4. 弥生時代以降の変化と秦氏について



  (1) 弥生時代以降の変化:


  弥生時代には、先住系のO系統(、北海道はC系統)に加え、大陸から朝鮮半島を通ってさらに東アジア系の人々(主として、Y染色体遺伝子のO2b、O3系統)が稲作や鉄器、文字などの技術・文化をたずさえて渡来してきた。遺跡の人骨の傷跡などから、彼らは武器を用い好戦的であった。弥生人の多くは縄文人と混じり今日の日本民族(O2(a、b)、O3、O1; D2、D1; C3、C1)が形成された。このとき、エフライムの族長、すなわち、天皇の家系や伝承は継続し、侵入者によって途絶えることはなく、むしろ天皇家は尊重され、技術者を率いた秦氏の時代には急に大きな天皇陵(古墳)が作られるようになった。そして、天皇家に由来するD系統のDNAは急速に増えていったと考えられる。

  戦前の”皇国史観”(=古事記、日本書紀は絶対正しいとする)では神武天皇は実在したとされたが、現在では、初代から9代までの天皇は架空であるとされ、実在した最初の天皇といわれるのは10代・崇神(すじん)天皇(BC97−BC68)である。しかし、これが正しくても、天皇家は縄文時代晩期〜弥生時代初期の間に渡来したことになる。なぜなら、弥生人が渡来したBC2−3世紀は、炭素14法の年代修正によって、AD1−2世紀にずれ込むからである。この時代は、何らかの自然的な理由(気温の低下、海面低下)で縄文人の人口が激減した時期であり、少なくとも強力な王国などではなかったので、大陸からの新しい技術を持つ天皇一族は日本において支配階級に君臨しやすかったと考えられる。 (cf.16代・仁徳天皇(313−399)、29代・欽明天皇(539−571)、33代・推古天皇(592−628)、50代・桓武天皇(781−806)など。)

  また、伊勢神宮で今も行なわれている警備の仕方(パトロールの仕方、交代の仕方、交代の儀式、人数)は、これは2000年前までエルサレムの第2神殿で行なわれていたのと全く同じであり、これはミシュナのタミド1−3章に書かれているという、かつて来日した老練なユダヤ教のラビの証言がある。すると、日本の古神道の成立年代は、エズラ、ネヘミヤ以降にラビ的ユダヤ教(いわゆるユダヤ教)が成立した後すなわち、10支族がアッシリア捕囚になったずっと後に再建されたユダヤの時代以降ということになる。捕囚となったエフライムがそのような儀式様式を持っていたとは考えられないから、これは後のユダヤ教から、彼らがシルクロード沿いの国にいた時に受けた影響と思われ、この10代崇神天皇起源説の年代と一致している。
  伊勢神宮は、崇神天皇の時代(BC93)に疫病が流行り、民の離反・分裂が起こり始めた(このときアイヌなどが分かれた)のでこれを避けるため、次の垂仁天皇の時代のBC5年に”天照大神”(太陽神崇拝)を祀らせたのが初めといわれる。(『日本書紀』) しかし、外宮は、雄略天皇が478年に天照大神から受けた託宣により作られたといわれ(『延暦儀式帳』の一つの『止由気宮儀式帳』による)、この時、”豊受大神”=”アメノミナカヌシ”=旧約聖書の「主」が祀られ始めたと考えられる。(これは、次の秦氏の渡来によって、国の信仰がリバイバル(刷新)を受けたものと思われる。)

  したがって、弥生時代以降の大陸からの渡来人は、次の順になる。

    @ BC1c: 天皇家一族(エフライム族) ・・・ D系統
    A BC2−3c(AD1−2c): いわゆる弥生人、北九州に朝鮮・中国系の遺跡・遺物 ・・・ O系統
    B 5c:倭の五王の時代に朝鮮系、製鉄技術、鉄製農具、灌漑・土木 ・・・ O系統
    C 5c後半−6c:技術者集団→大和朝廷を強める、; B〜Cの時代に秦(はた)氏(=ユダヤ系・マナセ族)が散発的に渡来し、原始キリスト教、及び、養蚕・機織・銅の鋳造・清酒・雅楽などの日本らしい文化を伝えた。 ・・・ D系統、O系統
    D 7c後半:百済からの大量の亡命者、儒教・仏教・仏像伝来 ・・・ O系統



