2. 異邦の7つの教会;


 ローマ領アジヤ(小アジア)では他にも有力な教会がいくつもあった。(・・・ トロアス、ヒエラポリス、コロサイ、トラレス、マグネシヤなど) 一方、テアテラとフィラデルフィアは当時小さな町であったが、これらの7つの教会のリストに挙げられている。 黙示録では、イエス様の「7つの御霊」(5−6)とあり、7は完全数なので、現在、あるいは、現在よりも少し後の世界のすべての教会を指すと解釈する。

 (歴史上に現れてきた各時代の教会ととる解釈もあるが、どれがどの時代であるかは明確ではない。 スミルナが大殉教時代、テアテラが中世、フィラデルフィヤが19cの福音派と自由主義との戦い、ラオデキヤが現代の生ぬるい教会、と取れる部分もある。しかし、ニコライ派(ニカン・ラオス=民に勝つ)は制度的教会を指し、それが各時代に渡って存在している事、現代も生ぬるい信仰ではない国もある事(ロシア、中国、イスラム圏、北朝鮮など)、進化論や自由主義的な教理、反カリスマ的教理などと戦う余地が充分残されていること、フィラデルフィヤが試練から守られることが終末の時にかかっている事、そして、カトリック、福音派、カリスマ派などの異なる教派が世界に同時に存在する事、などから、教会が生きている、死にかけているにかかわらず、世界のすべての教会を類型別に表している、と取るべきではないかと思われる。)


 1)  エペソ教会;

 7つの星=7人の御使い、7つの金の燭台=7つの教会(1−20)より、主イエス様が、エペソだけではなくすべての教会を支配しその間をいつも巡り歩いている事を知らせている。そして、すべての教会にとって最も基本的な信仰である、十字架に立ち返る事が強く語られている。パウロもエペソ人への手紙の冒頭で、他の手紙にあるいつもの挨拶もそこそこに、再度、十字架信仰についてしつこく語っているのである。これは、信仰の歩みの初め(救い)だけではなく、その次から最後に至るまで、どんなに十字架がすべての種類の信仰に渡って、基本的で重要な意味を持っているかを知らせるものである。主の臨在が無くなれば、主の教会ではない死んだ教会になる。勝利を得るものは、かつての人間的努力の原因となり、死に至る善悪の知識の木の実ではなく、いのちの木の実を食べる約束が特に書かれてある。


 2)  スミルナ教会;

 スミルナは非常に繁栄した都市だったが、そこのキリスト者は貧困の中にいた。教会全体が自称ユダヤ人による迫害下にあるなかで、イエス様はいのちの対照、すなわち、十字架から復活への道を、最も直接的導かれている。この教会の場合、主が救い出すのではなく、殉教するのがみこころであった。 目に見えるところは今の苦しみと貧しさは非常に厳しい(スミルナとは”スリプシス”=すり潰す、の意)が、天国にいる者から見れば、全く対照的に、非常に富んでいて、いのちにあふれて、天国の王座にいる、これがスミルナ教会の真の実態である、と告げられている。また、いつまでも苦しむのではなく、10日という試練の期間の限定も語られている。(この10日という期間は、レビ記の7/1(ラッパの日)〜7/10(贖いの日)を思わせる。・・・ラッパ→大艱難期→再臨)


 3)  ペルガモ教会;

 ペルガモは政治と文化の中心地であった。 両刃の剣とは、教会の外だけではなく、内側にもさばきの剣が用いられる事を意味する。(どんなに迫害があろうとも、すべては主の許しのもとに行なわれる。教会は主が守り、外部の人々は主がさばく。) サタンの王座:当時、ドミティアヌスの皇帝礼拝のアジヤにおける中心地であった。このような最悪の条件下で、アンテパスは偶像の中に入れられて焼き殺されたが、教会は外側からの攻撃にはしっかりと対抗していた。 しかし、教会内部のほうが脅威にさらされていた。それは、信仰の教理の中に、国家との妥協が含まれてくるものだった。ここでバラムは、”にせ教師”として引用されている。そして、これに惑わされたものは主の口の剣(預言)の力によってさばかれると警告されている。 信仰の弱いユダヤ人クリスチャンががいる中で、偶像に捧げたものを食べさせたり、不品行を行なわせたりする事は、異邦人教会に与えられている使徒からの禁止事項である。(使15−29) 従って、バラムの教えは、単に迫害を避けようとして反キリストに妥協するにせ教理に過ぎず、自分の命 を守ろうと務める者はそれを失うのである。 ここで、主は信仰の純粋さを試しているのである。妥協せず、純粋な信仰を守り通した者には、つまずきの石のかわりに白い石・新しい名(白い石は無罪を表す、また、新しい主の栄光の実質)、偶像に捧げた食物に対し隠れたマナ(他の人には関係の無い特別な恵み)が与えられる。


 4)  テアテラ教会;

