3. ノアの洪水の要素による年代修正 と 古代日本人のDNA



  (1) ノアの洪水の要素による年代修正と縄文時代:


  炭素14法による年代測定は、きわめて微量の放射性炭素14(現在の濃度:C14/C12=1.2×10-12)の測定なので、測定に高度な技術が要る上に、測定誤差がかなり大きい。(他の放射性物質では、測定値として全く使用できないほど誤差が大きい) そして何よりも、炭素14の量が大昔から変わらず一定であることを前提としている。

  しかし、多くの証拠によって、広範囲な大洪水(ノアの洪水)による地球規模の激変期が存在したことが明らかになっている。 この大変化によって、大気にあった「大いなる水の層」が消滅して現在のような大気圏構造になり、飽和曲線的に炭素14の量が増加し現在の比率になったと考えられる。(炭素14の量は現在も増加中で、今から約30000年で飽和するといわれる)
  すなわち、創造からノアの洪水までの上空には、厚い水蒸気の層があって、1次宇宙線に起因する炭素14の生産量がはるかに少なく、C14/C12の値は現在よりもかなり低い割合で一定していたと考えられる。したがって、古い遺物については、実際よりもはるかに長い年月が経ったように測定されるのである。たとえば、世界中にあるノアの洪水の時(4000年前)に閉じ込められた化石は、約7万年前と測定されるのである。
  (→ 地層年代とノアの洪水
  この初期値は、いくつかの試算によって現在の5〜15%程度と推定され、グラフにすると次のようである。

   

  すると、縄文前期(6000〜5000年前)といわれる年代は、(初期値・曲線の設定によっては)神武天皇が即位したといわれる頃(BC660年頃)と重なってしまうのである!(C14の半減期5730年≒6000年より現在の半分、そこからC14/C12飽和曲線に戻して交わる所)
   縄文草創期(1万年前、たとえば横須賀・夏島貝塚のカキ殻、木炭による測定:9400年、考古学的には合わない)。
   縄文前期(6000−5000年前、貝塚、土偶、丸木舟、装飾品・勾玉、海面上昇、気温の上昇)には10万の人がいたと言われ、文化の中心は東日本であった。
   縄文中期(5000〜4000年前、最盛期26万人、抜歯、気温低下始まる)
   縄文後期(4000〜3000年前、16万人に減少、交易漁労民、製塩、ストーンサークル)
   縄文晩期(3000−2300年前、気温2℃低下、海面低下(隆起)(魚介類死滅)により7-8万人に減少、東北:銛漁、北九州・近畿:縄文水田)
  縄文時代のすべてを通してBC1500−BC200年ほどであろう。

    草創期: 夏島貝塚(神奈川)  前期: 南堀貝塚(神奈川)、竪穴住居(奈良時代まで確認)
    中期: 姥山貝塚(東京)     後期: 大森貝塚(東京)、加曽利貝塚(千葉、国内最大の貝塚)
    晩期: 亀ヶ岡遺跡(青森、亀ヶ岡式土器)、板付遺跡(福岡、最古の農村跡)、菜畑遺跡(佐賀、水田跡)


  このときまでに、東アジア系の人々(北海道は北アジア系)が農耕や鉄器、文字などの文化が無いまま日本列島の隅々にまで住んでいた。彼らは、縄文遺跡から良く知られているように、竪穴式住居に住み、石器を使用し、漁労・狩猟、ドングリなどの植物食採取、粟・ヒエの栽培・雑穀の酒、文字なし、抜歯の習慣などの生活で、平均寿命は20歳くらいだった。遺骨の様子から、弥生人と違って、あまり部族間の争いはなかったようであるが、栄養失調と病気が見られる。