  (2) 秦氏の謎について:


  秦氏について、まず、秦氏一族が日本に来る前に、朝鮮半島東北部の新羅(4c中−935)に在住していたことは、秦氏の住んでいた地域から出る瓦紋(かわらもん)が新羅のそれであること、奈良の斑鳩(いかるが)の中宮寺にある弥勒菩薩像が当時熱心な弥勒信仰があった新羅の様式であること、などから、現在の定説になっている。(日本に渡来した時に自らを百済出身としたという日本書紀の記述ではうそを言っているのであり、新羅出身と言えば百済と同盟していた日本の敵国出身になったからである。)
  朝鮮半島には、”馬韓”、”辰韓(秦韓)(2c末−4c)”、”弁韓”が成立し、AD3−4世紀頃、それぞれ”百済”、”新羅”、”加羅”となり、各々いくつかの部族が集まった国々であった。秦の使役から逃れてきた流浪の民は、まず古代朝鮮の”馬韓”(穀物の栽培、養蚕)に入り、彼らが後から入ってきた”秦人”(馬韓の人と言葉が異なる)に東の土地を与え、新羅の前身である”秦韓(辰韓)”となったという記録がある(韓伝<東夷伝<魏志<三国志)。しかしここで、”秦人”とは、秦の労役を逃れてきた”中国以外の人”という意味であるので、いわゆる秦氏一族が4−5世紀の新羅時代になってから入ったとしてもおかしくない。新羅が377年にはじめて前秦チベット系(てい))に朝貢したという記録が宋時代の文献にあり、この時代からチベット系の人々と新羅との関わりが出来上がる。

  ここで、さらにそれ以前に秦氏がどこにいたかを考える。秦氏=秦の始皇帝の末裔(秦帝国滅亡・BC207)という戦前の定説は、秦氏が自らの先祖を秦の始皇帝と言い始めたのは9世紀(天平時代の中国ブームの時)なので、正しくない。また、中国人(漢民族)は自らを指して”秦人”(=柵外の人、流浪の民の意)とは言わないので、秦氏は中国漢族以外の人である。
  4世紀に中国の晋が滅亡すると、中国は混沌とした戦乱の時代になり、漢民族以外の『五胡』=匈奴、羯(けつ)、羌(きょう)、鮮卑(せんぴ)、(てい・チベット系・前秦・351−394)、という5つの異民族が覇権を争った。(五胡十六国時代

  そのうちの、チベット系(キョウ=タングート、蔵人)が384年後秦を建国し、わずか33年後に後秦が滅亡(417年)したが、その新羅へ逃亡した民の末裔が秦氏一族であるという説がある。(チベット語は短い単語が特徴で、秦氏の”ハタ”は『辺境』、”太秦(うずまさ)”は『第一(=ウズ)の(=マ)都(=サ)』、”弓月(ゆづき)”は『第一(=ウズ)長官(=キ)』の意味。)(by.田辺尚雄氏(1883−1984))
  そして、この羌は、アミシャブが発見した現在の中国四川省の少数民族の羌岷(チャンミン)族と同じである。羌岷族は、後秦滅亡の時、山地へ逃げた民の末裔である。
  この説によれば、秦氏は、マナセ族の末裔であることが考えられ、新羅経由でそこに長居することなくほとんどすべてが日本に渡り(この時新羅の技術者集団も連れ)、ここから天皇家によるもの以外に日本でさらにD2系統が増えていったと思われる。なぜなら、D系統が多い民は他に見当たらないからである。(韓国でさえも2−4%、中国・漢族0−1%) すでに、BC231年に現在の中国の開封(カイファン、河南省、シルクロードの終点の一つ)にユダヤ人の居留区があった(前漢時代には、シルクロードを通しての交易を奨励していた)ので、このユダヤ人説は有望である。一方、秦氏を率いたといわれる、突厥の弓月(クンユエ)国の”弓月君(ゆづきのきみ)”は、実在した証拠は無く伝説上の人物だったようである。したがって、預言者イザヤ(BC8c)が預言した「シニムの地」(イザ49:12)とは、中国(シニム=秦(シン、BC3c)、支那(シナ)、チャイナ)であり、秦氏の出身地であると言える。

