(2) 神の聖なる性質の程度


 父・子・聖霊の三位一体なる唯一の人格神、”主”は、創世記にあるように、天地万物を創った”全能の神”であり、また、聖書の律法にあるように、他の神々を認めない”聖なる神”である。

 ”聖なる”ということばの第2義的な意味は、”語ったことばを必ず成し遂げる”である。
 創世記に、神が「光よあれ」と語って光ができたと記されているように、創造のわざは神の語ったことばによる。それと同じように、今日でも、神が語ることばによって再創造のわざ、すなわち奇跡が起こるのである。

 神の聖なる事の程度は、被造物である自然の性質を見るだけでも人の思索をはるかに越えるものである。創られたものは、創作者の性格を反映するものであるから、自然界の構成や法則や規模を見るとき、創造主の聖なる程度がいかに並外れたものであるかがわかるのである。

 宇宙は果てしなく広く、その端から端まで光の速度で100億年以上かかる。物質はどれ一つ例外無しにマクロからミクロに至るまで一定の法則に厳密に従い、数学で単純に記述される方程式を満たすように規則性をもって動いている。素粒子は想像を絶するほど小さく高密度であり、粒子性と波動性という全く異なる二面性を見事に現す。そして、他の物体は大雑把な塊であるのに、生物体だけは(特に遺伝子は)分子レベルの異常に精密な針金細工である。(LSIさえもちょっと拡大すれば巨大な岩にすぎない。)
 それだけではなく、人の心も非常に複雑かつデリケートなものであり、本人以外に自身の事を知る者は無い。
    
 時代の終焉に来て、2000年前の十二使徒の時代に比べ、はるかに深く、広く、あまりにも正確に自然の姿がとらえられている事は、神が神自身の聖なる性質を非常に強く現すことをこのような形で計画していた事にほかならない

 それに加えて、量子論により、自然は根本から全く不可思議な振る舞いをしていて、人間はその一個を予測する事すら(原理的に)できない、という、無力で無知な存在である事が明らかになったのである。

 そうすると、人類は、この”全知全能の神”を無視し、背を向け続け、あたかも人間が神であるかのごとく大言壮語してきたことになる。


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