7. 罪人 と 神




   「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」(創3:22)


  これは、アダムとエバが禁断の木の実:「善悪の知識の木」を取って食べ、エデンの園から追い出された時の神様の言葉である。ここで注目すべきは、この「原罪」が入ってしまった人間が、「神様」と同じようになったと書いてある点である。すなわち、「神」と「罪人」には共通点があることになる。

  4.、5.、6.で考察したように、神様の本質は、”負帰還回路”含む”発振器”にたとえることができる。すると、原罪が入った人間は、神様からの御声に忠実に聞き従っていたアンプが、自己発振気味になり、神様からの情報を受け付けなくなり、コミュニケーションが弱くなって神様から離れる、ということになる。さらに負帰還の程度が強くなると、そのアンプは自己発振するようになる。これが、自分が”神”になって事の「善悪」を規定するという「原罪」の性質である。(ちょうど、オーディオ・アンプや高周波増幅器などの回路に発生する”寄生発振”のようなものである。増幅率が大きいアンプほど寄生発振が起こりやすい。)
  そして、このような有害な発振が存在するならば、それを除去すること、すなわち、「エデンの園」から追放することは当然の処置となる。


  アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べて最初にしたことは、自分を見、互いに相手を見ることだった。そして互いに恥ずかしいと思った。(恥意識: 創3:7) 次に、神様から離れ 隠れるようになった。(罪意識: 3:8−10) さらに、神様から問われた時、互いに自分以外の相手が悪いと答えた。(裁く心、怒り: 3:11−13) ・・・ 否定的な自己言及、相互言及

  この、寄生発振状態、自己発振状態が、神様とのコミュニケーションを断ち切っているのである。さらに、サタンは、神様との契約のみことばと正反対の情報をインプットし、寄生発振や自己発振を誘発するように耳元に語り入れようとする。だから、回路の修正、すなわち、「きよめ」が完全でない場合、サタンからの言葉というノイズを神のみことばによってシールドする必要がある。

 




     「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」 (ヘブ10:17)


  犯罪者とは、本質的に、人生に対し”負の判断”を行なう者である。
  1950年代 ダン・マクドガルトは、刑務所の犯罪者の知性に訴え、彼らのあいまいで自己撞着している言葉について、それらの言葉に対する完全な理解を彼らの内部に植え付けることによって、精神の姿勢を変える仕事をした。
  次に、犯罪者の最も大きな問題は、アルコール中毒者と同様に、”自分が無力”と思いこみ、その責めを人生になすりつけることである。犯罪者の多くは、(たとい高い知性と高潔さを備えていても)”自分を嫌悪”している。「あなたの隣人を自分として愛しなさい」の「自分(self)」とは「真の自己(naphsha・アラム語)」を意味し、人間は彼の”自己”をも愛さなければならないことを言っている。そこでマクドガルトは受刑者に、本当の責任は自分の心の中の混乱にあり、その負の姿勢にあることを教えた。クリスチャンのきよめも全く同じである。
  ( → 3.犯罪者の矯正とクリスチャンのきよめ


  神様からの御声を聞くために、また、説教やミニストリーにあって神様の通り良き”管”となるために、一番しなければならないことは、これらの自己言及、相互言及の否定的な部分、すなわち、恥意識、罪意識、拒絶の傷、裁き、怒りなどを取り除くことが必要である。(だから、預言学校などでは、これらの神様との関係を阻害する要因をたましいから取り除いて、癒されることを最初の段階で行う。)
  インナーヒーリングとは、まず、過去の自分に何が起きたかをよく理解し、内側がいやされなければならない。そして次に、悪魔を追い出す、という手順で行われる。(多くのペンテコステ系の教会で行われているように、)いきなりサタンを追い出そうとしてもその解放は全く行われない、あるいは、解放の程度が浅く、その人の人生に何の変化もないのである。
  (このとき、内側の問題が何であるかを知るために、預言、知恵の言葉などの「啓示の賜物」が非常に効果的に用いられる。)

  (* ソン・ファニン師の教会の前には灰皿が置いてある。タバコを吸うクリスチャンの人たちが、他の教会からソン・ファニン師の教会に集まってくるためである。他の教会の多くの”聖なる悪魔”たちから”拒絶”を受けているのである。しかし、師はタバコや酒などの外面的なことではなく、その人の内側にある問題、傷のいやしに注目しているのである。)


  「赦し」は福音の本質である。赦すとは、「肉に死ぬこと」である。そして、神様のみことばによる、新しい自己イメージが作られなければならない。私たちが、十字架にかかられたイエス様と共に死に、十字架の贖いを信じて救われているならば、契約のみことばから、神様はすでに赦しているのである。

  ”怒り”とは、多くの場合、自分に対する怒り、自分を赦せないことに起因している。(”自分に対する怒り”の問題をあまりにも長くもっているならば、その人は”これが私の性格だ”と言う。しかしそれは、間違った自己イメージ、間違った痛みである。そして、(人生の失敗などによって)自分を赦すことができない、自分が嫌いだ、ということが、人生に多くの問題を引き起こしているのである。)
  自分を赦すことができないということは、実は、自分が神の立場に立っていることと同じ(= 原罪)であり、高慢である。プライドは、神様が最も嫌われることである。自分で、神様と自分との間に壁を築き上げているのである。自分に死ぬということは、自分の失敗を受け入れ、へりくだって恵みを受けることである。へりくだることは自分のプライドに死ぬことである。

  過去の失敗は、済んだ事であり十分である。神様は、どこからでも、新しいスタートをさせて下さることができる。私たちはそのままで神様に受け入れられているのである。私たちは”失敗者”ではなく、「神の子供」である。



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