  しかも、秦氏は、日本の古神道に与えたいくつかの影響から、キリスト教徒であり、しかも、景教徒ではなく原始キリスト教のクリスチャンだったと考えられる。なぜなら、ローマ帝国でネストリウス派が異端とされたのが431年のエフェソス公会議、教会追放が451年のカルケドン公会議においてであり、シリア教会で本拠が成立したのは490年であり、秦氏が日本に渡来した4〜5世紀には、景教は始まったばかりだったからである。(景教が中国に伝えられたのは7c) チベット系の秦氏が大和朝廷(天皇家)を助け、私財を投げ打って平安京遷都(桓武天皇はすでに平城京、長岡京と財政難だった)に大いに協力したのは、天皇家にある古代イスラエルの宗教に同調するものがあったからと考えられる。
  (因みに、秦氏の本拠地である京都の”太秦(うずまさ)”の名前の由来は、「イエス・キリスト」であるとも考えられる。(ヘブライ語で「イェホシュア・メシアッハ」、あるいは、「イエシュア・メシアッハ」、アラム語で「イシュ・メシャ」、東の国では「イズ・マシ」、「イザ・マシ」、さらに東のインド北部では「ユズ・マサ」と発音され、それゆえ、日本では「ウズ・マサ」になったという説がある。)

  記録によると、秦氏一族は渡来人のうちで最大の豪族であり、応神天皇(15代)のとき120県(あがた)で数千人規模から、欽明天皇(29代)の時の戸籍によれば7053戸、家族も含めると推定3〜4万人にも増え、当時の人口の10%前後にはなっていたと思われる。平安京遷都以降は、あまり表立った動きをすることなく、先住の人々の中に溶け込み、その社会的地位の優位性から男系遺伝によりさらに増えていったと考えられる。これにより、Y染色体がD系統であるというしるしは増えたが、一般形質は入り混じることにより薄まった。

  
          * 注) 秦氏がマナセ族の末裔のD系統ならば、(秦氏は北海道に行っていないから、)アイヌ人にD系統が多いことが説明がつかない。
                  したがって、同じD系統のエフライム族が前もって渡来していたことになる。



  (3) 大和王朝から分離したエフライムの人々:


  8世紀に編纂された古文献(古事記、日本書紀、風土記)には、(奈良・平安時代の渡来人から見ての)先住系民族の名前として、エミシ、ツチグモ、ハヤトの3つが頻繁に見られる。エミシが東北地方へ南下したアイヌ(当時、蝦夷と琉球は大和国の統治外だった)であることは多くの研究者が言っている。津軽エミシは磐城のツチグモとは別のグループであり、東北南部から九州にかけて広く存在(文献にあるもので陸奥、常陸、越後、肥前、豊後)した先住系民族はツチグモ(都知久母、土具毛、土蜘蛛などと表記)である。ツチグモの特徴は、日本書紀では”長い手足と低い身長”を挙げ、常陸風土記では未だ”竪穴式住居に住んでいたこと”を指摘し、肥前国風土記では”理解不能の言語を使用していた”ことや”漁労の民”であったことが書かれている。南九州ではハヤトの名が挙げられている。ハヤト(隼人)はクマソ(熊襲)と同一民族であることが支持されている。
  大和朝廷(天皇家)がD系統、秦氏もD系統ならば、彼らが同じD系統のアイヌ人やハヤトなどを圧迫し、追放したことになる。

