2. 御子の権威と永遠のいのち ・・・ 17章2〜3節;


 「それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠の命を与えるため、 あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。」 (17−2)


 ・・・  御子は神の愛の現れであると同時に、神のへりくだりの御性質の現れでもある。 イエス様は神であるから、第2位格の子なる神としての権限をいつでも無限に行使できたはずであった。(実際、天地創造は、神のことばである御子イエス様が行った。)そして、たとえば、サタンを一瞬のうちに地獄へ叩き落すこともできたであろう。

 しかし、イエス様は、その御子としての権限をあえて用いず、バプテスマのヨハネの所へ行って洗礼を受け、聖霊のバプテスマをお受けになった。そして、人としての力に頼って、サタンの試みを受け、そして、すべての神のわざをことごとく御父に聞き従って成し遂げていったのである。

 そして、十字架上で、肉体においても、また、たましいにおいても、この上もない痛み・苦しみを通られて、時間を超えて歴史上のすべての信じる人々の罪の贖い(サタンからの買戻し)を完了させた。 この、御子の持つ、すべての人々を支配する権限は、御子の十字架上における苦難のゆえのものであり、したがって、それは非常に尊い権威なのである!。

 この権威は、人間の両極端な究極の運命を決定するものであるが、御子の十字架の苦難を通しての権威の尊さのレベルは、被造物全体の中の本当に取るに足らない、ちりのような人間、しかも、神から離れていた汚れ果てた罪人を、一挙に、神と一体の神の家族としてしまうほどのものである。(これ以上の大抜擢はない! ・・・ 乞食が王子になる。滅ぶべき汚物のような被造物が、永遠に創造主である神の世継ぎの地位を得る!。)


 そして、御父は、力ある幾千幾万もの御使いたちを差し置いて、本当に愚かで弱々しい小さい被造物である私たちをわざわざ選び、御子イエス様の権威を分け与え、神の働きを成し遂げるために用いることを導いておられる。 御使いたちは、大宇宙の摂理や銀河・星々を支配するよりも、たった1人の最も小さいクリスチャンに仕えることを望んでいる。なぜなら、神の関心事は実に私たちにあるからであり、御使いたちはいつも御父の顔を見ているからである。

 もし私たちが、御こころにかなった痛みや苦しみを甘んじて(=喜んで)受けるならば、それは主からの威に成り代わっていく。 十字架はサタンの最大の勝利であったが、実に、神の最大の勝利に変えられた。 そのように、傷を受けた人が主の導きの過程で癒された場合、いやしの権威、 束縛にあった人が解放された場合、解放の権威が与えられる。 また、この世で栄光を受けなかった分については、特別の永遠の権威になっていく。 ((ex) 王権 ・・・ スミルナ教会、フィラデルフィヤ教会、 諸国の民を支配する権威 ・・・ テアテラ教会)



 「その永遠のいのちとは、彼らが唯一まことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」 (17−3)

 ・・・  永遠のいのちとは、単に、地獄の苦しみから救われることだけではなく、御父と御父が遣わされたイエス様を、永遠に続けて、体験的に知り続けることである。((ギ)ギノースコーシン: 知り続ける) 天国は決して退屈な所ではなく、絶えず増大する主の栄光の経験である。

 全被造物を代表する4人の御使いたちは、御父の御座の周りを、彼らが造られてから今に至るまで、「聖なるかな!。聖なるかな!。聖なるかな!。」と絶え間無く叫び続けている。それは、彼らが一周するたびに、今まで一度も見たことがない御父の栄光の御姿を新しく発見するので、その力強い御使いたちでさえ、感動のあまり思わず叫ばざるを得ないからである!。 彼らはロボットではなく、自由意志を持つ被造物であり、そのことが主の満ち満ちたあまりにも偉大な栄光のあかしになっている。(黙4−8)

 新天新地の新しいエルサレムは、光を通すための透明な碧玉で造られていて、御父と御子イエス様の栄光の光が、そのすべての所に反映して、新しいエルサレム全体が光り輝いている。
 栄光を反映させるべき天国の構造物を”常”とすれば、主の栄光がそれらに反映される時、それは不思議な感動といのちの喜びにあふれ輝く良い意味での”異常”である。それは、力ある主の栄光いのちの回復だけではなく、尊い主の犠牲の愛を永遠に知らせ続けるものである。(黙21−23)

 そして、その御国の永遠のいのちは、この地上にあっても、すでに継続的に受け取ることができるものである。 アダムとエバは、主によってすべて備えられた環境の中に置かれ、そこで主を礼拝し、また、仕事をし、それらの中に主の恵みの喜びを味わっていた。 (何気ない自然現象の中に主の栄光を発見した時、 通常の物理法則に対する奇跡やいやしの現れを見た時、 音楽や賛美曲の中の聖霊様による盛り上がりの部分、 通常の知的会話に対しての預言、油注がれたみことばを見出した時、 聖霊に導かれて、心から主を礼拝できた時に現れる主の臨在の喜び、 さらに、主の栄光といのちの回復の力の中に、主の犠牲の愛を発見した時、など。)

 御父こそ、創造性の塊であり、すべての創造性の源泉たるお方である。

 神の豊かに豊かに有り余る創造性は、大宇宙のほとんど意味を持たない無数の銀河団や星間物質を造り上げるほどであり、そのほんの一部の太陽系や地球を創造し、さらにその中の取るに足らないほんの一部の、まさしく私たちに非常に大きな関心を持っておられる。
 また、あらゆる考えやすい人の思索と逆の方法(神の知恵)で、自然が神の栄光をあかしするように設計された。(ロマ1−20、自然啓示) そして、いつの時代でも、神は、この世の知恵を愚かなものにされた。(Tコリ1−20、21)

 さらに神は、人間社会において取るに足らない”心の貧しい者(へりくだった者)”や”幼な子(疑わないで単純に信じる者)”を選び出し、物理法則を越える奇跡のわざを行なわせ、神の栄光が現されるように計画された。 神の奇跡のわざを見た者は、御父を見たのである。(ヨハ14−9〜12)

 そして、御子イエス様の十字架こそ、神の知恵の中心である。 御子イエス様を信じる者は、すでに、御父と御子を知り続けること、すなわち、永遠のいのちを味わっているのである。



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