自然啓示 と 神
2007 9/28
世界中に多くの宗教が存在する。しかし、キリスト教は、最も独特な宗教である。ある人は、”変な神”と言う。 なぜなら、創造主の「神様」が、十字架にかかって「死んだ」からである。(もちろん「復活」されたが。) このような神は他の宗教には無い。
自然にある多くの摂理は、神の存在を証している。しかし実は、私たちの自然的な思索を押し通していった結果、わたしたちの思いもよらない逆説的な定理: 「不完全性定理」が導かれた。それは、たとえば”万能コンピューター”のような、私たちの理性で認識することのできる”全知・全能の神”のような存在は、その可能性がすべて否定されるのである。
そして、私たちの思索も、客観的に見た自然も、イエス・キリストの十字架: 「神の愛」を本質的にあかししている、と言わざるを得ないのである。だから、キリスト教の神こそが、唯一、私たちの思索や自然の法則に適合していることになる。
1. キリスト教の神とみことばによる三位一体
2. 仏教・ヒンドゥー教と自然啓示
3. サムシンググレートの存在
4. ユダヤ教・イスラム教と神の存在論
5. コンピューターと神
6. 数学思索の不思議
7. 罪人 と 神
1. キリスト教の神と みことばによる三位一体
日本人にとってキリスト教は、非常に特異な宗教に見えることだろう。キリスト教というと、なぜか、儀式主義のカトリックやキリシタン迫害を思い浮かべる人も多いと思われる。だから、生きて働く聖霊様の力ある奇跡のわざについては、全く聞いたこともない人が多いだろう。また、日本人は、キリスト教で言うところの、「罪」、「悔い改め」、「神様との契約」の概念の捉えが非常に弱く、あいまいで、誤解されている。イエス・キリストの十字架を、単なる教会のシンボルとしてしか捉えていない人も多いだろう。そして、アメリカ福音派という国家宗教やヨーロッパのカトリック教会の建物やローマの遺跡のような伝統とは、日本の伝統は違う、日本人は仏教・神道の国だ、それぞれの国にそれぞれの宗教があって、それぞれの神様を信じていればよいではないか、と言うのである。
漠然とした”神”の存在を信じる人も、なぜ、神であり神の子であるイエス・キリストが、あの野蛮極まりないローマ帝国の、しかも、極刑である十字架刑によって死なれたか、非常に不自然なことと感じるだろう。 そもそも、「神」が死ぬ事ができるのだろうか?創造主であり、全ての支配者である神が存在するとすれば、なぜ神が、そのような苦しみに遭わなければならなかったのだろうか?
また、「神の三位一体」という概念が理解できない。「父」、「子」、「聖霊」の3つの現れがあって、なおかつ、一人の神。1
+ 1 + 1 = 1 のように、初めから矛盾している!
そこで、キリスト教の神の概念を、すでに世界で公に知られている科学的な基準を用いて、検証してみようと思う。その結果、万人にとって客観的であり公正な手段である、数学・論理学の思索、あるいは、全宇宙を貫いて成立する物理法則というものが、仏教、ヒンドゥー教、ユダヤ教、イスラム教、無神論、コンピューターなどに全く適合せず、キリスト教にのみ完全に適合している、ということがわかるのである。
( → 以下、2.〜6.に詳述 )
キリスト教の聖典である「旧約聖書」、「新約聖書」のみことばから、「神の三位一体」が、カトリックでもプロテスタントでも結論付けられている。(三位一体を何らかの形で否定する宗派・教理は”異端”であり、霊が異なっている。) その一部を以下に述べる。
(1)父=神:
「私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、・・・また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、・・・」(Tコリ8:6)
(2)父=子:
「わたしと父とは一つ(同一の本質)です。」(ヨハ10:30)
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。・・・その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」(イザ9:6)
(3)子=神:
「このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。」(ロマ9:5)
「御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、・・・」」(ヘブ1:8)
(4)子=聖霊:
「その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」(マタ1:20)
(5)聖霊=神:
「主の霊は、私を通して語り、そのことばは、私の舌の上にある。イスラエルの神は仰せられた。・・・」(Uサム23:2−3)
「さて、御霊(聖霊)の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。」(Tコリ12:4−6)
(6)イエス・キリスト=旧約聖書の主:
「もしあなたがたが、わたしのことを((直訳)わたしは”在る”という者である(I
am that "I am")ということを)信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」(ヨハ8:24)
+ 「神はモ−セに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」」(出エジ3:14)
(7)初めから三位一体を暗示する所:
「さあ、降りて(単数)行って(複数)、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」(創11:7)
「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」(創3:22)
・・・・・三位一体という言葉は直接聖書には書かれていないが、聖書には一貫して、父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神(神の霊。信じるすべての者に与えられる。)という三つの位格があって同時にそれが一つの神である事が書かれてある。三位一体は知性では決して理解されない”神学的深遠の問題”と呼ばれるものである。
どれか一つを強調しそれに言及することは問題ないが、三つの位格のうちのあるものが他より低い位置に置かれる教理をもっているならば、それは霊の異なる”異端”である。 たとえば、”エホバの証人(ものみの塔)”では父なる神よりもイエス・キリストが低い位置に置かれているので、キリスト教界では明確に異端とされている。 (また、ユニテリアン(「父なる神」のみ)、三神論も、三位一体でないから異端である。)
イエス・キリストは神としての性質に従って、へりくだって人としてこの地上に生を受けたが決して神よりも低い者ではなかったのである。もし、神よりも低い者が人の罪の身替わりに十字架にかかったとしても、それは”聖なる神”の前に何ら義(正しい)と認められないのである。
イエス様が完全な神であるからこそ、十字架がそれほどまでに効力があるのである。
また、神は複数ではなく、ひとりである。神の聖なる性質により、他の神(すなわち神に成り代る善悪の規定者)の存在を神は許すことはないのである。