聖書のことば(抜粋)及びその解説
1.創造とキリスト;
・「初めに(*)、神が天と地を創造した。地は形が無く、何も無かった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。
そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。 神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。
こうして夕があり、朝があった。第一日。・・・・・・」
(創世記1章1−5節)
・「初めに(**)、ことば(***)があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」
(ヨハネの福音書1章1−5節)
・・・・・(*)創世記の「初め」は、”世の始まり”(ヘブライ語で”ベレ−シス”、ギリシャ語で”カタポレ−”)の意、(**)ヨハネの福音書の「初め」は、”永遠の初め”あるいは”究極の根源”(ギリシャ語で”アルケ−”)の意。
創世記の第一日目の光は、神の側にあるもの、神のいのちあるものの象徴であり、物質としての光は、その後の第四日目に太陽、月、他の天体と共に造られた。(人間は動物と共に第六日に創造された。)
(***)「ことば」とは、キリストを意味し、神の御子キリストが神であり、天地万物の創造主であり、いのちの根源であることを示す。 また、万物は神のことばによって造られたことが書かれてあるが、このやりかたは、神の奇跡の場合にも共通するものである。すなわち、その同じ神が語っていることばによって今日でも再創造が起こるのである。
2.モ−セの十戒(抜粋)
・ (一)「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」
(二)「あなたは、自分のために、偶像をつくってはならない。・・・・・それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」
(三)「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。」(「主の御名によって偽りの誓いをしてはならない。」の意。 後の新約聖書では「誓ってはならない」に変更されている。)
(四)「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」(安息日は人の為にある事に注意。残りの六日は労働にあてられている。)
(五)「あなたの父と母を敬え。」
(六)「(人を)殺してはならない。」(新約聖書では、憎しみ、ねたみなどの心の中の殺人についても言及している。)
(七)「姦淫してはならない。」(新約聖書では「心の中でも姦淫してはならない」事が追加されている。)
(八)「盗んではならない。」
(九)「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。」
(十)「あなたの隣人の家(のいろいろなもの)を欲しがってはならない。」 (出エジプト記20章3−17節)
・・・・・モ−セの十戒に代表される”律法”は人を罪に定める為のものであり、神が人を裁く基準であり、これを”律法的”に(”人間的”に、あるいは、”愛のない従順”によって)守ったからといって神の前に何ら義とされないものであり、また、人がそれをすべて守り切ることがとうていできないものである。しかし、神の御子イエス・キリストが十字架の上でわれわれの罪の身替わりに神の裁きを受け、(これから犯すであろう罪も含めて)われわれの罪の贖いが完了した事を信じるならば、その信仰により神により無条件に正しいとされる。この場合、”律法”はもはやその人を罪に定める効力を失い、神との関係が正常になり、神からの恵みをさらに受けるための、”罪の悔い改めの基準”になる。
3.福音について;
・「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパ(ペテロ)に現われ、それから十二弟子に現われた事です。・・・・」 (コリント人への手紙・第一・15章3節−)
・・・・・福音とは、神による救いの知らせ(ギリシャ語で”良い知らせ”の意)のこと。それは、罪によって神から離されていた我々の、神との関係の回復(霊の救い=狭義の”救い”)から始まって、罪の奴隷状態からの救い(きよめ)、たましい及び体の病める状態からの開放、実際的な必要の満たし、奇跡や賜物などの体験、あらゆる困難な状況からの救い、そして、その人の神により計画されていた”召し”の成就へとつながっていくものである。さらに、のちの世で朽ちない体を着て真の喜びと楽しみと共に永遠のいのちを受けるのである。
これらの大いなる祝福の唯一の入り口となるものが、神の子イエス・キリストの十字架と復活を信じることである。全く行ないによらず、ただ信じるだけである。
・「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 (ヨハネの福音書3章16節)
・「(十字架上で)イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」
(ヨハネの福音書19章30節)
・・・・・罪人の罪の贖いの”完了”(サタンの束縛から神の支配への移行)、律法の成就(”律法”から”恵み”の時代への移行)、また、あらゆる神の計画の成就をも含めて宣言した勝利の雄叫びである。
4.三位一体;
(1)父=神:
(2)父=子:
・「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。・・・その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」(イザヤ書9章6節)
(3)子=神:
・「このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。」(ロ−マ人への手紙9章5節)
