(2) 信仰の勇士たちの潜在意識;
旧約時代は、イエス様の十字架がまだ明らかにされておらず、ただ聞き従いの信仰によって義(正しい)とされていた時代である。(ヘブ11−2〜) だから、典型的な信仰の歩みについてそこに書かれてある。
さて、旧約時代の信仰の勇士たちは、召しについて語られるまで、どのような潜在意識を持ち、また、どのようにして”神の意識”が彼らの心に形成されていったのだろうか?。
1) アブラハム ・・・ 信仰の父、主との契約の人(旧約)
アブラハムの父テラは、すでに異教のカルデヤ人の地ウルから脱出していた。彼らはカナンの地へへ移動していたが、テラの心情がぬぐいきれず、途中のカランまで来てそこに住みついた。(創11−31)
アブラハムは神に語られる時、小さな群れの族長であったが、父からこれらのビジョンを受けて育ち、高貴な家柄の意識を持っていた。(アブラムとは”父は高貴”の意) そして、俗悪な異教社会に合わず、かといって、父の目的がまだ果たされていない状況だった。
また、信仰の歩みの途中の大きな試練では、息子イサクをいけにえとしてささげよとの命令を受けた時、主はイサクを再び生かしてくださると信じていた。(ヘブ11−17〜19) その時までに、復活信仰にかかわる主への絶対的信頼ができ上がっていたのである。
2) ヨセフ ・・・ エジプトの総理大臣になった人
ヨセフはヤコブが愛するラケルによって生まれた子であり、他の兄弟よりもかわいがられた。(創37−3) 〜 自分は愛されているという意識
そして、主からの幻(=語りかけ)を受け、それを皆に語ったが、兄弟たちのねたみによりエジプトに売られ、非常にきびしい試練によって彼の高慢が砕かれた。(「彼のことばは彼をためした。」(詩105−19) しかし、愛されているという意識により、神に最後まで信頼できたのである。
このように、自分は愛されているという意識は重要である。(イエス様もそうである。(ルカ2−52))
3) モーセ ・・・ 出エジプト時の指導者、預言者、神と直接語り律法を伝授された人(他の預言者レベルではない。(民12−8))
本来殺されるはずが、姉ミリヤムの機転により、パロの王女の息子として育てられた。すなわち、神の御手によっていわば純粋培養されたのである。だから、彼はヘブル人でありながら、世俗意識や奴隷意識に全く染まらず、パロの王女の息子(すなわちパロの子息)のような高貴な意識を持っていたのである。
4) サムエル ・・・ ダビデに油を注いだ預言者
信仰の母ハンナの誓願の祈りがあり(Tサム1−11)、神にも人にも愛された。(Tサム2−26)
また、少年サムエルは主の箱(イエス様の象徴)の安置されている主の宮で寝ていた。(Tサム2−26) 〜 イエス様に近い聖なる環境(主の臨在)
5) ダビデ ・・・ 主に祝福されたイスラエルの王
父エッサイの8番目の忘れられかけた子 〜 へりくだり、孤独に強い、人に頼らず神に頼る意識
羊飼いの仕事 〜 羊を守るのに忠実(自分の命をかけて羊を守る)
奇跡的な信仰の下準備 〜 石投げ器でライオンや熊を退治 〜 主によって育て上げられた奇跡の賜物、および、勝利意識 (Tサム17−35、36)
世慣れしていない 〜 主の箱が到着した時、王でありながら、力の限り(裸で)踊って率直に主を喜ぶ。(Uサム6−14)
6) バプテスマのヨハネ ・・・ イエス・キリストの道備えをした預言者
元々からの主の約束があり、胎にいる時から聖霊に満たされ、生まれてからは荒野で育った。 〜 時があまりにも悪く、宗教界も堕落して末期的な状態であった。世俗化していなかったのは、荒野だけであった。
7) 12使徒 ・・・ イエス・キリストの復活の証人、直接的な使者
彼らが召された時、彼らは身分の低い人、無学な人、貧しい者、嫌われ者であったが、イエス様に直接的に選ばれ、イエス様によってとりなしの祈りがなされ(選びの時、ひとりに付き1時間)、そして、3年間の信仰の訓練によって、立て上げられていったのである。それは、特に、宗教的な偽善に対抗し、世的に知恵ある者や力ある者をはずかしめるためである。
それゆえ、彼らは、人間の弱さを熟知したへりくだった者であり、奇跡的な神の力に飢え乾いている者であり、それゆえ、実際に神の国の力を発揮するイエス様に、素直に安定的に聞き従える者であった。
ただし、彼らは共通して聖書に通じており、それを世的解釈ではなく率直にそのまま信じ、身分はいやしいけれども決していいかげんな人ではなかった。
ex) ペテロ 〜 漁師の親方でリーダーシップ発揮していた。漁業は天候や自然の力に左右されやすいので、身をもって神に対するへりくだりの心を持っていた。ただし、揺れ動かされやすい欠点があった。 ヤコブとヨハネ 〜 雷の子と呼ばれ、激しい性質を持っていた。(ルカ9−54)
あつかましいと思われるほど、主に求めた人々であった。 マタイ 〜 ローマの側につく取税人であり人々に嫌われていたが、金銭に忠実な者であった。 ナタナエル 〜 内側に偽りのない者。 (パウロ 〜 非常に博学、知的であり、逆方向だが律法に熱心な者であった。盲目という弱さを体験し、悔い改める事によって、すべての地位も名誉も世的な知恵も捨て、ただ主によって最も多くの働きをした。)
【注1】 逆に、主に退けられた器を見てみよう。 〜 サウルが退けられた理由;
サウルは、イスラエルの民が人間的な動機で主に求め、主の御こころをそこねた状態で、それでも主によって選ばれるという背景(真の聞き従いでは無く、人間的な意欲をやむを得ず主が認めたパターン)のもとに、立てられた王である。
サウルは、しるしを持って選ばれ(Tサム10−20〜23)、油注がれ(10−1)、聖霊が下って(10−10)、主によって王に任命された。にもかかわらず、完全には聞き従えず主の御こころにかなわなかったのである。
彼の潜在意識には、”自分は小さい者”(Tサム15−17、10−22、10−16、9−21)という、王としてふさわしくない、神の意識でないもの(不信仰)が常に有ったので、民を愛し治めるという情熱は無く、ただ的をはずしてさばくだけの者であった。(Tサム14−24)
(ただし、彼のような人さえも、預言者の群れにいると預言をする。)
【注2】 サムソンについて 〜 品性の事ばかり言う間違った確信を持った人々へ
人間的基準では、サムソンは粗暴で、自己中心的で、そして、女性に弱い、これが主の器かと思われるほどの人に見える。しかし、決してなまぬるくなく(神はただ熱烈な方である)、真に信仰の勇士であり、罪を悔い改めつつも見事に主の目的を果たしたのである。主に従う必要なものは彼のうちに整えられていたのであり、それを行なえば十分だったのである。
サムソンの存在は、われわれ罪深い者にとって、大きな励ましである。(士16−20〜31)