3. 神の最大の奥義 ・・・ 17章4〜5節;

 「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。」(17−4)


 地上において御父の栄光を現わすとは、イエス様が3年半の公生涯で行なわれた非常に多くの奇跡のわざの事を言っている。(知的な人はそのことがわかりにくい。(ヨハ14−9)) そのわざの多さや多様性は、いちいち文書に記録したら世界中の図書館にも入らないくらいである。(ヨハ21−25)

 受肉された御子イエス様は、ことばなどによって、御父から示される部分的な情報を受け取りそのとおりにわざをなされ、また、そのとおりに語られた。(ヨハ5−19、20) これが、イエス様の一貫した歩み方であった。そして、その歩み方をするように、私たちに対する模範として示されたのである。

 御父は全知全能であるが、御子はあえてサイコロを振られる。そして、御父と御子の非常に激しい愛の信頼関係がそこにある。(予定論と自由意志の調和
 神が私たちの信仰を喜ばれ、私たちがイエス様に倣う信仰”によって義とされる理由はまさしくこれである。(*)
 御子イエス様は、失われた者を”探し出す方”(ルカ19−10)であり、十字架の直前には人の弱さをもって動揺を受けた(ヨハ12−27)、再臨の正確な時は御父のみが知っておられる(マタ24−36)、マリヤの激しい泣きわめきに対して涙を流された(ヨハ11−33〜35)。

 しかし、実は、御父こそ、全知全能でありながら、すべての被造物よりも最も感情的なお方である。そして、御子イエス様を身代わりに十字架につけて殺すほどに、また、与えた聖霊をねたむほどに(ヤコ4−5)、あらかじめ定められた私たちを愛し慕っておられる。 神が時を造り、空間を造り、天地万物を造られ、大部分の無駄な部分を含めて遠大な計画を成就していったのは、ただ私たちに御父の愛の御性質をあかしするためであった。



 「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」(17−5)


 直訳:「そして、あなたご自身と一緒に、私を光輝かせてください。」 今度は、イエス様ご自身を犠牲として捧げることすなわち、その十字架の愛とそれに続く復活の力によって、主の栄光を世に余す所無く現わすことを、自ら進んで求めている。

 「世界が創造される以前に共にいて持っていたのと同じ栄光」とは、時間が創造される以前の永遠の初めから、非常に強く激しい愛の中におられる存在であることを現わしている。 これこそ御父と御子の相互に思いやり、犠牲的に愛し、憐れむ、まさしくそのような御性質の神を現わしておリ、神は愛(Tヨハ4−16)、という、”神の最大の奥義”がここに明らかにされた。

 そして、実に、その御父と御子の愛の中にわたしたちも入れられたのである。 その愛は、安易な道を許さず、十字架を喜んで通るほどのものであり、また、決して妥協する事が無く、どこまでも真実である。 また、その純粋さと激しさのために、さばきがなされるのである。 愛が動機としてなされる事はすべてにまさって力がある。 賜物の働きは主の再臨と共にすたれるが、愛はいつまでも続く。(Tコリ13−10)

 愛の無い、合理主義的な考え方では、決して十字架を理解する事はできない。 なぜ、わざわざ神の子が、ご自分を無にして、最も残酷かつ不条理な十字架の死にまで従わなければならなかったのか?。 それは、単純に、この愛こそが、神の本質だからである。愛とは互いのために死ぬことである。そして、私たちも、その死の過程(蝶の羽化の前のさなぎ状態・何もかも失った0状態)を通って、結果的に生かされるのである。 兄弟愛は、このように、キリスト者にとって非常に根本的な神の実質の現れである。(逆に、兄弟愛を具体的に示さない者は、神からの霊ではない事になる。サタンは常に自己中心である。(イザ14-13、14では”私は・・”としか言っていない事に注意))


 *  「まことに、あなたはご自身を隠す神」(イザ45−15)

 神は天地万物を一瞬にして造られた全知全能の方であり、また、私たちを初めから主のものであったように、すべての摂理を造り替える方である。 にもかかわらず、理性の声と区別がつくかどうかというレベルの聖霊のか細い声で語られ、ある意味では、なかなか主の存在のしるしを見せてくれない方である。
 しかし、それは主が、私たちが信仰の歩みをする事を導いておられるためであり、その信仰により御父は喜ばれ、永遠の義と認めて下さるからである。

 物質がそんなに確固としたものではない影のような存在であり、宇宙が想像を絶する非常に広大な被造物であり、また、生物体が非常に精密でデリケートな存在である事が明らかにされたのは、歴史の流れから見てごく最近である。
 また、奇跡や預言などの御霊の賜物の働きが回復してきたのも、ごく最近になってのことである。
 夜明け前の、主の再臨直前の時が一番暗い。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は、主の大勝利を見るのである。


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