ここで、人のやりたいことや人の計画、人の理性、人の欲望に従うならば、主からの恵みを失う。しかし、主に聞き従うならば、すばらしい結果とそれに付随する恵みと本当の喜びを得るのである。
「私の思いは、あなたがたの思いと異なり、私の道は、あなたがたの道とは異なるからだ。」 ・・・ イザ55−8
〜 例外はあるが、一般的に、神の語りかけは人の思索と合い入れないものである。
神は最善のものを私たちに与え、主のみこころを行なわせ、また、天に宝を積ませようとしておられるのである。ところが、(一般的に言って、)神のことばは、およそ人間の思索と異なり、一番やりたくない、あるいは、全くばかばかしく思われる事を語られる事がよくある。
しかしながら、主の語ったことばは、神の時に、必ず成就する。(神の”聖”の第二義的意味) (イザ55−11)
そして、聞き従いの歩みを行う時、喜びと平安があり、また、環境がすべて味方してくれるのである。(イザ55−12、13)
そして、最後まで従い切ったならば、見事にその事が成就し、また、神が信仰を喜んでくださるから、永遠に朽ちない宝を天に積む事になるのである。
私たちは、根本から思考の変革が必要となるのである。すなわち、
これは、神のことばによる天地創造と同じである。(創1−3) 人の思索や思い煩いは何の益にもならない。
私たちの基本的な態度として、何よりもまず第一に、主に祈って、神のことばを聞くことをすべきである。人の思いこみや願望ではなく、本当に神のことばを受け取るまで、しつこく祈り求めるべきである。
そして、神のことばを受け取ったならば、もう勝利である。なぜなら、神のことばが事をすべて成し遂げるからである。
私たちは、ただ、神の側について信仰の立場を取れば良いのである。そうすれば、神の時に、神様が(勝手に)成就してくれるのである。