成熟の過程 ・・・・・ 預言者・牧師・奉仕者たちの成熟の過程
2007 6/15
* 現在は「主の組織」、「主の戦略」が作り上げられていく時 ・・・ by.リック・ジョイナー、2007.1
1. 神の召しと奉仕者
2. 預言者職 と 牧師職
3. 伝道者職、教師職、その他の職務
4. 日本における教会の発展
(参考文献) ・ 「神の奉仕者」、「教会・牧師・預言者」、ケネス・ヘーゲン、エターナル・ライフ・ミニストリーズ
1. 神の召しと奉仕者
ピリポは伝道者、ペテロは使徒、パウロは初め教師であり、後に使徒と呼ばれた。このように、奉仕の賜物(奉仕者)はフルタイムで奉仕(ミニストリー)をするよう神様から召されている人々である。そして、神様が召される人々には、その霊的な備えとして、霊的な賜物(超自然的な賜物)を備えてくださるのである。人が新生する時、神様は人を何に召したかを知っておられ、何らかの霊的タラントを備えられ、キリストの体のどの場所に置かれるにしてもその場所に立つことができるようにされる。
信徒を通して霊的賜物が働くこともあるが、奉仕者の場合は、それらの賜物によって
@ いつでも奉仕できるように備えられ、それは 信徒の人生の中で働く場合よりも A より大きな油注ぎをもってなされる。
これらの奉仕の賜物は、名前ではなく、力があってこそ意味がある。たとえば、自分で自分を牧師と呼ぶことはできるが、それで牧師になるわけではない。牧師には、牧会者としての油注ぎと 牧会に必要な霊的賜物(預言者ほど鋭くないが、知恵・知識、異言と解き明かし)が備えられる。(あるいは、求めれば与えられる。) 奉仕のすべての働きは、イエス・キリストの主権のもとにある。イエス様が教会の頭であり、ご自身の体のすべての働きを指図されるのである。イエス様は弟子たちに対し、単なる助け手としてだけではなく彼らの主として働かれた。同じように、聖霊様を通してイエス様は私たちの助け手であると同時に、私たちの主でもあられる。御父が奉仕の賜物をお与えになり、イエス様が人々を召し、聖霊様が備えを与えてくださり、私たちは主がなさるままにゆだねなければならない。私たちは職務を選ぶことはできないのである。
奉仕者として召されるのは、預言という方法によってではなく、直接イエス様から語られる。個人預言は、その召しに対する”確認”を与えて励ますものである。また、その召しに伴う霊的賜物についても、器からの按手によってではなく、聖霊様だけが霊的賜物を与えることができる。
また、神様の召しがある程度分かっていたとしても、ただちにその職務に入ることはできない。執事の職務には、信じたばかりの人を置かないように言われている。(Tテモ3:6)
神様は、預言者の職務に、未熟なクリスチャンや未熟な説教者を置かれることはない。何かの啓示を受けたから、少し預言したことがあるからといって、それがそのまま「預言者」の召しであるということはまずあり得ないのである。啓示の賜物が時々現れることと、それらの霊的賜物がより一貫性をもって働くこととは大きな違いがある。単純な預言の賜物の中で、知識のことば、知恵のことば、霊の見分けという啓示の賜物が働くことは全くない。
バプテスマのヨハネやヨナのように、預言者はまず第一に”説教者”である。
もし、本当にその職務に召されているなら、みことばの説教者、あるいは、教師であり、数々の預言は実現し、それらの預言は神のことばと合致し、また、他の人から教えを受ける姿勢を持ち、他の人がお願いしやすい人であることなどが備えられていなければならない。どこへ行っても争いや問題を起こし、どの教会からも敬遠されるならば違うと見てよい。
「一人一人に、自分のわざを是認される者として立証させなさい。その時、彼は自分に対してのみ、誇るものを持つことになります。」(ガラ6:4)
私たちがどのような立場にいても、神様のために忠実に働く(特に、みことばを宣べ伝え、教える)ならば、いずれ私たちが、精神的にも、霊的にも成熟する時、神様は私たちの召しが何であるかを知らせてくださるのである。そのために、ある程度霊的に成長し、賜物を伸ばして発展させている必要がある。
(* ケネス・ヘーゲン師(預言者(メインの職務)、かつ、教師)は、15年間牧会した教会を去った後で、イエス様が
開かれた幻(=最もレベルが高い幻)に現れ、彼が召しの第一段階に入ったと言われた。しかし、いろいろな理由で、多くの奉仕者が、イエス様が用意している奉仕の第一段階に入る前に(=未熟なうちに)寿命が来て死んでいるそうである。)
また、自分がその職務にいることを全く自分で宣伝する必要は無い。もし神様が召してその職務に置かれるならば、そのことを宣伝する必要が無いほど人々に知られるようになる。逆にそうならなければ、それは召された奉仕ではないのである。
どのような職にあっても、ミニストリーはみことばの土台の上に建てなければならず、決して霊的賜物の上にそれを建ててはならない。たとえ預言者であっても、みことばを宣べ伝えるミニストリーを推し進めていかなくてはならない。聖霊様の臨在が弱い時には、みことばから説教するべきである。(みことばと聖霊のバランス)
もし、霊的賜物を第一としていくならば、最終的には霊的ごみの山にたどり着く。すなわち、ある時は聖霊様にゆだね、またある時は、油注ぎ無しに肉によって働きをすることによって、オカルトの悪霊にゆだねる、ということが起こりうる。集会を開く前に、学ばず、祈らず、神様を求めることもせずに、機械的にミニストリーをするならば、このような悪霊(ファミリアースピリットなど)に身をゆだねてしまうことになる。ケネス・ヘーゲン師はイエス様に、「人々から離れていなさい。祈りとみことばのうちに、私の前で待ち望みなさい。」といつも言われ、それが集会前の習慣になったそうである。
また、主の声を知らないならば、その人は主の声を知るようになるまでは、自分が聞くことに基づいて行動すべきではなく、何もしないでいるほうが良いのである。