3. 伝道者職、教師職、その他の職務
(1) 伝道者職 と 「勧めをする人」:
”伝道者”という言葉は、”良い知らせ(福音)をもたらす人”としてたびたび用いられているが、「伝道者職」についての新約聖書の中の記事は、唯一 ピリポだけである。伝道者の好むテーマは、最も単純な意味での「救い」であり、どのようなみことばから説教を始めても、彼らが宣べ伝えるのは ただ イエス様である。これが、「伝道者」のメッセージなのである。
「・・・・それから奇跡、いやしの賜物、・・・・」(Tコリ12:28)
「群集は彼が行なっていたしるしを見聞きして、彼によって語られていることに一つ心になって耳を傾けた。」(使8:6)
奇跡、いやしの賜物(をもつ者)とは、「伝道者職」のことを言っている。ピリポのミニストリーにおいて、真の伝道者であることを示すさまざまなしるし(奇跡、いやし)が現れている。賜物の現れを伴う伝道、これが可能な最高の宣伝方法となっている。もちろん、神の力は群集を引きつけ、奇跡やいやしは人々の注意を強くとらえるが、人々が救われるのは 彼が語るみことばを信じることによってである。みことばを宣べ伝えるまではだれも救われなかった。ピリポが「神の国を宣べ伝えるのを信じたとき、彼らは男も女もバプテスマを受けた」のである。
神様が、教会の中に置かれた様々な種類の奉仕は、互いに依存関係がある。神様は、一人の人が何でもできるようには、奉仕者たちを設定されなかった。私たちはお互いを必要とするのである。(特に、伝道者はこのことをよく認識しなければならない。) ピリポは、一人の伝道者として人々を救いに導く能力があったが、彼のミニストリーはそれを越えることはなかった。ピリポは、サマリヤでの大きな働きの後に、教会がペテロやヨハネを遣わしたように、教会を設立する能力、人々にみことばを根付かせる能力、人々に教えをする能力、聖霊のバプテスマを受けさせる奉仕などは持っていなかったのである。ピリポはイエス・キリストによる救いを宣べ伝え、人々を神様のもとへ導くという自分の仕事をしたのであり、その後は、神様にあって救われた彼らを引き継がせるために別の奉仕者たちが遣わされたのである。
私たちがいわゆる”伝道者”と呼ぶ場合の多くは、「勧めをする人」であると考えられる。(ロマ12:8) 奇跡やいやしの賜物などの超自然的備えは、「勧めをする人」の奉仕には伴わない。勧めをする人としてスタートし、それが忠実であるとみなされるならば、神様は後にその人を「伝道者」の職務に置かれることがある。ピリポは、初め「執事(助け手)」であり(使6:1−6)、使徒たちは彼に伝道を委託したことは全くなかったが、彼がサマリヤに下っていく時には
彼にはこの天来の賜物が燃えていたのである。
(2) 教師職:
伝道者が未信者(罪人)に語るのに対し、教師はもっぱらクリスチャン(教会)に語る。
教えの奉仕には、非常にはっきりとした 神様からの賜物の賦与が必要である。生まれつきの能力や、教えることが好きだという理由で「教師職」になるのではない。救われる前に学校の教師だった人が、救われ聖霊様に満たされ、教会で聖書クラスの有能な教師になることは、(正しいことをしているのではあるが、)奉仕としての教えの賜物が現されていることではない。
・ ケネス師は、実は、教えることが好きではなく、説教することが大好きで、長い間
説教者として伝道メッセージを語ってきた。説教すると、力が下ってきて さまざまな奇跡的なことが起こった。彼は早口で激しい説教をし、このことが油注がれていることであると思っていた。彼はこれを、”未熟”のためだったと言っている。人々は聞いても半分しか理解していなかったのである。
しかし、1943年6月のある日の午後3時に、突然、(電話機にコインが落ちるように、はっきりと)何かが彼の内側に落ちてきたことを感じた。これは神様からの賦与であり、教えるための(後天的な)能力だった。教会の祈り手たちが6、7人集まる程度の昼の集会で彼は説教していたが、この賜物の賦与の後、彼女らは何かが変わったと感じて 夫や他の人々にも話し、ついには会堂は満員になった。激しく説教していた時よりも、賜物の賦与の後、穏やかに教えているほうが神様の油注ぎが臨んだのである。
「私が植えて、アポロが水を注ぎました。」(Tコリ3:6)
水を注ぐこと(=神のみことばを教えること)が、霊的賜物によってなされるとき、人々は生き生きして命を取り戻すのである。教師職のアポロは、この教えの賜物によって人々を大いに助けた。
「「私が皆さんにお話したいことがいくつかありますが、皆さんはそれに堪えられないでしょう。」」(Tコリ3:1、2、
