ヨハネの黙示録の概略
(* 黙示録は世界の器たちによっても、その解釈の意見が分かれる大変難しい書です。浅学な筆者も主に祈りつついろいろ考察してみましたが、まだまだ不明な点も多くありますので、それをご了承の上参考にしていただければ幸いです。)
1. 主のさばきの厳しさを知ること;
ヨハネの黙示録はAD90〜95頃、ドミティアヌス(81〜96)によるローマ帝国全土の大迫害の時、流刑地のパトモス島で使徒ヨハネによって書かれたと言われている。
主のやさしさを知ることを望む者は多いが、主の厳しさに甘んじることを望む者はまれである。私たちは終末の時代を生き残る為に、この両方を会得しておくことが必須である。(大戦中の日本やドイツの制度・伝統的な教会が脆くも世と妥協した事で実証済みである。)
キリストのさばきの御座(黙20−11)に立ちおおせる者は一人もいない。主のさばきの御座は、私たち救われた者にとって、最高の安らぎの源であると同時に、あまりにも偉大で純粋な恐れの源である。この、”神に対する畏怖の心”が私たちにとって、今、最も不足しているのではなかろうか。
神が私たちに知らせる神の御性質(救い)の3要素は、 1.力ある主の栄光、2.いのちの回復、そして、3.主の犠牲であり、これらが時間を超越して(永遠までも)現される神の御性質の本質である。
このうち、3番目の”主の犠牲”の要素(*)は、十字架に掛かられる直前に、ゲッセマネでイエス様が体験されたものである。(ゲッセマネ=油しぼりの園) それは、不吉で、おぞましいものであり、恐怖、焦燥、絶望、不気味、そして、激しい心の痛みである。 そして、私たちは生涯をかけてもそのほんの一部しか知ることのできないものであり、それを完全に通過できたのはキリストだけである。 御子のたましいがそのようである時、肉体の反応として、汗が血の雫のように落ちた(ルカ22−44)とは、どのような心の状態であったのだろうか。永遠に一緒だった御父と切り離され、一度も罪を犯した事のない方が全人類の計り知れない罪を一身に負わされ、残酷な不条理の罰を身代わりに受けたのである。非常に恐れ、悲しまなければ(マコ14−33、34)このような反応は出てこないと言われている。(**) 私たちはこの”主の犠牲”の要素を少しでも受け取るため、何度も”力ある主の栄光”と”いのちの回復”を体験しなければならない。
この、主の犠牲の要素から入って行くクリスチャンはきわめて少ないが、それが御父の愛を知るに至る最も近道であり、それが私たちの内にあるならば、私たちは心の内で葛藤する事が無くなり、私たちが体験するすべての災いや傷が善を行なうための”権威”に成り代わっていくのである。(イエス様の行なった中心的なわざである、いやしの権威が現れるなど。) また、この痛みによって苦しんだ人々には、後の世で永遠の権威が与えられる。(テアテラの勝利者:鉄の杖で諸国の民を支配する権威、など。)
御父こそ、全宇宙のどの被造物と比べても、最も激しい感情的なお方である。(黙4−3) イエス様の十字架の時、その罪の贖いの尊い犠牲の姿のゆえに、御父は、激しい感情のために心が震え、一瞬、目を背けられた。(それゆえ、全宇宙は一瞬暗闇になった。)
御父の喜んでおられるのを見たいという、御子の最も深い愛は、私たちにも分け与えられる。(Tヨハ4−10)
暗闇と困難の中で生きている者たちが真心から主を賛美をするとき、天に無数に存在する者たちが全員でやってもできないほど、御父に感動を与える事になる。これこそ、地上で苦闘している信者が捧げる真実の礼拝である。そして、それは、今私たちが地上に生かされている時にしか出来ない、永遠に渡っての特別に価値あるものである。
* 黙示録を読む際の前提と注意点;
1−1 あかし(預言) ・・・ 神から受け、見た事をそのまま証言すること
cf. 文学 〜 天路歴程、 レフトビハインド
−3 幸いである ・・・ 山上の垂訓(マタ5−3〜11)の”幸い”と同じ語
心を留める人々 ・・・ 単に聞き流すのではなく、積極的に守る、の意
22−18 少しでも付け加える者 〜 この書の災害を加えられる
少しでも取り除く者 〜 その人の受ける報いを取り除く
・・・ 天国に行けずにゲヘナに落とされる事
したがって、翻訳や解釈は別にして、黙示録は聖書全体にかかわる不変の啓示。
§ 黙示録が書かれた時代の迫害・殉教;
弟子たちが世の終わりの事を主に尋ねた時、「これらのすべてのことの前に」、この世の支配者たちにあかしし、殉教する者もいると答えられた。(”ローマの平和”の時代) ペテロやパウロは教会形成の仕事の後、ローマでネロにより殺された。(AD64) (***)
AD70 エルサレムの陥落(「軍隊」(ルカ21−20))後、ユダヤ人は散らされ、帝国内のキリスト者への本格的な大迫害・大殉教の時代になり、それがかなり長く続いた。
