聖書の至聖所    
                     ・・・  ヨハネの福音書17章(1〜5節)の講解について


 1. 人の子の時 ・・・ ヨハネの福音書17章1節;

 「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。 「父よ。 時が来ました。 あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。」」


 ヨハネの福音書の14章から16章までは、最後の晩餐の時からゲッセマネの園への移動中の告別説教である。 裏切り者のイスカリオテ・ユダが出て行った直後、イエス様は心を開かれ、11人の弟子たちに、御父の奥義を余すところなく解き明かされ、また、兄弟愛という神の新しい戒めを与えられた。
 そして、17章は、神の大祭司イエス・キリストとしての、父なる神への祈りの箇所である。 (1〜5節 ・・・ 神の犠牲の小羊であるイエス様ご自身のための祈り、 6〜19節 ・・・ 使徒たちのためのとりなし、 20〜26節 ・・・ 使徒たちのことばによって信じるすべての人々のための祈り)


 「父よ。」

 ・・・ 神は本当に不思議な方である。 神は唯一でおられるのに、御自身の人格をはっきりと、父と子と聖霊の3つの現れに分けられ、私たち被造物に常に能動的に働きかけておられる。 そして、御子イエス様は、御父を実に親しく、幼い子供が呼びかけるように、”アバ(おとうちゃん)”と呼んでいる。 それは当時の律法的な宗教社会ではとても考えられない、また、少なくとも旧約聖書の恐ろしい神を知っている人々にとっては想像を絶する、驚くべき呼びかけである。 これこそ、従ってきた弟子たちだけにそっと明らかにされた、父と子の本当の愛の姿である。 この愛の信頼関係こそが、十字架やすべての迫害や困難に打ち勝ち、神の栄光を現す原動力であった。 そして、御子イエス様の十字架によって、私たちもこの御父と御子の愛の関係の中に入れられたのである。 この愛の関係に入れられることが、すなわち、救いであり、全宇宙が創造され、また滅ぼされ、新天新地が創造される目的である。


 「時が来ました。」

 ・・・ 神は時間を超越している全知全能の存在である。 しかし、すべての被造物のために、時の流れを創造した。 そして、(起点はあるが)永遠に続く時の流れの中に、御子がその身を置かれ、”十字架の時”という、後にも先にも無い、時代の節目の(*)恐るべき特異点をあらかじめ計画しておられた。(**)
 神は時間を超越した全知全能の存在であるが、御子イエス様は、あえて神のあり方を捨て、私たち被造物と同じようになられ、時の流れに身を置かれた。 神は時の流れの中に、この天地にかかわるすべての出来事を計画し、定めておられる。 御子イエス様は、このとき、天地万物が創造されて以来の、またこの後にもない、地上における最も大いなる、”神の時”を知られ、重大な決断を持ってこう言われたのである!。

  (cf. イザヤ、ダニエルなどの預言にも見られるように、預言者は時間的な束縛から解放され、地上における未来の啓示を、すでに完了したものとして持ってくる。なぜなら、預言する者は神の領域にいて、そして、神にとっては、すべてはすでに完了しているからである。)


 「あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。」

 ・・・ 直訳では、「あなたに光を輝かせるために、あなたの子を光り輝かせてください。」となる。 イエス様がいのちをささげることによって、ご自身の栄光と、御父の栄光を現すことができるように祈っている。

 イエス様ご自身の栄光とは、不条理で残酷で卑劣な十字架の死をもって、本当に真実な神の愛のあかしがなされることである。 
 また、御父の栄光とは、完全に打ち砕かれたいけにえとされた正義が、すべての深みから、すべての分捕り物と共に、イエス様を復活させた、底知れない、恐るべき、圧倒的な神の力のあかしである。 

信じるすべての者が、永遠に神の子たる身分を受けることは、ただ、御父と御子の激しい愛の関係に基づいてのみなされたのである。


 *  天地創造から約2000年目にノアの洪水〜地が揺り動かされた時、約4000年目にイエス様の十字架、約6000年目に終末のさばき〜地だけでなく天も揺り動かされる時、約7000年目に天地の終り・新天新地の始まり〜永遠まで。 AD2000年以降の終末の始まるまでの時間は、主のあわれみの延長期間である。(天地7000年説による)

 ** イエス様がナザレで説教された時、さばきの箇所をあえて読まれなかった。(ルカ4−18、19)で、「・・・捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」で止められた。( イザヤ61−1、2では、そのあと「神の復讐の日を告げ」と書いてある。) それは、この時代の節目の時、イエス様は全人類の罪のさばきを一身に受けられる為に来られたことを知られてのゆえである。


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