  したがって、単純に、次の可能性が考えられる。BC721年アッシリア捕囚となった北イスラエル10部族の民は、「アッシリア帝国内」(T列15、17)や「ユーフラテスの彼方」(T列14)、また、遠くアフガニスタン北部(「ゴザン川」(T歴5))に連行され、一部はその地に残ったが、東方憧憬・太陽神崇拝(エゼ8:16)の強いエフライムの民は、ニネヴェ滅亡(BC612)のすでに50年前には東のはずれの日本列島(「シニムの地(?)」(イザ49:12))にやってきて、短期間に突然定住したことになる。”天孫降臨”の神話と系図はきわめて旧約聖書的(=アブラハム、イサク、ヤコブの系図と同じ)である。また、神武天皇が、船やラバ、ラクダに乗ってやって来た絵が存在する。

  このように、中期〜後期の縄文人は、イスラエルの捕囚以降という比較的新しい時代に生活していた。(可能性は少ないが)もし、神武天皇が実在していたならば、この時期に、他の東アジア系と共に日本にやってきて日本に移り住んだはずである。




  (2) 古代人のDNA分析の特徴:


  古代人のDNA分析は、保存の度合いによって可能なものでもかなり難しく、ミトコンドリアDNAがやっとであり、小さな断片に壊れているならば得られる情報は少ない。また、Y遺伝子の情報は聞かれない。

  * シベリアのマンモス(1999年発掘、3万5千年前=ノアの洪水の時:4000年前、凍土層−15〜−20℃)のDNAは、全体の5分の1しか残っていなかったのでクローンは作れなかった。因みに、人間のクローン(弥生人のクローンなど)を作ることは”クローン法”(2001年6月施行)によって禁止され、違反すると10年以下の懲役または1000万円以下の罰金になる。

  宝来氏による、縄文人のミトコンドリアDNAの初期の報告による南方系説(インドネシア)は例外的(3検体)であったが、後に、宝来氏、篠田氏らが縄文人の個体数を50人以上に増して調べた結果、縄文人と同じミトコンドリアDNAハプロタイプを持つ現在の人々は東アジアなどに広く分布(韓国、カザフ、ウイグル、ブリヤート・モンゴル、インド、ヨーロッパ、中国・台湾の漢族、アフリカなど)していて、しかも、弥生人DNAもこの地理的分布パターンとあまり違わないという結果であった。


          
            * 中妻遺跡は埼玉県白岡町にあり、縄文中期〜弥生時代までの長い時間の遺跡が残っている。
           ** 4の、17個体については、NHKが”日本人のルーツはブリヤート人である”と誤報した。

  つまり、(測定個体数は多くはなく、遺跡の地域も偏っているが、)縄文時代・弥生時代初期の時点では、この結果から単純に、日本の”先住民”としてはほとんど東アジア系の人しかいなかったことになる。
  すなわち、Y染色体DNAのO系統(東アジア系)が本土日本と沖縄に、C3系統(北アジア系)が北海道に、それぞれ先住民として存在し、D2系統が増えだしたのはそれ以降ということになる。(あるいは、居ても居住地が偏っていたり、人口が少なかったのかもしれない。)
  弥生時代〜古墳時代にかけては、支配階級にあったD2系統の民が一夫多妻制のため急増し、ミトコンドリアDNA(母系)とY染色体DNA(父系)のアフリカ・中東系の比率がアンバランスになったと考えられる。
  また、チベット系マナセ族の末裔と考えられる「秦氏」一族についても、4〜5世紀の古墳時代に移住してきたので、このD2を日本にもたらした影響は大きいと考えられる。

  いずれにしても、これらの古代集団は、現代日本人と異なり、東アジア系ばかりであり、アフリカ・中東系などはほとんど存在していない。


  * 現代日本人のミトコンドリアDNAの特徴(by.宝来氏、「DNA人類進化学」、岩波科学ライブラリー、1997 より)
   日本人の10数%にも及ぶ特徴的なグループT、C2 (下図)がアフリカ・中東からの渡来系であるらしいことを示している。

   


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