この前後の期間、帝国内はかなり荒れすさんでいた。 旧来の伝統や地方自治や古い忠誠心がローマの恐怖政治の支配に取って代わられ、人々は心のよりどころを失っていた。不安のゆえに、人々の道徳は乱れ、日々あらゆる残酷な闘技の観戦に没頭し、あるいは、宗教へ逃避し隠遁生活を送る者も出てきた。
ローマ帝国全体での迫害は、ヨハネの時代は、ドミティアヌス(81−96)によるもの、それ以降の諸皇帝、マルクス・アウレリウス(161−180)、特に、デキウス(249−251)、ディオクレティアヌス(284−305)の下でさらに大規模で組織的な迫害となった。
(AD312 コンスタンティヌスの回心の時、迫害されつづけてきた少数派のキリスト者の宗教はローマの国教となり迫害は止まった。)
皇帝礼拝が強要されたので、キリスト教を告白する事は死刑にあたる罪とされた。処刑のやり方は、身分の高いものは斬首か剣で殺され、それ以外の大部分は、見せしめのために、動物の皮を着せられ犬に食い殺されるか、闘技場で野獣によって殺される、火刑、十字架刑など、あらゆる残酷な方法が取られ、円形闘技場(コロシアム、ローマのは4万5千人入る)などでライオンや熊の餌食とされ、大衆の見世物にされた。そのほか、キリスト者が優勢を占めていた町全体が軍隊によって滅ぼされた、ローマでは教会の財産没収と多数の信者の殉教、パレスチナ、シリア、エジプトでは激しい暴力に苦しめられた。 ローマでの多くの信者たちは、不潔で暗いカタコーム(地下墓地)に隠れていた。
しかしながら、迫害の嵐の中で、福音はさらに宣べ伝わり、”殉教者の血は種”となって、さらに帝国内に増えていき、また、迫害のために信仰を捨てる者はそんなに多くはなかった。
(むしろ、この時期流行していた、さまざまな異端思想(グノーシス(2c初め〜)(****)など)の誘惑によって落とされる者が多かった。)
* もし、神の御性質の中にこの要素が無ければ、エデンの園に善悪の知識の木を置かず、天使の堕落や人の堕罪も無く、あらゆる苦しみや地獄の創造も無く、そして、イエス様の十字架も無く、聖書も2〜3ページで終わっただろう。
** 7〜8年前の事、ある中学生が長い間いじめに遭って、寒い日なのに上から下まで汗びっしょりになって帰宅した。彼はその次の日、自殺した。
*** 使徒たちの宣教地は、ペテロがローマで福音を伝え、ヨハネはアジヤで伝道して成果をあげたのはほぼ確実とされている。また、伝承によれば、パウロはイスパニヤ(スペイン)へ行き、(使徒?)マルコ:アレクサンドリア、タダイ:エデッサ(アンテオケの北西300km)、マタイ:エチオピア、トマス:インド、などへ遣わされ、帝国全土に多くの主の教会が建てられていった。 ヨハネがただひとり生き残されたのを除いて、12使徒たちは皆、殉教した。(たとえば、ペテロは逆さ十字架、マタイは剣、アンデレはX字型の十字架、ナタナエルは激しく鞭打たれ全身の生皮を剥かれた。)
テルトゥリアヌス・弁証論より: テベレ川が城壁に達し、ナイル川が氾濫せず、天が動かず地が動き、ききんが起こり疫病が広がっても、”キリスト者をライオンの餌食に”という叫び声がすぐに上がる。彼ら全員を1頭のライオンに食わせようというのか。 〜 帝国内にライオンの数がめっきり少なくなった。
キリスト者への告発の理由は、根拠があいまいで、人食い人種(聖さん)、無神論者(偶像を持たない)、近親相姦者(相互の愛)などと言われたが、要するに、キリスト者である事が死刑にあたる犯罪とされた。
**** グノーシス派=秘密の知識(グノーシス)によって救われると説いた、多様な教理・・・聖書の教理に余計なものを付け加えるもの: 霊と物質の二元論かつ霊は善、物質的被造物を悪とみなし、ここから、キリスト仮現論(ケリントス派の教え: キリストは霊だけの存在で肉体に見えただけで、イエスは単なる人間で、キリストの霊が鳩のようにくだり、十字架にかかる前に体からキリストの霊が出て父のみもとに帰った)を始め、救いに知識が必要とするもの、罪を犯した女を避ける為結婚を禁ずる禁欲派、逆に、霊はきよいから体はいくら罪を犯してもよいとするもの、など。
この、キリスト仮現論に対抗するため、ヨハネは”人として来られた神の子イエス様”を特に強調しあかしした。
※ 殉教の為の祈りと信仰の備えは重要である。: ダニエルは獅子の穴に投げ込まれたが、御使いが彼を守った。ポリュカルポスは、火刑で殉教したが直立したまま動じなかった。 日本のキリシタンの時代、磔で殉教する時、子供や女性の多くは最初の”見せ槍”(両側から槍でわき腹を何度も突いて殺すが、その最初は目の前で交差するのみ)で気絶した。26聖人の宣教師の一人は磔の台が外れて首が引っかかった状態で賛美も出来ずに殉教した。火刑の時、子供や女の多くは火が足に届いた時点で召された。ある老女は何度も火が消え、五、六回でやっと殉教した。火刑の時激しい熱さの為逃げ出す者もいたが、皆その場で再び火に放り込まれた。