(3) 神の愛 ・・・ 福音(良い知らせ)
さて、この聖なる”非常に力ある神”は、聖書を通して、人間に対し主を礼拝するよう( ・・・ 神はそうされるのにふさわしいから)、また、律法を守るように語っている。
これらに逆らう事は罪であり、神が罪のさばきを行う時、誰も立ちおおせるものは無く、それは非常に恐ろしい事である。
それどころか、人は罪を全く犯さないでいる事ができない存在である。なぜなら、罪の性質がすべての人にあるからである。(原罪 ・・・ 子供は教えなくても罪を犯す)
神は”聖なる神”であるので、どのような小さな罪をも見逃す事は無く、永遠のさばきを行う。事態は全く悲観的なものである。
ところが、約2000年前、神の子イエス・キリストが十字架にかかり、我々の罪の身代わりになって死んでくださったのである。それは、この事を信じるものが誰でも、神の前に罪許され、さばきから救われるだけでなく、永遠の命が与えられ、神の子たる身分が与えられ、神が備えているさまざまな恵みを享受できるようになる為である。神は、良いことをする、良い神である。だから、罪が無くなれば、恵みを与えるのである。
この、イエス・キリストの十字架こそ”神の愛”の中心である!。
最も驚くべき事かつ最も”幸いなるかな”と言える事は、神の二大性質の一つは”聖”であるけれども、もう一つが実に”愛”である事である。科学や技術のような法則的・機械的なものになじんできた我々にとってこれは非常に驚くべき事である。万物の創造主であり、すべてのものの上にある唯一絶対の神の性質の一つが”愛”であるとは!。
もし、神に愛という性質が無かったとすれば、神自身の満足のみを成就し、創った人の為には地獄だけを創っていたかもしれない。
しかし、神はそのひとり子を遣わし、結局、自分自身で人の罪を清算したのである!。
人は知性で神を知る事はできない。それは、神があまりにも高く、聖なる方だからである。
しかし、人には”信じる”という能力が与えられている。ちょうど、私たちが小さい頃、父・母を無条件で信頼したのと同じである。そして、”信仰”という方法をもって我々は神に近づくことができるのである。
神に信頼し、イエス・キリストの十字架と復活を信じるならば、無条件に罪赦され、神の民とされ、神の力をもその人生の中に味わってゆくことができるのである。
奇跡を起こす力は、イエス・キリストの復活の力と同種のものであり、信じる人々に与えられた聖霊の力である。(信じない人々は神の前に正しいと認められず、永遠に滅ぼされる。)
ひとりでも多くの人々が、今も生きていてあなたを愛しているイエス・キリストを信じて、永遠の命を受け、また、神が与える恵みのすべてを受け取っていくことを願ってやまない。恵みの時が終わる時が近づいているからである。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びる事なく、永遠のいのちを持つためである。」
・・・ ヨハネの福音書3章16節