3. 犯罪者の矯正とクリスチャンのきよめ
(1) 犯罪者の矯正
犯罪者とは、本質的に、人生に対し”負の判断”を行なう者であり、欲しいものは手で掴み取る以外に手に入らないと考える。そして、世間を不愉快な場所と思いこみ、人生に対し頑固な防衛的態度で対応し、ほとんどの犯罪者は、彼らの本来の能力や可能性よりもはるかに低いレベルで行動している。犯罪者の暴力は何をしても目的が達成されないという感情から発する。
自己憐憫は、虐待を受けた事、あるいは、極端に甘やかされて育てられた事、のどちらによっても形成される。これは、”世間は自分をむごく扱う”ことを第一認識としている。この自己憐憫は、多くの犯罪者特有の”仕返しのロジック(投射)”(= ”私を痛めつけた人間を痛めつけることができなければ、だれか別の人間を痛めつけてやる”)の最も根深い原因になっていて、つまらない口惜しさを無差別の犯罪によって発散させるようになる。
ほとんどの初期の矯正施設(1960年代のニューヨーク)による働きがうまくいかなかったのは、心の奥底にわだかまっている問題についていくら教えても、第一に存在する硬い殻である、前章A
の”閉め出しメカニズム(自己欺瞞)”を無視して矯正しようとしていたからであった。 矯正に成功した例としては、犯罪者が犯罪をやめたいと自分自身で思った場合は、罪に対し選択と意志と制止を行うことができ、社会に出てからも同じ罪を犯さなかった。
この”自己欺瞞”により、多くの犯罪者が決して”自分が悪い”とは言わないで、すべての証言を自己正当化する傾向にある。
この間違っている心のブロック機構は、「言葉の理解」と深く関係している。たとえば、ある犯罪者についての一連の言葉についての連想は、「クリスマス」:”くだらねえ”、「親切」:”だまされる”、「慈善」:”ばからしい”、「愛」:”意志薄弱”、「隣人」:”めんどうくさい”、・・・などであった。
1950年代 ダン・マクドガルト(福音伝道者、行刑学者、弁護士)は、犯罪に関するキーワードとしてのキリスト教に関連した言葉、「愛」、「罪」、「隣人」、「罰」、「責任」などについて、反社会的人格の所有者の理解を調べたが、それらの理解は たいてい不完全で自己流に解釈(自己撞着)していた。たとえば”責任”について、アルコール中毒者は他人になすりつける傾向にあるが、この”責任”という言葉の理解はあいまいで矛盾している。
そこで彼は、まず犯罪者の知性に訴え、これらの言葉に対する完全な理解を彼らの内部に植え付けることによって、精神の姿勢を変える仕事をした。
次に、犯罪者の最も大きな問題は、アルコール中毒者と同様に、”自分が無力”と思いこみ、その責めを人生になすりつけることである。犯罪者の多くは、(たとい高い知性と高潔さを備えていても)”自分を嫌悪”している。「あなたの隣人を自分として愛しなさい」の「自分(self)」とは「真の自己(naphsha・アラム語)」を意味し、人間は彼の”自己”をも愛さなければならないことを言っている。そこでマクドガルトは受刑者に、”本当の責任は自分の心の中の混乱にあり、その負の姿勢にある”ことを教えた。
この”情緒安定教化コース”によって、ジョージア州レイズビル刑務所の受刑者(多くは
反社会的な”強度精神病質者”)の63%がほんの数週間で社会復帰が可能になり、1年半の追跡調査でも逆戻りの兆候は見られなかった。しかも、一人のインストラクターが22人の受刑者を教導し、さらにその受刑者のうちの4人はインストラクターに選ばれた。
また、1945年アルフレッド・レイノルズに、捕虜になったナチスの仕官クラスの若い党員たちに対し
ナチスの洗脳を解く任務が与えられた。彼らは皆 ブルーナーの猫のようにレイノルズの言うことを鼓膜の所で撃退しようと構えていた。
しかしレイノルズは、ナチスの悪を弾劾する説教を一切せず、彼ら士官たちが
国家社会主義(ナチズム)をどのように理解しているかの説明を求め、一種の自由な討論の場にした。彼が本気で知ろうとしているのを察知して、士官たちは徐々に語り始めた。彼はおだやかに耳を傾け、随所で質問をはさみ、矛盾点があればそれを指摘した。すると、数日のうちに、士官たちのナチスの呪縛はきれいに解消したのであった。彼らはヒトラーの原理を語っていくうちに、他人の考えを鵜呑みにしていた自分にその必要が無く、自分にも考えを構築する能力があるはずであることに気付いていった。