ヘブ5:11−14)
キリストが教師たちをお与えになったのは、教会を分裂させるためではなく、建て上げるためである。本当の平和の福音の教師ならば、キリストのからだを分裂させるような
”にせ教理”を教えることはしない。また、もし、何らかの「真理」が、混乱と分裂を引き起こすならば、ある期間は、それらの「真理」を教えることを避けるほうが賢明である、ということもある。
(みことばからの)啓示を伝えることは、教師の奉仕の特徴である。教師は、霊と知性をへりくだらせ、他からの教えを受けやすい状態、いつでも学ぶ準備ができている状態にいなければならない。神様から真理の啓示をみことばから受けるとき、今までの自分の愚かさを感じるのである。学べば学ぶほど、ますます知らない自分に気付く、これが教師である。
牧師職と教師職が兼務され、あまり動かないケースはよくあることである。単独の教師職の場合、諸教会の間を移動する「巡回教師」になる場合が多い。
また、次のことを、イエス様はケネス師に言われた。預言者と教師が兼務の場合は、預言者職を第一としなければならない。これは、みことばの3つの個所(Tコリ12:28、エペ4:11、使13:1)の優先順によるためである。
また、教会内においては、教えの職務は、奇跡やいやしの賜物(すなわち、伝道者の賜物)よりも重要である。(「・・・第三に教師、それから奇跡、いやしの賜物・・・」(Tコリ12:28)) 奇跡やいやし、また、どんな賜物よりも、クリスチャンを堅く立たせるのは、みことばを教えることによるからである。
(3) その他の職務:
「そして、神は教会の中に人々を置かれました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、それから奇跡、いやしの賜物、助けること、治めること、種々の異言です。」(Tコリ12:28)
「勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しみなく分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。」(ロマ12:8)
奇跡、いやしの賜物は伝道者、また、治めること、指導する人は牧師 のことを指していると考えられる。勧めをする人は、未信者に対し救われるように奮起させ、クリスチャンには慰め、励ますという、一つの別個のミニストリー(奉仕)である。
@ 助ける奉仕:
この「助ける奉仕」は、聖書ではいろいろな用語があり定説はないが、大まかに言って次のようである。
(1) これはおそらく、「執事」(使6:1−6、ピリ1:1、Tテモ3:8−13)、すなわち、その地域教会の施しの担当であり、貧しい人々や病人を監督する人々(「慈善を行なう人」)であると考えられる。ピリポは、この「助ける奉仕」からスタートした。神様は、彼の忠実さを見て、後に伝道者とされた。
(2) また、音楽の奉仕は、これに分類されると考えられる。人々が自分のタラント(才能、能力)を神様に聖別して捧げるならば、(一つの”職務”ではないが、)油注がれた「助ける奉仕」である。これは、非常に効果的に 預言者を助ける奉仕にもなることがある。(「預言者エリシャは竪琴を求めた。(U列3:15、16))
(3) 教会の働きやミニストリーを助けることに関係のある奉仕は、すべて「助ける奉仕」に属する。目に見える華々しい活動をしない、事務所で働いている人など。報いは忠実さによる。(「荷物のそばにとどまる者の分け前と同じ」、Tサム30:24)
A 異言と解き明かしの奉仕:
クリスチャンが個人的祈りの生活の中で聖霊様の満たされ、聖霊様が語らせてくださるさまざまな異言(Tコリ14:18のような)とは異なり、Tコリ12:28−30 で語られている教会に与えられた(他の人々に対する)異言は一つのミニストリー(奉仕)の賜物である。 「すべての人が異言で語るでしょうか」(:30)と言われている公の異言の奉仕は、そのように召されている人々の奉仕であり、異言の解き明かしと合わせて、預言の奉仕に近い。
異言と解き明かしは共に働く。
B 分け与える奉仕:
初代教会では、分け与える奉仕は、いやしや預言の奉仕などと同じように認知されていた、一つの奉仕のミニストリーである。これは、その人個人の財産について、捧げれば与えられるという 神様の特別な賜物を担うミニストリーである。この人は、神様のために適切に用いられている場所で、富が正しく用いられるために、自分の霊に耳を傾けることを学び、自分のお金をどこに捧げればよいかについて、祈って神様に聞く必要がある。