・「御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、・・・」(ヘブル人への手紙1章8節)
(4)子=聖霊:
・「その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」(マタイの福音書1章20節)
(5)聖霊=神:
・「主の霊は、私を通して語り、そのことばは、私の舌の上にある。イスラエルの神は仰せられた。・・・」(サムエル記・第二・23章2−3節)
・「さて、御霊(聖霊)の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。」(コリント人への手紙・第一・12章4−6節)
(6)イエス・キリスト=旧約聖書の主:
・「もしあなたがたが、わたしのことを(*(直訳)わたしがある(I am that ”I am”)という事を)信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」(ヨハネの福音書8章24節)
+「神はモ−セに仰せられた。「*わたしは、『わたしはある』という者である。」」(出エジプト記3章14節)
(7)初めから三位一体を暗示する所:
・「さあ、降りて(単数)行って(複数)、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」(創世記11章7節)
・・・・・三位一体という言葉は直接聖書には書かれていないが、聖書には一貫して、父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神(神の霊。信じるすべての者に与えられる。)という三つの位格があって同時にそれが一つの神である事が書かれてある。三位一体は知性では決して理解されない”神学的深淵の問題”と呼ばれるものである。
どれか一つを強調しそれに言及することは問題ないが、三つの位格のうちのあるものが他より低い位置に置かれる教理をもっているならば、それは霊の異なる異端である。(たとえば、”エホバの証人(ものみの塔)”では父なる神よりもイエス・キリストが低い位置に置かれているので、キリスト教界では明確に異端とされている。)
イエス・キリストは神としての性質に従って、へりくだって人としてこの地上に生を受けたが決して神よりも低い者ではなかったのである。もし、神よりも低い者が人の罪の身替わりに十字架にかかったとしても、それは”聖なる神”の前に何ら義(正しい)と認められないのである。
イエスが完全な神であるからこそ、十字架がそれほどまでに効力があるのである。
また、神は複数ではなく、ひとりである。神の聖なる性質により、他の神(すなわち神に成り代る善悪の規定者)の存在を神は許すことはないのである。
5.聖霊と奇跡について;
・「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主(*)をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊(聖霊)です。」(ヨハネの福音書14章16.17節)
・・・・・(*)助け主とは”被告人の弁護人”の意で、そばにいて父なる神にとりなしてくれる神の霊。この約束のとおりに、イエス・キリストの十字架と復活の後、信じて救われた人すべてに聖霊が与えられ、父なる神に永遠に全く罪の無い者として扱われるようになった。
・1)「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。・・・・」(使徒の働き・2章17.18節)
・2)「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコの福音書16章17.18節)
・3)「しかし、みなの益となるために(*)、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には・・知識のことばが与えられ、・・信仰(の賜物)が与えられ、・・いやし・・奇跡・・預言・・霊を見分ける力・・異言・・異言を解き明かす力が与えられています(**)。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。」(コリント人への手紙・第一・12章7−11節)
・・・・・神が人を通して具体的な奇跡を行なう場合、その人が聖霊に満たされる(聖霊のバプテスマを受ける)必要がある。救いは霊の分
野のみにて充分であるが、この場合、たましい以上の分野において必要である。なぜなら、神である聖霊が奇跡を行なうのであるが、用いられる人が神に聞き従うことが必要であり、そのときその人の神のことばに対する信仰がゆるがされないためである。また、(救いもそうであるが)神の奇跡や賜物は”恵み”であって、人の品性や行いによるのではなく、神に対してへりくだった(神の声に聞き従いやすい)者に神の計画に従って一方的に与えられるものである。
1)神のわざが著しく行われることには、神の時というものがある。 使徒の働きにあるような初代教会の時代、および、世界レベルの奇跡が頻繁に起こる現今の終わりの時がそれであり、このことは聖霊の著しい注ぎかけが雨にたとえられて聖書の中に予告されている。(”初めの雨”と”終わりの雨”(ヨエル書2章23節))特に、終わりの時には預言、幻、夢が著しく現われる事が書かれてある。
2)信じて救われた個人に対し、上記のしるしが(特に他の未だ信じていない人々に神のあかしがなされる為に)与えられる事が書かれてあり、現在すでに世界中でかなり一般的に起こっている。
3)賜物(カリスマ)とは神から与えられる良き贈り物のことで、その語根は”恵み”(カリス)である。”恵み”とは”ふさわしくない者に一方的に与えられる良きもの”であり、聖霊の賜物は救いと同様に恵みである。これは、神が事を成したということが誰の目にも明らかにされる為である。