レイノルズが努めたポイントは、”あらゆる”宗教”とイデオロギーは、人間が自分で考える努力を妨害する”ことを彼らに自覚させることだった。
* カルトについても、組織の出版物ばかり学習したり、新聞やテレビの情報が害になると教えたり、組織への批判的な情報を禁止するのは情報的孤立のテクニックである。特に、組織内の密告や監視が恐くて自由に意見を言えなければ情報操作は完璧となる。外部の批判を恐がるカルトリーダーはメンバーが外部情報の影響を受けないように注意している。メンバーを常に忙しくするのは思考停止のテクニックでもある。(* リバイバル新聞 06 6/4)
(2) クリスチャンのきよめ
クリスチャンのきよめや霊的刷新についても、犯罪者の矯正と全く同様である。
1) アダムとエバが罪に陥る前は、(仕事の後、毎日夕方に)主を礼拝していた。(創3:8)
心からの「礼拝」は、人間が創られた目的であり、人間の本来の姿である。聖霊様による「霊とまことによる礼拝」を行なうならば、左右の脳の働きのバランスが回復する。(この、大脳皮質の左右に対応する精神の働き(右脳: 宗教・礼拝・芸術・感性、 左脳: 言語、理性、機械的行動)が明確に分かれていることが、人が他の動物と異なる点であり、次の世の、新しい朽ちない体でも同様な精神性を有するのではないかと予想される。)
また、「祈り」は主の再臨の後はすたれるが、「礼拝」は天の御国で永遠に続く。
罪を犯した人間は、礼拝する時必ず、「罪」のための「ささげもの・犠牲」を神様にささげた。私たちには、「完全なささげもの」である、キリストの十字架がある。
2) たましいへの主の語りかけを拒絶する”心のブロック機構”を矯正するためには、みことば(神の言葉)を正確に理解し、それがたましいの中にしっかりと根付いていく必要がある。そして、みことばから必然的に、自身を否定的に捉えることをやめることができる。
「私の民は知識がないので滅ぼされる(無知のために捕らえ移される)。」(イザ5:13、ホセ4:6)
今日、同じように、神を知らない暗闇の力が、人々に、病気、欠乏、思い煩い、精神病などのあらゆる苦しみの奴隷としている。サタンの策略は、私たちがみことばについて無知であることによって、私たちを食いものにすることである。(Uコリ2:11) これは、すでに イエス様が十字架で私たちの身代わりに、私たちに向けられている”苦難”を受けてくださったので、私たちはそれらから自由である、という知識である。イエス様はそれらの代価をすべて支払ってくださったのであり、このことを何よりもまず クリスチャンは知らなければならない。そして、御名によって宣言し、行動していくのである。みことばに基づく言葉や行動と共に聖霊様が働かれる。(ヨハ6:63)
また、「すべてのことを見分け、本当に良いものを堅く守る」(Tテサ5:21)ために、他人のものを鵜呑みにするのではなく、みことばによって自分で考える努力をすること。ただし、争いのもととなる 愚かで無知な思弁ではなく、みことばによる考え方である。サタンによって捕虜や獣のように捕われた状態の人が、罪を「悔い改める」とは、その人が 考えを変えることによって、人生の生き方を変えることである。(Uテモ2:23−26)
「見分け」は、唯一、いつも本物と接することによって育成される。主の御声を聞き分けるのは、主が愛されている民であり、主の近くに座ることによってのみ成される。「私の羊は私の声を聞き分ける」
3) 未熟な子供のような人の人格が成長するためには、どうしても「試練」が必要となる。((注)この試練は、悪魔の”誘惑”と異なる。主の祈りの中で、誘惑には遭わせられないように祈る。) 冒頭の”おぞましさの扉”とは、「試練」のことである。
@ きよめのためには、まず、「イエスの血」がある。これは、最も尊いものであり、無条件に 罪の赦し、完全に神の子となることをもたらす。しかし、古い
肉の性質が残っている。
A 「聖霊様に満たされる」ときは、奇跡的にきよめられている。(ロマ8) しかし、継続的なきよめのためにはどうしても苦しみに遭う必要が残っている。
B ヨブを見ると、一時的に悪魔に渡され、財産、家族、体が打たれ、三人の友人は
ヨブに何か原因があったはずだと言って彼を責めた。そこでヨブは、神をのろわなかったが人生をのろった。サウルやサムソンは一時期
