(2) たましいの整えの重要性;


 御子イエス様の十字架により、私たちは信じるだけで罪が赦され無条件に永遠のいのちをいただいた。(ヨハ3−16)
 これは、「霊の救い」であり、永遠の昔から定められていた、神のご一方的な、本当にすばらしい恵みの計画の一つである。
 だから、たとい私たちの肉体やミニストリーが滅びても、最低限、私たちの霊が救われる。(Tコリ3−15) それほど、十字架の効力は偉大なのである。(歴代の牧会者や指導者たちの牧会における失敗の多くは、十字架の効力を過小評価するところから来ているように思われる。また、天国を見てきた人たちのあかしによると、罪深い行ないのゆえに当然地獄に落ちたと思われた意外な歴史上の人物たちが何人もいたそうである。)

 ところが、御霊の賜物がよく現れていたコリント教会などの当時の教会には、パウロは、「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ((ギ)アナテマ)。」(Tコリ16−22)と書いている。これは救いを失う事になるという警告にも取れる、恐ろしい言葉である。
 また、主の臨在の強い所では、旧約でも新約でも、(もちろん戒めの啓示としての意味もあるが、)神に逆らうとすぐに殺されてしまうし(Uサム6−6、7、 使5−1〜11など)、あれほど取り扱われたダビデでさえも恐ろしい罪を犯してしまったのである(Uサム11・12、罪の刈り取り(ガラ6−7))。
 私たちは、使徒行伝時代の主の働きを上回る全世界のリバイバルに直面している。これは、主の栄光の臨在が全世界に満ちる時である。
 したがって、今の時点で、私たちのたましいの整えにほとんど全力を投入するべきであると言っても過言ではないであろう。

 さて、たましい(心)とは、”知性”・”情操”・”意志”であり、生ける”神のことば(*)”という種が蒔かれる”土壌”であり、作物が成長する畑である。(「神の畑」・Tコリ3−9) そして、恵みの雨が降ったり、日照りが続いたりのような、恵みや試練の起こる”信仰”という過程を経て成長し、時が来ると実を結ぶのである。(リバイバルの時は、種まきと刈入れの時間的な間隔が非常に短くなる。(ヨハ4−35〜37))
 もし、この心という信仰の土壌が整えられていないと、神のことばが与えられても、すぐに枯れたり、種がどこかに行ってしまったり、別のものが生えてきたりして実を結ぶに至らない。(マコ4−3〜9)
 ましてや、賜物の働きにおいては、本来、教会の徳を高め、信仰を大いに助ける働きが、全く逆の方向に行ってしまう危険がある。極端な場合は、終末のにせキリストやにせ預言者になってしまうのだ。(マタ7−15〜23)
 現れてくる器や自分自身に対する私たちの唯一の判断基準は、”実を結んでいるかどうか”である。

 サタンは、光の天使に変装し、神からのほとんどの賜物や善行や権力を偽造することができるが、唯一真似できないものがある。それは、主の品性(主の真実の愛・あわれみ・へりくだりとそれに基づく実)である。(*)(**)(***)
 なぜなら、主は、私たちを愛によって知っているからである!

 では、いかにして信仰の土壌である私たちのたましいの分野が整えられてゆくのであろうか?。


  (*) イスラム圏出身の若い使徒(サムエル・リー師・33歳)は、先日のD教会の集会で、”御霊の賜物と御霊の実のどちらか一方の二者択一を迫られたならば、迷わず””の方を取る。”と言った。彼は、その小さな集会で3人のガンを癒した直後にこう語ったのである。(一人の岡山県から来ていた女性は、病院に行ってCTスキャンを撮りながら肺の中のガンが消えて行くのを見てあかししていた。) そして、彼は”実による癒しというものもある”、と言った。

  (**) ソロモンは民を治めるために、知恵と知識の賜物を求めた。それは、財宝や権力や長寿を求めるよりもみこころにかなった。しかし、最善ではなかった。ソロモンにはダビデのとりなしの祈りがあるが、ソロモン本人の取り扱いも、主との交わりも、ダビデより明らかに少ないのに恵まれすぎていた。(ソロモンの箴言は、確かに主からの賜物であるが、ダビデの詩篇と違って主への”礼拝”ではない。)
 もし私たちが彼と同じ立場にいたならば、”主を愛するを下さい”と求めるべきである。(神の国とその義 = 主の臨在と神の国にあって従うことによる(信仰の)義、主に従う事 = 主を愛すること)
 主は気前の良い偉大な神であり、与えるとなると徹底して与える。主との愛による交わりが浅く、その大きさと聖なる事(語ったことを正確に必ず成し遂げられること)を知らないと、後で誘惑にやられ取り返しのつかない結果となるのである。ソロモンは苦労したダビデの後継ぎであることに注意。私たちも先人たちの労苦を無駄にしてはならない。

  (***) 神は人だけはちりから造られた。(創3−19) それは、私たちが神にへりくだるべき存在であることを語っている。


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