  * ヘブル語で「ケモシュ(Kemoshi)」(民21:19、モアブ人の守護神)と”クマソ”について、 ・・・ イスラエル人エフデは策略によって短剣を上着に隠し持ち、ケモシュの宮に入り込み王を剣で刺し殺し(士師3:16−30)、ヤマトタケルノミコトも策略によって短剣を上着に隠し持ちクマソの王を刺し殺した(日本書紀) ・・・ という、全く同じ伝承を持つ。
  また、ヘブル語で「トシュウェイ・グモ(Toshvei-gumot)」とは”穴に住む者”で、エドム人、すなわち、「岩の裂け目に住む者」(オバデヤ1:3)であり、”ツチ・グモ”という大和王朝に抵抗する、未開で凶暴な人たちだった。

  これらの民は、モアブ人やエドム人そのものではなく、古代イスラエルの、(あるいは、イスラエル文化の影響を強く受けた)大和王朝が、(同じ天皇家一族の子孫であるのに)反攻する彼らを異民族視したことから、このようなヘブル語の名前を付けたと考えられる。  ( by. 「レムナント」誌・2004 10月号・p31、32、レムナント・ミニストリー


  北海道アイヌ(人口25000人以上)は、(今のところ検体数16と少ないが)あらゆる民族の中で最も高い88%もの人がD2系統であり、残りは北アジア系のC3であり、和人・琉球人に含まれているO系統(東アジア系)が欠如していることが知られている。
  6〜7世紀までは『擦文文化』といわれ、本州の”土師器(はじき)”という埴輪にも用いられた素焼きの土器と同じ系統の土器を作り、弥生文化の延長にあった。(cf. 須恵器はその後の百済、新羅などからの渡来人(O系統)が作った) すなわち、D系統でありO系統(東アジア)でない彼らは、初期の渡来系の弥生人であったと言える。彼らは、方形型の竪穴式住居に住み、かまどを使用し、鉄製ナイフ・斧などを用い、鮭などの漁労や狩猟を中心に、麦、キビ、アワを栽培し、ユリ根から澱粉を採取し、穀物酒を作り、東北地方などとの交易によって、鉄製品や少量の米、中国の銅銭などを入手していた。8−9世紀(?)と思われる北海道式古墳も発見されている。

  その後、北海道オホーツク沿岸や樺太などに”擦文文化”と平行してあった”オホーツク文化”の民と交流し、現在のアイヌ文化になった。”熊崇拝”などはオホーツク文化のみであり、擦文文化には無かった。13世紀にアイヌ文化の最盛期を迎え、15世紀に和人が道南に進出するまで続いた。日本の封建制度により、松前藩にアイヌとの交易の独占権が与えられ、アイヌ人は搾取されていった。
  このように、文化的に本州から分離された北海道は、秦氏の影響(=主への信仰刷新、大陸からの技術など)が及ばなかった地域であり、北方アジア(C系統)の影響のみを受けたのである。(アイヌは秦氏の影響を受けなかったので、そのD2系統はマナセに由来するものではなく、一般形質もあまり薄まっていない、ほとんど純粋なエフライムの末裔である可能性がある。)

  アイヌの宗教は、元々『天教』という宗教で、「大いなる炎の神」(出エジ3:1−参照)を崇拝していたが、途中から完全に失われ(cf.沖縄ではイスラエル性がはっきり残っている)、アニミズム(汎神論、あらゆるものに神(カムイ)が宿る)に変化し、”熊祭り”などの偶像崇拝になってしまった。また、文字は存在せず、伝承(古代ユダヤの方法と同じ)によって語り継がれてきた。ただし、アイヌ語は北方の影響が大きいといわれる独立語である。


  * 先日2006年10月21、22日に行なわれた「祈りの祭典 in 北海道」において、アイヌ人に対し和人がした罪を悔い改め、とりなしの祈りがささげられた直後、多くの金粉が降る奇跡が起こったことは記憶に新しい。これは、アイヌ人、また、日本人に対する神様の特別なみこころがあることをあらわし、失われたイスラエルに対する主の熱い思いが伝わってくる。(→ 「祈りの祭典 in 北海道」 で出現した 金粉 の奇跡


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