聖霊に満たされたが、後にだめになった。ヨブにも少しばかり人間のプライドが残っていたので、神様よりも自分を義としたのである。したがって、”最後の自我(原罪)”を砕くのは「苦難・試練」である。
この試練のうち最善なものは、「信仰の試練」である。なぜなら「信仰」を主が喜ばれるからであり、天に報いがあるからである。その試練とは、(主に聞き従っての)「信仰」の歩みによって自分からキリストの苦しみにあずかることであり、それは キリストと共に復活の栄光を受けるためである。
「自分のいのちを捨てるからこそ、主は愛してくださる。」(ヨハ10:17) 「試練は忍耐を生み、完全な者とする。」(ヤコ1:2−4)、「信仰の金を火でためす。」、
信仰とは、自分勝手な思い込みではなく、最後まで主の御声に聞き従って、十字架と復活の歩みをし、主のご計画を担うことである(「キリストは信仰の創始者であり完成者」)。この「信仰」を神様は喜ばれる。(ヘブ11:6)
もし、主が始めた働きを、途中から人の知恵で完成へ導こうとしてしまうと、”宗教”になり下がってしまうので要注意。(アズサリバイバル、日本のリバイバルで倒れる東西の2本の大木の預言) こうなると、主の臨在は去り、いのちは消え、わざは何も起こらなくなり、そのかわり悪い霊がやってくる。(”宗教”は、生きているキリスト教ではなく、むしろ終末のにせ預言者のように
反キリストに属するものである。)
平常時の信仰の試練でなければ、「殉教」の試練、すなわち、「さらにすぐれたよみがえり」(ヘブ11:35)になりうる。
4) 最後に、霊的な対処である。人生のどこから落ちたか、どの時点で悪霊を受けたかを、聖霊様に聞いて見分け、罪を悔い改め、イエスの名によって追い出し、その後ただちに聖霊様の満たしを受けること。たいていは、順風満帆の時や大きな成功の後、傲慢になってやられている。悪霊は、怒りや妬みなどの悪い感情を10倍にも増幅する。そして、私たちが主に贖われた者であるにもかかわらず、泥棒猫のように(霊的に)違法な働きを仕掛けるので、これを叱りつけて追出すのである。悪霊とのかかわりが長く、小さい時からであるならば、祈りと断食が必要になる。
* おしとつんぼの霊:
同一記事の、マルコの福音書9:25 と マタイの福音書17:14 を比較する。マルコでは、症状から判断した”てんかん”や”ひきつけ”の霊とは言っておらず、症状からは予想がつかない 「おしとつんぼの霊」とイエス様は見分けて呼ばれた。一方、マタイでは、てんかんの子供とだけ言って、霊の名は書いていない。そのかわり、弟子たちに対し「信仰が薄い」と言われ、マルコ、マタイの両方に、「この種のものには、祈り(と断食)が必要」と言われた。
1) 祈っていないと、神様の語りかけは何重にも語られるが、表面的であり、「からし種」のような 鋭い、ポイントとなる主の言葉が与えられていなければ、その信仰は薄いものとなり、わざは起こらない。(これが”おしとつんぼの霊”という言葉。イエス様は毎日の祈りの中で、御父に”今日、おしとつんぼの霊を追出す”ことをあらかじめ語られていたと考えられる。)
2) 「聞く耳」がないと、主の言葉は入らない。おしとつんぼの霊とは、おし(def)と愚か・無知(dum)の霊のことであり、多くの人がこの霊の影響を受けている。たとえば、子供の時に、父親や先生が”馬鹿”だと言い、暴力やいじめを受けたり、不道徳な扱いを受けたりすると、そのときこの霊が入り、自分を表現できない、恥ずかしがりや、といったような、一生を通してだめな人になってしまう。
また、この霊は、他の霊を引き連れる。(偽り、反抗、束縛、攻撃的思い、盲目、自殺の思い、内なる病、破壊的思いなど) ある人は、子供の時に虐待を受け、誰にも言ってはいけないと言う霊(おしの霊)が入り、感情表現ができず、人との交流が難しくなって、その後さらに
恐れの霊が入った。
さらに一番問題なのは、自分の本当の姿を捉えられないようにし、主の言葉を聞こえなくさせることである。これは、主が用いようとする人にとって致命的である。一度、この霊に捉えられると、それが追出されるまで、主の言葉が聞こえないのである。(メル・ボンド師が言っているように、通訳が不在だったり、肉体的なつんぼであることにより、いやしの時語っている言葉がその人の思索に入らないと
いやしは起こらない。) この霊から解放される時、主の御声が良く聞こえるようになる。