 テアテラ教会は、愛と信仰と奉仕と忍耐の行いは誉められている。 しかし、イゼベル(預言者を語るにせ教師)の姦淫と偶像崇拝の行ないのゆえに、それらの行ないは無にされ、イゼベルを信俸する者は”大艱難”の中に投げ込むと言うさばきが告げられている。 イゼベルはアハブ王の妻でバアルなどの別の霊に仕えさせ、姦淫と魔術を行ない、主の預言者たちをほとんど皆殺しにした。偶像崇拝の背後には悪霊がいる。主以外に拝むもの、すなわち、さまざまな偶像や宗教的根を放置して、それらと交わる事を容認することは”霊的姦淫”である。ローマの迫害時代の民衆信仰はエジプトの母子神(イシスとホルス)であった。その後、キリスト教が国家宗教になった時からは、マリヤ崇拝が容認された。 このような状態でのきよめに為には、終末の大艱難の激しい試練を受けなければならない。逆に、イゼベルの霊に打ち勝った者は、思い(=霊)と心(=たましい)が主によって探られ、本当に純粋であると認められた者である。(本当のイスラエル(ヨハ1−47、当時ガリラヤから多くのにせキリス トが出ていた)、 サタンの深いところ=グノーシス、ほかの重荷=律法)  鉄の杖で打ち砕くようにして治める支配権は、イエス様、および、イスラエルの初穂(黙14−4)にのみ語られている。また、明けの明星は日の出直前の暗闇に輝くものである。


 5)  サルデス教会;

 サルデスとは”残りの者”という意味である。この教会に、主は、7つの御霊と7つの星(御使い)を持つ者、すなわち、すべての霊的権威と力と支配の称号を語って励ましている。 サルデスは歴史上何度も、難攻不落な要塞に安心してペルシャやシリアに落とされている。当時、サルデスにはスミルナやペルガモのような激しい迫害は無かった。教会は、名目上はキリストの名を持っていても霊的に死んでいる教会であった。 死にかけている人々に対し、悔い改めて初めの純粋な信仰を思い出し堅く守るようにと語られている。 白い衣は、この無気力で退廃的な町の中で、主にあってのきよい生活をすることのゆえに与えられる。 主の御名を人々の前で言い表す者には、イエス様は御父とすべての御使いの前で一人一人を言い表し、永遠に天国の万衆に対し面目を施す約束をしている。(マタ10−32、33)
(「こんな状況でよく生きていたね」と)


 6)  フィラデルフィヤ教会;

 フィラデルフィヤ(兄弟愛の意)は、古来、ヘレニズム文化の伝播基地として”開かれた門”と呼ばれていた。スミルナと同じように自称ユダヤ人(現代では名だけのクリスチャンに迫害されていた。(スミルナのポリュカルポスの殉教時にフィラデルフィヤの11人が共に殉教した) 聖なる=被造物と区別され超越している存在、真実=御子イエス様が十字架にかかられた事、ダビデのかぎ=天の門を開閉する権威。 フィラデルフィヤ教会は小さい教会で少ししか力が無かった。その割に、迫害下で主のことばを守り、主の御名を言い表した。それゆえ、この教会に天が開かれていて、さらに、自称ユダヤ人が来て悔い改めるようになる。 また、主の忍耐について特別に語られた事を守るので、終末の大艱難期に守られる。 天にあっては、王位を受け、聖所の柱(重要な位置)として組込まれ、御父とイエス様の新しい実質が天の新しいエルサレムの実質と共に柱に描かれる。 (AD17に町が倒壊する大地震があり、人々が脱出した歴史があった。(3−12))


 7)  ラオデキヤ教会;


 ラオデキヤ教会は信仰的になまぬるい教会として主から非難されている。 なまぬるさの原因は、教会があらゆる物質的な祝福が与えられて(ここまでは良いが)、それらが偶像となり、神以上に依り頼ませるものとなってしまった事にある。それゆえ、霊的には貧しく、盲目で、裸である。 (ラオデキヤ市への長い水道管が太陽熱で暖まる(あるいは冷える)為、冷たい水も、熱い温泉水も、ぬるくなってしまっていた。キリストや12使徒たちの時代から時間がかなり経っている為でもあるが、むしろ、すべての源泉である主から遠く離れている事を示す。)  アーメン=真実な=語った事を必ず成し遂げる、の意 ・・・ 必ず、世の終わりにリバイバルと迫害がある事。 そして特に、聖霊のバプテスマと聞き従いの歩みが勧められている。火で精錬された金(聖霊様による純粋な信仰(この場合、金=信仰))、白い衣(キリストの品性(コロ3−12))、目薬(主のビジョン)、主の声を聞いて戸を開ける+共に食事をする(主の御声に聞き従う=主と共に歩む信仰の歩み)。  勝利を 得る者は、なんと、永遠に主と共に主の座に着くことが許されるのである!。最も主から遠かった人々が最も主と近くなり得る。


 ex) エペソ : 人間的で未信者社会の人々のように歩むプロテスタントの教会、大きな教会
     スミルナ: 共産圏・イスラム圏にある教会、保守的教会による迫害下の教会
     ペルガモ: 反キリストの支配地、偶像崇拝の地にある教会、国家との妥協の教理
     テアテラ: マリヤ崇拝をするカトリック教会、霊的姦淫を容認する教理
     サルデス: 退廃的な雰囲気の国の教会、戦争・殉教などの残りの者
     フィラデルフィア: 多少聖霊の力があるカリスマ教会、にせ教理と戦う教会
     ラオデキヤ: 自由主義国の裕福な教会


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