(*)また、聖霊の賜物の働きは、教会、集会(特に”異邦人教会(イスラエル以外の民の教会)”、あるいは全体としての教会(特にイスラエルとしての群れ)において、それらを建て上げる為に現われるのである。最終的に現れる主に用いられる機能的な教会は、”幼子を持つ女”としての教会ではなく、”完全主の主任牧会の教会”である。((参)エゼキエル書34章)また、後に現イスラエル(ユダとベニヤミンの二部族)の主任牧会の教会と一体化するはずである。(同37章)〉
(**)”知恵のことば”と”知識のことば”の賜物はそれぞれ”相手に反論させないすぐれたことば”および”相手の状況を見たり聞いたりしないでずばり言い表すことば”であり、多くの場合”知恵・知識の二つが一人の人に同時に現われるという形で用いられている。(=マルコ12−13−、ヨハネ4−5−)
”信仰”の賜物は一般の信者が持つ事が出来ないほどの並外れた信仰であり、言ったあるいは祈った通りのことを全く疑わずに信じる事ができ、ある期間の後奇跡的に成就するものである。(=マルコ11−11−) ”預言”の賜物は、神が語った特定のことばや幻などのメッセ−ジを受け取って、群れあるいは特定の人、さらに物や霊、抽象概念などすべての対象に対し、(人間的な解釈を入れず)そのまま語るものである。 預言の種類には、予告・予知、教え、励まし・慰め、いやし、さばき・宣告などがあり、非常に多岐にわたっている。また、預言はその人の賜物でなくてもかわるがわる語ることができ、終末の時特に現われる神の能力である。
”異言”の賜物は、神のメッセ−ジが通常の言葉になっておらず、”異言の解き明かし”の賜物によって初めて預言のように意味がわかるもので、不信者のためのしるしである。(異言とは”舌”の意味で、外国語の異言、御使いの異言などがある。また、祈りや賛美に用いられる異言はすべての信者に与えられているしるしで”新しいことば”のことである。)
以上、コリント人への手紙にある分類はあくまでも聖霊の働きの現われの事を言っているのであり、いずれの賜物にしても、その用いられる人々が神の導きの中で聖霊の語りかけに従って与えられた賜物を用いることが実を結ぶ重要なポイントである。
6.見分けについて;
・「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネの福音書10章27節)
・「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」(ヨハネの福音書7章17節)
・・・・・イエス・キリストを信じて神のものとされた時から、その人に対する神の計画が始まり、聖霊の語りかけが分かるようになり、また神に従う力が与えられる。そして真に神の召しに応答したいと願うならば、人間的なものと真に神からのものとが見分けられるのである。
・「しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(ヘブル人への手紙5章14節)
・・・・・神からのものを充分見分けられるようになるためには、基本的な学びだけではなく、神の主任牧会によるある程度の聞き従いの訓練の期間と経験が必要である。霊の事についての初心者が教師になってはいけない。
・「愛する者たち。霊を差別なしにみな信用してはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。」 (ヨハネの手紙・第一・4章1−3節)
・・・・・霊的なものにたずさわる時、最も注意しなければならないのは霊の見分けである。たとい霊の分野で救われていても、たましいの分野では惑わしが許されるので、必ずしも神と同じ方向を向いているとは限らないからである。特に、(もちろん100%神であるが)100%われわれと同じ人間としてこの地上でその生涯を送ったイエス・キリストをあかしする働きをもたらすかどうかが見分けのポイントである。 イエスを神聖なものとするが近寄りがたいものとしイエスを模範としない(律法的に模範としようとすることが逆の結果をもたらすことが多い)ものや、兄弟愛を示さない、実を結ばない冷たい結果をもたらすような(にせ)預言や(にせの)賜物の行使などが代表的なものである。
(ヨハネの手紙は一貫して具体的な兄弟愛について語っている事に注意)
・「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。・・・こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。・・・その日(審判の日)には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行なったではありませんか。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。 『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」 (マタイの福音書7章15−23節)
・・・・・実とは「御霊の実」(「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」)(ガラテヤ人への手紙5章22,23節)、また「救いの実」のことである。
・・・・・世の終わりの時には、多くの神の奇跡が起こり人々が大ぜい救われ、いやされ、恵まれ、神の栄光が力強くあかしされるが、 これと同時に、似て非なる逆の霊による働きが起こる事が聖書で予告され(実際にすでに起こっていて)、また惑わされないように特に語られている。すなわち、神やキリストの名を語って、神と逆の働きをする者たちのことである。そしてそこでも確かに奇跡やしるしが起こるのであるが、このことは、もちろん、初めから信じていない(救われていない)教会やグル−プについての事を言っているのであり、その見分けのポイントは神に反逆する不法を行なう事になっていると言う事である。
また、救われていても、霊的に未熟な者が惑わされる場合があるが、これは神が定めた養育の一つであり、人間的にその芽を摘み取ってはならないのである。
したがって、信じて救われた者にとっては、神に語られたことばに聞き従い、(特に、救われたとき示された)神の召しを全うすることを求めている事が、霊的にズレないで、良い実を結ぶ事が出来る秘訣である。